Kuni Takahashi Photo Blog

フォトグラファー高橋邦典
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初めての中国

2015-08-26 06:28:13 | アジア
株の値下がりや人民元の切り下げでニュースを賑わせている中国だが、いまや世界経済に大きな影響を与えるこの「アジアの巨頭」の首都北京で、数日を過ごす機会があった。僕にとって中国を訪れるのはこれが初めて。日本の隣国として色々な意味で近い国にも関わらず、これまでずっと縁がなかったのだ。

出発前、八月に中国を訪れることに、少しばかり神経質になっていた。来月はじめの「戦勝記念日」を前に、太平洋戦争がらみのプロパガンダが増えるので、反日感情が高まる時期でもあるからだ。しかしそれも杞憂に過ぎなかったようで、日本人だからとネガティブな経験をすることもなく過ごすことができた。もっとも、3日間の仕事を終えて自由に町を歩けたのはたったの1日だけ。こんな限られた時間での経験を語るのもおこがましいが、初めての中国の印象をいくつか述べてみたい。

(1)思っていたより、英語を話す人がまだまだ少ない。宿泊していた5つ星ホテル(いいクライアントをもつとラッキーだ!)のレストランでも、英語をあまり解さないウェイトレスがいたのには驚かされた。ハウス・キーピングのスタッフはもう論外。もっとも初歩的な「I」や「 You」、「 Big 」とか「Small」といった単語さえ通じないので、会話が全く成り立たない。不完全であっても、漢字での筆談のほうがよほど意思疎通ができる。

(2)建物が巨大。高さはそれほどでもないが、幅や長さが日本や米国の2−3倍はありそうなビルがゴロゴロしている。こんな威圧的なほどに大きな建物が並んでいる光景をみていると、巨大なこの国のスケールを感じずにはいられない。

(3)一昔前によく映像や写真で目にした、広い道路を埋めつくすように走る何百という自転車の姿はもう過去のもの。自転車よりも電動モーターのついた原付を良く見かけるが、中流階級はみな車を持てるようになったということだろう。さらに、メルセデス、BMW、アウディなどの高級車がやたら目につく。ランボルギーニが街を走っているのさえ、4日のあいだに2度もみた程だ。多くは「ニュー・リッチ」とよばれる成金だろうが、裕福層の増加はめざましい。ある晩、まだ新しいブティックホテルが併設するショッピング・センターの前に立っていると、目の前で横づけされていくのはほとんど高級車ばかり。それを運転する多くはまだ20代とか30代前半にしか見えない若者たちだった。

(4)観光客の多さに圧倒される。日本にあれだけの中国人観光客が訪れているのだから、国内旅行者の数は言わずもがなだ。観光スポットである世界最大の宮殿、故宮を訪れた朝のこと。混雑を避けようと朝7時半に到着すると、チケット売り場の開く30分前だというのにすでに何千の人だかり。所構わず地べたに腰を下ろして休む家族やグループ観光客の姿は、まさにインドを思い出させる光景だった。インド同様、観光客の増加は、人々の間に経済的余裕ができたことの反映だろうか。

(5)撮影の仕事は、制約が多くてやりづらかった。政府のメディアに対するコントロールがまだまだ強いことを実感。

(6)蛇足だが、評判通り、老若男女みな大声。すぐ隣に座ってる人や、携帯で喋るのに、なんであんなに声をはり上げなくてはならないのか、理解に苦しむ。この大声文化に何か歴史的背景はあるのだろうか。

言葉に関して、僕にとっては珍しい経験をさせてもらった。機内のエアーホステスから、ホテルのレセプション、 吉野家のおばちゃんまで、10人中10人、例外なく中国語で話しかけられたのだ。僕は中国でよく見かける短髪だし、顔も平均的東洋人なのでもっともな話ではあるのだけれど、考えてみたら、「人種の坩堝」である米国を除いては、これまで住んだり訪れた国では、僕は明らかな「外国人」だったのだなあと実感。何処にいっても「中国人」として目立たずにいられるのは嬉しかったが、話しかけられる度に「すいません。中国語できないんです」と弁明するのがそのうち億劫にはなった。

滞在時間が短すぎたのが残念だったが、天安門広場を訪れることができたのはいい経験だった。これまで幾度となくテレビや新聞、雑誌で目にしてきたこの場所。戦勝記念日の式典準備のために近くまではいけなかったが、実際に広場に立ち、あの見慣れた赤門に掲げられた毛沢東の肖像を前にしたら、どういうわけか鳥肌がたつほどの感動を覚えてしまった。1989年の天安門事件で撮られた、もっとも歴史的な写真のひとつ「戦車の前に立ちふさがる男」が胸に蘇ってきた。

(もっと写真をみる http://www.kunitakahashi.com/blog/2015/08/26/my-first-trip-to-china/ )
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「国際ヨガの日」の隠された思惑

2015-06-19 21:44:38 | アジア
今週日曜日の6月21日は「国際ヨガの日」。インドのモディ首相が国連に働きかけ、今年制定されたばかりの日だから、知っている人はまだ多くはないかもしれない。それでも報道によれば177カ国がなんらかのかたちでこの日を祝うといわれているので、なかなか注目は集めているのだろう。言いだしっぺであり、ヨガの本家であるインドでは、さすがに政府をあげての熱の入れようで、この日の朝におこなわれる大規模な集団ヨガ・セッションには3万5千人が集まると予想されている。僕は前日より国外にでてしまうので撮影できないのが残念だ。

モディ首相は、この「国際ヨガの日」を起爆剤として、若者たちを中心としたヨガの普及を熱心に推し進めようとしている。政府内では学校での必修科目としてヨガをとりいれようという動きもあるほどだ。しかし、こんなヨガ・フィーバーの熱が上がるにつれ、政治的議論が起こり始めた。単に国民の健康向上という面以外に、実はモディ政権には隠された真の思惑があるんじゃないか?

西洋の国々や日本では、ヨガは一般的に健康法のひとつとして受け入れられおり、そこに宗教色はほとんどない。ところがインド人にとっては、ヨガはヒンドゥー教のサンスクリットと切り離せないものであるから、どうしてもヒンドゥー教のイメージがつきまとう。そのため、ヨガの普及を政府が促進することに対してイスラム教徒たちが反発しだしたのだ。

もともとモディ首相にはグジャラート州知事時代から「ヒンドゥー教至上主義者」というレッテルがはられていた。2002年の同州内の暴動中、イスラム教徒への惨殺を放置し、何の手立てもうたなかったという理由からだ。しかし首相になってからは、選挙で多大な協力をうけたRSS(ヒンドゥー至上主義の民族義勇団)とも注意深く距離を置き、極右のイメージを払拭しようと努めていた感があった。イスラム教徒たちがモディ政府の動きには敏感になるのはそんな理由がある。

モディ首相がついに本性を表わしてきたのか、それともイスラム教徒たちの単なる考えすぎか?答えがでるのには数年は要するだろう。

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世界最大の動物生贄

2015-01-27 14:56:29 | アジア
ネパール南部、インドとの国境から20キロ程離れた農村バリヤプールにある寺院で、5年に一度ひらかれるガディマイ祭。ガディマイとはヒンドゥー教の女神のひとつで、1ヶ月に及ぶ祭りの期間中、寺院は女神を詣でる数百万の人々でごった返す。もっとも賑わう「神への生贄日」に、祭りを訪れた。

高いレンガの壁で囲まれた広大な空き地に集められた水牛たちが、草を食みながらゆっくりと歩き回っている。ざっとみても2−3千頭はいるだろう。かなりの数だ。午前9時をまわった頃だったか、壁の入り口から入ってきた100人を超える男たちが、水牛たちの間を縫うように、広場に散らばっていった。彼らはみな刃渡り50センチ以上もあるナイフを手にしている。まもなく男たちは、ナイフを大きくふりあげ狙いをさだめると、片っ端から水牛の首を切り落としはじめた。頭を失った胴体は一瞬で地面に崩れ落ち、首から血が吹き出してくるのがみえる。2時間たらずで広場は黒い屍でびっしりと埋め尽くされ、僕の目の前にはこれまで見たこともなかった凄惨な光景が広がった。生贄にされるのは水牛だけではない。鳩、ネズミ、鶏、ヤギ、そして豚といった動物の新鮮な血を神に捧げることによって、人々は病からの回復や、豊作を願うのだ。祭りのあいだに殺される動物の数は、20万を超えるといわれる。

ガディマイ寺院の生贄の伝統は18世紀にはじまったといわれるが、この残酷ともいえる大量殺戮に対して、近年は批判が高まってきた。 生贄の中止を求めて欧米でもデモがひらかれるようになったが、寺院側は「これは伝統。やめることはできない」と、聞く耳をもたない。しかし、伝統だけではなく、経済的利益も大きな理由との声もある。

水牛の持ち主から徴収する「生贄代」や、殺戮後の肉や皮を業者に売る利益など、生贄は寺院にとって無視できない収入源だ。さらに、宿泊や飲食費など、祭りの期間中に訪れる数百万の人々による経済効果もかなりのものになる。田畑しかない田舎町では、5年に一度とはいえ、この祭りは観光客を呼ぶ大切なイベントだ。ガディマイ祭りを誇りに思っている地元民たちも決して少なくない。それでも、動物福祉組織をはじめとした地道な啓蒙活動も徐々に実を結び、殺された水牛の数はおよそ4千頭。前回の2009年に比べて半分近くまで減少した。

果たしてこの「悪しき伝統」をなくし、生贄なしのガディマイ祭りが実現するのか。次の2019年を期待しよう。

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ビン・ラデンは英雄?

2014-09-05 10:26:30 | アジア

数ヶ月前、パキスタン北部のアボタバードを訪れた。2011年にオサマ・ビン・ラデンが米海軍特殊部隊によって殺害されるまで身を隠していたといわれる町だ。ビン・ラデンは何年もここに住んでいたというが、果たしてこのことをパキスタン政府は知らなかったのか?また、なぜ米軍はビン・ラデンの亡骸を海に捨て、彼を殺したという証拠を何も残さなかったのか?様々な疑問が彼の死を巡って残るが、恐らくこれに対する答えは、この先長い間明かされることはないだろう。

パキスタン滞在中、農民から大学生まで、異なった教育水準の人々の話を聞いてあらためて気づかされたのが、この国の人々の多くが、ビン・ラデンに対して好意的な印象を抱いていたということだ。学歴もあり、9―11同時多発テロに関してアメリカに同情的な人々でさえ、ビン・ラデンを「テロリスト」としてではなく、「レベル」すなわち「アメリカの帝国主義に対する抵抗者」と捉えているようだった。

アメリカに20年近く住み、インドに居を移した現在も欧米メディア相手に仕事をしている僕の感覚は、どうしても欧米よりになってしまうことは否めない。9―11テロでは当時働いていた新聞社の同僚の父親がこの事件で殺されたし、破壊され瓦礫と化したグラウンド・ゼロを目前に、ビン・ラデンに対して「偏狭な思考しか持てないテロリスト」のイメージしかもてなかった。そしてそれはいまでも変わることはない。

しかし、これまで様々な国の現場で仕事をしてきて、立場が変われば考えも変わるし、万人に共通な価値観や善悪などありえないということは体で学んできた。パキスタンでの経験もその例に洩れず、多くのアメリカ人たちにとって残虐なテロリストであるビン・ラデンも、立場の異なる人間にとっては、「英雄」にもなりうるわけだ。

パキスタンで知り合ったパレスチナ人ジャーナリストが印象深い話をしてくれた。9―11テロがおこってしばらくした頃、友人のアメリカ人を招いて食事をとっていたときのことだ。

「9-11のとき、崩れそうになっているビルから飛び降りる人々の姿をみて、君はどう感じた?」

アメリカ人の友人の問いに、彼はこう答えた。

「イスラエル軍によって次々と殺されるパレスチナ人をみて君が感じるのと、多分同じ気持ちさ」

このパレスチナ人が言いたかったのはこういうことだ。アメリカ人もパレスチナ人も命の重さは同じはず。それなのに、どうしてアメリカはイスラエルの暴挙には目をつぶり、9-11のことばかり嘆くのか?彼の答えをきいて、アメリカ人の友人は相当狼狽したという。おそらく彼は、それまでパレスチナ人の立場で物事を考えてみたことことがなかったのだろう。

ベトナムからニカラグア、サルバドルなど、アメリカは自らの国益のために多くの国の内政に干渉し、政権転覆を謀ったり、ときには独裁者の非道をも支援してきた。そんなアメリカの外交政策に抵抗感を持つ人は少ないないはずだ。近年においてはイラクやアフガニスタンへの理不尽な軍事侵攻の失敗によって、地域を混乱におとしめたことで、多くのイスラム国を敵にまわしてしまった感もある。これは、極端な反米を標榜する過激なイスラム主義者たちが増幅する下地をつくってしまった。こんな背景を考えれば、パキスタン人たちがその教育水準を問わず、 ビン・ラデンを肯定的に捉えているのも理解できる。

ここひと月のあいだに、イスラム過激派の「イラク・シリアのイスラム国(ISIS)」によって、二人のアメリカ人ジャーナリストが最悪のかたちで処刑された。どんな理由があろうとも許し難い非道ではあるが、悲しいことに世界の裏側では、この残虐な行為に拍手をおくっている人間たちが存在するのが現実なのだ。

異なる宗教間や社会風習、民族などその違いは様々だろうが、立場が変われば正義も変わる。その現実を踏まえずに、お互いが自らの価値観を押し付けようとしている限り、暴力と憎しみの連鎖は続くことになるだろう。

(写真:すでに解体され瓦礫だけが残るビン・ラデンの住処)
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フェイスブックで印パの友好

2014-04-17 21:05:13 | アジア
2年ぶりに訪れたパキスタンでの短い滞在から戻ってきた。

田舎部での撮影の2日目、おかしな天気に見舞われた。首都イスラマバードからの道中は青空だったのに、目的地に着いた途端黒雲が空を覆いはじめ、大粒の雨が降り出してきた。すぐに止むだろうと高を括っていると、なんと小粒の雹が混ざりだしたではないか!こんな天気などまったく予期していなかったので、雨具を車中においてきた僕はずぶ濡れに。不幸中の幸いだったのは、雨雲のおかげで写真が撮りやすくなったことだ。快晴の強い光ではコントラストが強すぎてなかなかいい写真をとるのは難しい。

今回の仕事の内容はクライアントの記事の発表前なのでまだ書けないが、数日前にパキスタン絡みでひとつ興味深いことに遭遇したので、紹介したい。

パキスタンの友人から、フェイスブックをとおしてあるウェブサイトのリンクが送られてきた。「メディアの伝えないパキスタン」と題されたそのページには8分程の写真スライドショーが載せられており、風景や町の景色、民族文化にスポーツイベントや政治的なものまで様々なパキスタンの写真が紹介されている。こんなところがあったのか、と息をのむほど美しい雪山や海岸のイメージもでてくるのだが、僕の目を引いたのはこのページに書き込まれたひとつのコメントだった。

「敬意を表して。インドより」北米に住むインド人の残したこの短い書き込みに対して、120以上もの反応が寄せられていたのだ。多くはパキスタン人からのもので、コメントに対する感謝を表したものだった。「大いなる敬意を君に。脱帽」、「君のようなインドの人々に、パキスタンから敬意と平和を」、「パキスタンを代表して、感謝します」などなど。

もしコメントがインド人によって書かれたものでなかったら、ここまで多くの反応はなかったと思う。これは、いかにパキスタン人が、特にインド人による、ステレオタイプの悪いイメージに辟易しているかのひとつのいい例だろう。僕自身もインドで生活するなか、これまで数えきれない程パキスタンに対する罵詈雑言を耳にしてきた。雑貨屋の店主から大学生まで、教育レベルに関係なく、多くのインド人達はパキスタンに対して悪いイメージ、ときには敵意さえも持っている。インド国内で、パキスタンからのイスラム過激派によるテロは頻繁におこるが、その逆はほとんどないので、インド人たちの気持ちもわからなくはない。ただ、そういったインド人たちのほとんどはパキスタンに行ったこともなく、現地人とつき合ったこともない人ばかりなので、自己の経験をもとにした悪意を持っているとは思えない。結局は他者に植え付けられた悪いイメージを鵜呑みにしているに過ぎないのだ。

いずれにしてもこういう現実なので、このフェイスブックのコメントのように、ときどき心あるインド人がパキスタンに対して好意的な意見を述べたりすると、それはパキスタン人たちにとっては相当喜ばしいことなのだろうと察するのは難しくない。

と、ここまで書いて、規模はまだ小さいものの、日本にも似たようなことが起こりつつあるなあと気づかされた。露骨に反中国や反韓国を唱える集会やネットへの書き込みだ。こうして中・韓人に敵意をむき出しにする彼らも、一体どれだけの当国のことを理解したうえで反発しているのか怪しいものだと思う。結局は政治的思惑により、他者によってつくられたイメージに踊らされているだけなんじゃないだろうか。

いろいろと物議の多いフェイスブックだが、今回はうまくインド・パキスタン両国の架け橋となったと思う 。コメント欄のやりとりは読んでいて心温まるものだったし、国境をもたないソーシャルメディアが、わずかながらも両国の友好に一役買った、といったところか。

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富豪たちの社会貢献

2014-03-10 09:02:37 | アジア
初めて訪れるバングラデッシュで数日を過ごした。ニューヨークシティの前市長であるマイケル・ブルームバーグの関わる公衆衛生関連事業の撮影のためだ。ビジネスニュース系のメディア会社を経営する彼は、多くの私財を慈善事業に費やしているが、そのチャリティーを組織化したものがブルームバーグ・フィラントロフィー。この組織は、ジョンズ・ホプキンス大学や世界保険機関(WHO)などと提携して世界中で活動をしており、環境、教育、公衆衛生やアートに及ぶまで、その内容は幅広い。

この組織が先月末、一千万ドル(約10億円)を寄付してバングラデッシュで子供の溺死防止のための事業を立ち上げた。溺死防止といってもピンと来ないかもしれないが、現在バングラデッシュでは毎年およそ1万2千人の子供達がため池や川などで溺れて命を落としている。これは一日あたり32人の割合だ。事故のほとんどは、ため池の多い農村部で親が目を離した隙におこるので、それを防ぐために保育所の設立、保母の育成、さらにプレイペンとよばれる幼児用の柵の製作を中心としたプログラムがつくられた。

ブルームバーグ・フィラントロフィーが昨年、世界各地のプログラムに寄付した総額は4.52億ドル(約460億円)。ブルームバーグ氏は推定300億ドル(3兆円)あるといわれる自らの財産を生前中にほとんどすべて寄付すると公言している。もう僕ごときの一小市民には感覚の追いつかない数字だ。

このような慈善事業といえば、ビルとメリンダ夫妻のゲイツ・ファンデーションが思い浮かべる人も多いだろう。いろいろと批判材料はあるものの、ほとんどの金持ちが自分自身や家族のことしか頭にないなかで、大富豪がこういうかたちで社会に貢献する行動には敬意を表したいと思う。現場の村人たちや子供達が恩恵を被っていることは動かし難い事実だし、他者からの募金なしでは運営できないNGOなどとは違って、彼らは自分の私財を投じているわけだから、なおさらだろう。

話は変わるが、今回初めて訪れたバングラデッシュの交通渋滞にはさすがにたまげた。密集都市ムンバイに4年住んで渋滞には慣れっこになっていたが、首都ダッカの混雑はもう救いがないほどだ。救急車が渋滞にはまって動けなくなるのも何度か目にしたが、これでは手遅れになって命を落とす患者も少なくないだろうな、などと憂慮してしまった。ブルームバーグ氏、次の慈善事業の案として、渋滞解消策とか、現場で救命できる救急隊員の大量育成などはいかがでしょうか?

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インドの宗教対立

2014-02-13 14:38:45 | アジア
先月、デリーから130キロほど北にある町、ムザファルナガールを訪れた。昨年9月におこったヒンドゥー教徒とイスラム教徒(ムスリム)の衝突で、家を追われた避難民達に会うためだ。衝突からすでに4ヶ月が経つにもかかわらず、1万5千人をこえるムスリムたちが、この町に点在する避難民キャンプで生活していた。

冬の寒さが厳しくなり、12月半ばまでに35人の子供達がキャンプで死亡したと報告されると、事態の悪化を恐れた州政府はキャンプを閉鎖することを決定。テントの住人達を半強制的に立ち退かせた。僕がキャンプのひとつを訪れたのは、閉鎖の数日後だったが、そこで冗談のような光景に出くわした。わずかばかりの家財道具をまとめてキャンプ地をでた家族達は、なんと道をへだてただけの隣の空き地にまたテントをたてて住み始めていたのだ。50メートルと離れていない場所に、以前と変わらないキャンプができていた。

「まだ怖くて家に戻れないのさ」毛布で身体を覆った老女が、水タバコを吹かしながらこう言った。警察がいくら説得しても、村に戻ることは安全ではないと感じており、住民達のほとんどはそれを拒否していたのだった。

昨年の衝突の原因は定かではないが、ヒンドゥーの女性がムスリムの男性数人によって嫌がらせをうけた事件がきっかけらしい。その報復として、村々でムスリムの家族が集団で襲われ始めたのだ。インドにおけるヒンドゥーとムスリムの対立は根が深い。普段はあからさまに表面にはださないが、多くの一般市民達はお互いに対する不信感を心の内に秘めている。ささいな事件が、歯止めのきかない殺し合いに発展することは十分にあるだろう。

「村の彼ら(ヒンドゥー)のいうことなどなにも信用できないさ」老女が寒さで唇を震わせながら、こうつぶやいた。

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路地裏の中毒者たち

2014-01-28 15:13:19 | アジア
「インド警察が北部カシミール地方で、パキスタン側からやってきたトラックから100キログラム以上のヘロインを押収」
数日前、ネットでこんなニュースを目にした。インド側の情報によれば、アーモンドを運ぶトラックに隠された114袋のヘロインがみつかり、6年前にカシミールで両国を結ぶ商業交通網がひらかれてから最大の摘発事件になったという。

この記事を読んで、2年ほど前にパキスタンの港町カラチで撮影したヘロイン中毒者たちのことを思い出した。路地裏や橋の下で、垢と埃で汚れきった男たちが、ヘロインの粉末をライターの火であぶりながら吸引したり、液体化したものを腕や足の静脈に注射していた。カメラを持った僕が近づいても目に入らないほどにハイになって白目をむいている者も少なくなかった。

パキスタンやアフガニスタンの裏通りでは、ヘロイン中毒者たちをみかけることはそれほど珍しいことではない。世界最大のケシ(ヘロインのもとになる阿片を含む植物)の栽培地であるアフガニスタンは、世界中で消費されるヘロインの80パーセント以上を供給するが、そのうち4割はパキスタン経由でアジアやヨーロッパへと流れていく。当然それはパキスタン国内の市場でもさばかれ、一回分100円にも満たない、ヨーロッパよりも遥かに安い値段で手に入るので、中毒者は増える一方だ。現在パキスタンには、およそ100万人のヘロイン中毒者たちがいるといわれる。

パキスタンに限らずどこの国でも麻薬取引は莫大な利益をもたらすビジネスだ。どんなに警察が取り締まりを強化しても、マフィアやカルテルによる麻薬ビジネスが撲滅されることはない。この地域では、ヘロインがタリバンや他のイスラム武装グループの貴重な資金源となっていることは言うまでもない。

今年はアフガニスタンからNATO軍が撤退を始める予定だが、撤退後はこの地域の麻薬ビジネスはさらに活性化してしまうだろう。
「堤防の水門をあけるようなものだ」
そんな懸念の声も聞こえてくる。

次にパキスタンを訪れるときは、吸引したり注射針を腕に差し込んでいる中毒者たちが路地裏にあふれているんじゃないだろうか….そんな気がしなくもない。

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スポーツ王国?ブータン

2013-10-27 19:45:53 | アジア
これまでずっと行ってみたい国のひとつだったブータンを訪れることができた。いくつかのテーマで撮影してきたが、予想外だったのがスポーツの取材。アーチェリーとバスケットボールの試合を撮る機会があった。

アーチェリーのトーナメント決勝戦で、選手として参加していたブータンの王子ひとり、ジグイェル・グエン・ワンチュクと出会った。まだ29歳のこの若く聡明な王子と、昼食休憩のときに少し話すことができたが、ブータンの国技であるアーチェリーについて、彼の語ったことがなかなか興味深かった。

「心を無にすることが仏教の真理なら、アーチェリーも同じこと。いったん弓をひけば、すべてのことは頭から消えうせて、無の境地に達するんです」

強者の揃った彼のチームが優勝を飾ったが、王子が嗜むのはアーチェリーだけではない。バスケットボール、マウンテンバイキング、射撃など、実に多岐にわたる。彼は、2010年に始まった1日で268キロの山道を走破するマウンテンバイクのレース「ツアー・オブ・ドラゴン」の創始者のひとりでもある。端正な容姿で日本にもブームを巻き起こした国王と王妃をはじめ、この国の王族はみなスポーツには熱心で、ほぼ毎日のようにバスケットボールやサッカーなどに精をだしているという。

どうしてこれほどスポーツ熱が高いのだろうか?

「スポーツは、人間が作り出した最高のものでしょう」

王子は言った。スポーツの興進をとおして、

「ブータンの国民達に、『やってやれないことはない』ということを知ってもらいたいんです」

彼の言葉には感心するし、スポーツを健全な社会形成に役立てたいという気持ちもよくわかる。しかし現実は言葉でいうほど単純ではない。まだこの国は、選手がプロとして生活できるほどの環境が整ってはいないのだ。政府がもっと補助金などを使ってスポーツ社会のシステムをつくっていかない限り、王子の理想も実現は難しいだろう。

「やる気があって、才能のある選手も少なくないのに、彼らの親達はあまり子供達がスポーツに熱心になりすぎることをよく思わないんです」

バスケットボールのコーチがこんなことを言っていた。親達は子供がスポーツに熱をあげるよりも、進学することを望んでいるのだ。

「どんなにいい選手だって、バスケットだけではとても生活なんかできないんですよ」

ブータン滞在中、この国の魅力である美しい山々や、親切な人びととの交流を堪能することができたが、同時に「スポーツ王国」であるというあらたな一面も発見することができた。1984年に初めてオリンピックに参加したブータンだが、メダルを獲得する日がくるのも、そう遠い未来ではないかもしれない。

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アジア最大の太陽熱発電所

2013-10-09 20:02:21 | アジア
今年5月に完成したばかりの、アジア最大の太陽熱発電所を撮影しにインド西部ラジャスタン州を訪れた。

太陽熱発電とは、集めた太陽光を熱源としてタービンをまわし発電するシステム。太陽電池で発電する太陽光発電より、費用面でも効率がよく、蓄熱により24時間の電力供給も可能なシステムだ。

インドのゴダワリ社が建設したこの発電所では、使用されているミラーパネルは5000枚以上。このミラーで集約された太陽熱をもとに、最大50メガワット発電することができる。日本の一般住宅向けのソーラーパネルの平均出力は4キロワットほどなので、これをもとに換算すると1万2千戸以上の供給量だ。

人口12億以上をかかえ電気需要の貪欲なインドで、こういった自然エネルギーの技術の結集をみることは嬉しいことだが、残念ながらこの発電所の経営が順調に進んでいるというわけではない。

この地域では砂嵐がひどくなることがあり、舞い上がった砂粒が太陽の光を遮断してしまうと何日間もどんよりと曇った状態になり、発電所が稼働できなくなってしまうのだ。発電所計画時に、太陽発電に関する信頼できる気象データがなかったことが原因だった。また、費用の面でも予期していなかった問題が発生した。痛手のひとつは、米国ダウ・ケミカルによる熱トランスファー液の値上げだった。熱トランスファー液は太陽熱発電に欠かせない材料だが、発電所の施工が決定したあとに、その価格が2倍近くに引き上げられてしまったのだ。ちなみにダウ・ケミカルといえば、ベトナム戦争時代にナパーム弾や枯葉剤をつくりつづけ、さらに米国本土でも工場のあるミシガン州でダイオキシン汚染をひきおこした企業だ。
さらに、インド通貨のルピーの、今年の大暴落によって、輸入に頼る主要部品の相対価格が高騰。メインテナンスにかかる支出も予定を大幅に上回ることになってしまった。

新事業にはこういったリスクはつきもの、ともいえるが、すぐに利益のでにくい対費用の問題もあって、なかなか多くの企業が代替エネルギー部門に参入できないでいるのが現状でもある。しかし、再生可能エネルギーが今後ますます重要になっていくことは間違いないはずだ。望むのは、これまでエネルギー分野で巨額の利益をあげてきた企業が、いまこそ将来のエネルギー技術発展のために長い目で投資をしてほしい、ということだ。そして、僕らひとりひとりの、資源や電力に対する意識を変え、浪費をとめること。それがこれまで利益と利便性のために環境を犠牲に電力を無駄に消費してきたこと対する、地球への罪滅ぼしにもなると思うのだが、いかがなものか。

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カシミール:抗争から利益を得る輩

2013-08-29 09:55:02 | アジア
少し前になるが、警察官によるでっちあげ殺人の遺族を撮るために、カシミール地方の奥深くにあるドダという村を訪れた。この地域は数年前まで武装勢力の抗争が激しく、カシミールのなかでももっとも危険な村のひとつともいわれていたところだ。

今年はじめ、警察官のシュリ・クマー・シャーマが逮捕された。武装兵に仕立て上げた若者をうまくまるめこんで、警察署への手榴弾投げ込みを画策した容疑だ。

シャーマはこれまでも多くのでっちあげをおこなってきたようだが、手口はだいたいこんな具合。携帯電話と現金(時にはなんと8万円も)を与えて若者をうまくまるめこみ、なにがしらの理由をつけて山中に行かせる。その後若者を追いかけいって殺害し、遺体のそばに武器を置いて、若者を武装勢力の一員にみせかけるのだ。武装兵を殺したという手柄で、シャーマは階級昇進と特別ボーナスをものにすることができる。

シャーマのでっちあげの犠牲者の一人とされる、フセイン・マリックが殺されたのは2009年。仕事から家に戻る途中で襲われ、撃たれた。

フセインの弟バシアーが、未亡人のシャナザの5人の子どもと共に住む山奥の小さな家を訪れた。殺されたあとフセインの遺体の横に、まるで彼が持っていたかのように銃が置かれてあったという。兄は銃など持っていなかったし、ただの貧しい労働者で、家族の誰もが武装勢力とはなんの関わりもなかったとバシアーは言った。シャーマが逮捕されたことで、ようやく彼は兄の死について語れるようになったのだ。

「それまでみなずっとシャーマを恐れながら暮らしてたんだ」

警察官によるこんなでっちあげはこれまでも多く噂にはなっていたが、シャーマの件のように逮捕まで至ることはごく少ない。カシミールに限らず、武装抗争がなくならない理由のひとつに、シャーマのように暴力から利益を得る人間が後を絶たないから、というのは悲しい現実でもある。

話は変わるが、カシミールの首都スリナガールからドダに行くのに車で6時間。ここからフセインの家に辿り着くのに、細い山道と岩路を2時間かけて登らなくてはならなかった。この徒歩での行程はまったく予期していなかったので、村まで降りてきたときにはもう膝ががくがく。胸が悪くなるような事件の撮影だったが、少なくとも普段みる機会のない美しいカシミールの山々や川に接することができたのは、幸運だったか。

(もっと写真をみる:http://www.kunitakahashi.com/blog/2013/08/29/kashmir-benefiting-from-militancy-battles/ )
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子供たちを殺す謎の病気

2013-08-16 13:31:34 | アジア
原因不明の病気の記事のための撮影で、先月北部のビハール州を訪れた。

死亡率の高いこの病気がビハール州で集中的に報告されたのは1995年。以来、年間数千人が死に至っているというが、その多くは子供たちだ。症状としては高熱や頭痛、発作など日本脳炎にそっくりなのだが、同一ではない。蚊が媒体になり、主に雨期に多い日本脳炎と違って、この謎の病気は4月あたりから猛威を発揮し、雨期の始まる7月には収まっていくのだ。研究者達の懸命な調査にも関わらず、原因となるものはまだ何一つわかっていない。

病室に足を踏み入れると、目に入ってきたのはベッドに横たわる4人の子供達だった。みな白目を開けているような状態で、意識もほとんどない。何もできずに憔悴しきった親たちの前で、点滴や酸素のチューブに繋がれていた。
「もうすぐ雨期が始まるので患者の数は減ったけれど、一月ほど前は2つの病室が子供達で一杯でした」
案内してくれた医者が言った。

病気の追跡調査をおこなうチームに同行して、農村を訪れた。医者と看護師が数週間前に退院した患者の家を訪れ、2度目の採血をおこない、さらに住居環境などを細かく調べる。病気の原因を究明するために必要なフィールドワークだ。

村の奥にある一件の家の裏に辿り着くと、幼い子供二人と赤ん坊がテントの下で座っていた。泥でつくられた彼らの家が、数日前に崩れてしまったという。典型的な極貧農家の家族だった。
「サンジュウはどこですか?」医者が尋ねた。サンジュウは4歳の患者で、病状が良くなって数週間前に病院を退院していたはずだった。
「亡くなりました…」父親が答えた。退院した直後にまた症状があらわれ、発作が起こってあっという間に死んでしまったという。

人の死や不幸などこれまでいくらも撮ってきたが、今回の仕事はなかなか胸の痛くなる仕事だった。幼い娘をもつ僕にとっては、ファインダーをのぞきながら、いやでも子供たちと自分の子が重なり合ってしまったのだ。

(もっと写真をみる http://www.kunitakahashi.com/blog/2013/08/16/child-killing-mysterious-disease/ )
(同記事は、Yahoo Japan News にも掲載しています)

少女サハー・グルの覆された正義

2013-07-11 17:07:39 | アジア
数日前、ニューヨーク・タイムスのある記事をみつけて、愕然とさせられた。

「アフガニスタンの法廷、少女虐待の有罪判決を覆す」そう題されたこの記事の内容はただでさえ腹立たしくなるのに、僕の胸くそは一層悪くなった。僕はこの少女を知っていたのだ。

北部のバグラン州の田舎の村で、サハー・グルが無理矢理嫁にだされたのは13歳か14歳のとき。5000ドル(50万円ほど)で家族に売られたのだ。嫁ぎ先で、夫となった男との性交渉や、収入を得るため売春することを拒んだために、彼女を買った家族からの虐待がはじまった。地下室で縛られたサハー・グルは、棒で殴られ、身体を噛まれ、熱した鉄棒を耳や性器に突っ込まれて、指の爪まで引き抜かれた。

ようやく彼女が発見され警察と彼女の実の家族に助けられたのは、6ヶ月後。彼女の叔父が嫁ぎ先を訪ねたときに、会わせてもらえず不審に思ったのがきっかけだった。虐待者たちは逮捕され、サハー・グルは病院で治療を受けたあと、シェルターに移された。

首都カブルにある、虐待された女性たちを保護するシェルターで去年の5月、僕はサハー・グルを撮った。まだ顔や手の傷跡は消えていなかったが、随分落ち着いたようで、彼女はときおり笑顔をみせられるまでになっていた。その数ヶ月後、逮捕された虐待者たちは、それぞれ10年の服役の判決を言い渡された。

「サハー・グルの場合はまだいいほうです。多くの女性達が虐待され、殺されてしまうことも珍しくはないのですから。そんな彼女達が正義の日の目をみることはありません」

僕は女性の権利を守るために活動している弁護士が言ったことをいまでも憶えている。

それから1年。先週掲載されたこの記事には、裁判所が判決を覆し、虐待者たちの刑が、殺人未遂から暴行に軽減されたとあった。そしてサハー・グルの虐待者3人はすでに釈放された、と。

アフガニスタン、特にその農村部には、極端に保守的な古い慣習が根付いており、いまでもサハー・グルのような例は後を絶たない。そんな状況を変えようと、多くの女性達が、自らが襲われたり殺されたりする危険を顧みず、闘い続けている。今回の判決は、そんな彼女達はもちろん、多くの人々を怒らせ、そして落胆させた。

アフガニスタンの司法制度は、これで大きく後退したようなものだ、そう思った。

(もっと写真をみる http://www.kunitakahashi.com/blog/2013/07/11/justice-reversed-story-of-sahar-gul/ )


(同記事は、Yahoo Japan News にも掲載しています)


ムンバイ、危ぶまれる塩田の将来

2013-07-01 12:50:39 | アジア
一ヶ月程前になるが、それまでずっと撮りにいきたいと思っていた塩田を訪れることが出来た。

まるで工事現場の砂のように無造作に積み上げられた何十もの白い山をみて、海水からこれほど多くの塩がとれるものかと驚かされる。まさに「自然の恵み」といったところか。素足になって歩き回るが、足底にあたるゴツゴツとした荒い塩粒の感触が痛いけれども心地いい。

ここ数年、ムンバイ近郊ではこのような塩田の将来が危ぶまれている。土地が不足しがちなこの大商業都市で、塩田が土地開発のターゲットになっているのだ。

開発業者たちが商業用や新興住宅地としてこの広大な海沿いの地域に目を光らせている一方、政府は市内のスラム住民をまとめて移動させられるような代替地を求めている。そんな開発の動きに対して環境保護主義者たちは、津波や浸食から町を守る堤防のような役割を果たしている塩田を破壊すべきではないと主張するが、強力な開発の流れにどこまで立ち向かえるかは疑問だ。

状況をさらにこじらせているのは、塩田の所有権問題だ。塩田のある土地の多くはもともと政府の所有地であったが、それを塩の製造業者が借りうけ、さらに耕作者に又貸しして現場を委ねている。そんな歴史的背景から政府は、製造業者や耕作者は土地を売る権利をもたないとして開発業者たちを牽制しているが、もとの契約からすでに200年以上の長い年月が経過しており、現実的には土地の所有権も曖昧になってしまっている。

このような塩田の将来がどうなるのは定かではない。しかし僕個人としては、ムンバイのような極端に密集した都市にとって、数少ない自然の残る場所としても、美しい塩田がなくなってしまうのを見るのは寂しいものだと思う。

(もっと写真をみる http://www.kunitakahashi.com/blog/2013/07/01/uncertain-future-of-mumbais-salt-pans/ )

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消えゆくムンバイのアイコン・タクシー

2013-05-29 14:37:43 | アジア
「タクシーが現役で走れるのは車両の製造年から20年まで」
ムンバイを州都として擁するマハラシュトラ州政府が、昨日こんな政令を発表した。この結果、長年ムンバイでタクシーとして使われてきたプレミア・パドミニの多くが(すべてではない)、今年7月31日の期限をもって路上から姿を消すことになる。

1964年から2000年にかけて、イタリア・フィアット社の認可のもと、インドのプレミア社によって製造されたパドミニ。14世紀のヒンドゥー・ラジプット族の王妃からその名前をとったこのモデルは、そのレトロなスタイルでこれまでムンバイの象徴のひとつとなってきた。しかし近年、車体が古くなっていくにつれてエアコンのない室内の匂いや、雨期に頻発する故障の問題などで徐々に人気が薄れていった。

すでに多くのタクシードライバーたちは新しいモデルに乗り換えており、現在ムンバイで走っているパドミニはおよそ1万台。8月以降現役で残るのはごく僅かになりそうだ。

確かに雨期の車内のカビ臭い匂いには閉口するが、それでも僕個人的にはパドミニは好きだ。なんといってもあの60年代のレトロなスタイルは格好いいし、車内も広いので乗り心地も悪くない。こんなパドミニがなくなってしまうのは寂しい限りだが、やはり新しいものを求める顧客と、時代の波に逆らうのは難しい。

またひとつ時代のアイコンが消えていく、ということになりそうだ。

(もっと写真をみる http://www.kunitakahashi.com/blog/2013/05/29/goodbye-to-mumbais-iconic-taxi/ )

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