Kuni Takahashi Photo Blog

フォトグラファー高橋邦典
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世界一多雨の地域で水不足?

2013-04-16 07:59:04 | アジア
インド北東部にある「世界でもっとも雨の多い土地」のひとつを訪れる機会があった。

メガラヤ州山々に囲まれた町チェラプンジ。集落が点在するこの土地は、ベンガル湾からの湿風の影響で雨が多く、1861年には22987ミリという世界最高の年間降水量を記録した。普段でも平均10000ミリ以上の降水量なので、東京の7―8倍は降っていることになる。

こんなに湿った場所であるのに関わらず、近年12月から3月にかけての乾季には、水不足に悩まされるようになった。僕がこの地を訪れたのはその乾季のまっただ中。村に点在する共有水道には、朝の9時にはポリタンクやバケツの長い列ができていた。この時期は一日に朝の2時間しか水の供給がないそうだ。

主な原因はやはり地球温暖化による気候の変化だ。ここ10年の降水量は2割程減ったうえ、乾季が長くなった。さらに、気温も平均2―3度上昇したという。人口増加の影響もある。この40年間で町の人口は15倍以上にも膨れ上がった。

それでもこれだけの雨が降る土地だから、貯水施設を整えれば水不足を乗り切れるはずだが、インドでも中央政府から無視され続け、経済発展から取り残された北東部の貧しい土地にそんな予算はない。

もう地球温暖化という言葉が聞かれるようになって久しいが、もうその影響から逃れられる場所など世界にはないのだろう。都市部でつくられる温暖化という「公害」は、辺境な田舎町をも汚染するのだ。

サンスクリット語で「雲の住処」という意味のチェラプンジ。僕は正直なところ、多雨が観光目的になることなどこれまで知らなかったのだが、その名のとおり山を覆う厚い雲、勢い良く流れるいくつもの滝を目当てにこの町を訪れていた多くの外国人観光客の数も減り続けているという。乾いたチェラプンジなど、誰も見に来ない、ということか。

(もっと写真をみる http://www.kunitakahashi.com/blog/2013/04/16/drought-in-the-worlds-wettest-place-cherrapunjee/ )

(同記事は、Yahoo Japane News にも掲載しています)

リベリア内戦から10年 ムスとの再会

2013-04-06 11:10:59 | リベリア
先月、4年ぶりに西アフリカにある小国リベリアを訪れた。

2003年の内戦時から、この国を訪ねるのは6度目になる。当時銃を持って戦っていた少年兵たちや、砲弾で家族をすべて失った少女など、4人の子供達のその後の生活をずっと追い続けてきた。今年でリベリアの内戦終結から10年。一つの節目として、彼らとまた会わなければ、そう思ったのだ。ムスは、僕が撮り続けてきたそんな子供達の一人だ。

2003年7月、当時の大統領チャールズ・テーラーに反旗を翻した反政府勢力は首都モンロビアに目と鼻の先まで迫り、防戦する政府軍との間で戦闘は激化していた。そんなある日、反政府側から撃ち込まれた砲弾によってムスの右腕は引きちぎられた。混乱のなか、僕が彼女に出会ったのはその直後。血まみれの凄惨な姿に動転した僕は、あわてて彼女を自分の車に乗せ、病院へと運び込んだ。写真のことなど二の次になった僕は、車から降ろされる彼女に向かって、かろうじて数枚シャッターをきるのが精一杯だった。彼女が6歳のときのことだ。

内戦後一年程経って、戦争中に写真に収めた子供達のことが無性に気になった僕は、 彼らの「その後」を知るために、再びモンロビアへと飛び立った。少年兵たちや他の子供は比較的簡単に見つかったが、ムスを探し出すのは手間取った。写真を手に市内のコミュニティーや病院をまわったり、挙げ句に新聞広告まで載せてみたが何の反応もない。半ば諦めかけながら、これが最後の手段とラジオを使って訴えた翌日、なんとムスが父親に連れられて局にあらわれたのだ。大きな瞳を一杯にひらいて、少女は僕の腕に飛び込んできた。驚いたことに、彼女は僕のことを憶えていた。そんなムスも今年で16歳になる。年頃になったが、快活で優しく、そして男勝りの気の強さは幼いときのままだ。

内戦から2年後の2005年に、当時僕が勤務していた米新聞社で発表したムスの写真記事がきっかけで、彼女はリベリアのエレン・ジョンソン・サーリーフ大統領に同伴し米国で大人気のオプラ・ウィンフリーのトークショーに出演。さらに身元引き受け人と奨学金を得て、ペンシルバニア州の学校で学ぶ機会も得た。しかしすべてが順調にいったわけではない。10歳という微妙な時期に家族の元を離れ、質素な生活から物の溢れた社会、それも郊外の白人社会に放り込まれた彼女は、その変化にうまく順応することができなかった。学業にも集中できず、やがて素行にも問題が出てきて、奨学金は打ち切られ、2年足らずでリベリアに戻ることになった。

「それでもアメリカは楽しかったわ。片腕がないからといって、それで虐められることもなかったし。いつかまた戻りたい」

アメリカにいた時に花や海の景色などを描いたスケッチブックを開きながら、ムスはそう笑った。

僕の今回のリベリア再訪の目的は、子供達にとって10年前のあの内戦とはなんだったのかを語ってもらいたかったからでもある。学校が休みの土曜日の朝、ムスにも胸の内を尋ねてみた。

「戦争はたくさんの破壊と死をもたらしたわ。人生まだいろんな経験をしていない子供達までもが犠牲になった。私にとっては、右腕をなくしたことは辛かった。ABCを書くことも左手で一からやり直し。腕がないから他の子達にも虐められたし、友達だった子にもからかわれて悲しい思いもしたの」

ムスのような子供達をはじめ、前線で戦った少年兵など、手足を失った者は少なくない。しかし現在、そんな障がい者に対する政府からの援助は全くないと言ってもいい。アフリカ初の女性大統領として2006年から国の再建に尽くしてきたサーリーフ氏だが、経済優先の政策が優先され、社会福祉は後回しになっているのが現状だ。富む者はさらに富み、貧困層や社会的弱者は取り残されるという、経済発展の典型的な歪みがこの国でも顕著になってきた。

それでもムスは自分の可能性を信じている。

「私は強く生きてきたと思うし、いまからも勇気をもって強く生きたい。人生何がおこっても、それが運命で、受け入れるしかないって思えるようになった。神様がすべて決めたことなの。何があっても、それには理由があるんだから、これからいいことは必ず来るって思ってるわ」

次にムスと会えるのは何年後になるだろう?そのときまだリベリアで生活しているか、それとも他国にわたって勉強か仕事に精を出しているだろうか。いずれにしても、彼女は自己の内戦の経験を生かして、逞しく生き続けていることだろう。

(もっと写真をみる http://www.kunitakahashi.com/blog/2013/04/06/liberias-civil-warten-years-later/ )
(本記事はYahoo Japan News にも掲載しています。)