Kuni Takahashi Photo Blog

フォトグラファー高橋邦典
English: http://www.kunitakahashi.com/blog

I Love You, Japan!

2016-07-02 09:24:03 | 日本
トルコ東部シリア国境そばでの撮影を終えて、イスタンブールに戻ってきた。今度の道中でもあらためて感じさせられたのが、人々の日本人に対する好意の念だ。どこの町に行っても、僕らが日本人とわかるとやたら喜ばれる。警察のチェックポイントでさえ、パスポートを見せると、「アイ・ラブ・ユー、ジャパン!」だ。トルコに限らず、中東やアフリカでも多くの人々が今も日本人に対して「勤勉、優秀で正直」という敬意を抱いている。これも皆、車や電化製品を筆頭に、世界に誇れるものづくりをしてきたメーカーの人々に負うところは大きいが、最も重要なのは、戦後日本が軍事的にどこにも侵攻せず、他国の人々に銃を向けることなく立ち回ってきたことだろう。安倍政権のもと、憲法が改悪され、自衛隊が国軍に変わり、米国の下請けとなって日本兵が他国で作戦に従事するようになれば、これまで50年以上かけて築き上げてきた日本人への好意や信頼など、あっという間にけし飛ぶだろう。「日本人でていけ!」いく先々で、こう言われる日が来ないことを願う。

検閲された「反日」ハリウッド映画

2015-03-31 15:16:41 | 日本
昨夜、映画「アンブロークン(Unbroken)」を観た。
アンジェリーナ・ジョリー監督の作品だが、日本ではネトウヨが「反日映画だ」と騒ぎたて、いまのところ国内で上映の見通しのない作品だ。細かく内容を紹介するつもりはないが、簡単に言えばこんな話。

第二次世界大戦中、乗っていた飛行機が墜落し、海上で漂流することになった若き米兵。彼は陸上5000メートル走のオリンクピック選手でもあった。47日間漂流したあげく日本軍の捕虜となるが、彼は日本兵から幾多の拷問をうけ続けることになる。ようやく終戦を迎え彼が解放されるまでが本編として描かれるが、映画の最後部で、長年の精神的、肉体的トラウマの末、自分を苦しめた日本兵たちを「許し」、1998年の長野オリンピックでの聖火ランナーとして走る彼の姿が紹介される。映画としての脚色はあるにせよ、昨年97歳で亡くなったこの米兵は実在し、ストーリーはかなり忠実に事実に基づいている。

映画の中の拷問シーン程度で、これを「反日」とするなら、日本人も随分と器量が狭くなったものだと落胆するが、それどころか、「アンブロークン」を非難し騒ぎ立てている連中がこの映画をみていないのは明らかだ。
冷静な目で見れば、これは「反日」ではなく「反戦」映画だということがすぐわかるはず。そして、47日間もの漂流と収容所での拷問の数々にも屈しなかった一人の男の人生をとおして、「許すこと」の意味を問うた作品でもある。 だいたい実際に日本兵が中・韓をはじめとしたアジアの国々でおこなった拷問、殺人やレイプにくらべれば、ここで描かれる殴る蹴る程度の暴力など、ショッキングでもなんでもない。反日を意図したものなら、甘すぎるでしょう。

僕の懸念は、こんなネトウヨの事よりも、配給会社がこの映画公開をしない判断の影には、安倍政権の意向が反映しているんじゃないかということだ。

これからどんどん自衛官をリクルートし、憲法を改悪し、日本の武装化を推し進めたい安倍政権にとって、大戦中の軍国日本の負の記憶を蘇らせるこんな映画は、もってのほかなのだろう。せっかく現代の日本人たちが広島や長崎をはじめとした戦争の悲劇を、都合よく忘れかけてくれているというのに、万が一にもこの映画が国内でヒットするようなことになれば、9条改悪に対する国民の抵抗が大きくなるかもしれないし、自衛官希望者だって減ってしまうかも知れないのだから。

日本の報道メディアにも露骨に介入してきているといわれる安倍政権だが、ハリウッド映画までも「検閲」しはじめた、といっても考え過ぎではないと思う。怖い怖い…。日本社会がますます息苦しくなっていくようだ。

我々日本人も、しっかり安倍さんの挙動を監視し、逆に「検閲」するくらいの気構えがないと、この映画の主人公のように自分が敵国の捕虜になってから後悔しても手遅れだ。僕は47日間もの漂流や、拷問に耐えるほどのアンブロークン(不屈)な精神は持ち合わせていない。

(写真:理由も知らされぬまま米兵に拘束されるイラク人男性。バグダット2007年。戦争ではどんな理不尽でもまかりとおる)
(この記事はヤフージャパン・ニュースにも掲載しています)

「紛争地からのメッセージ」写真展にて思う

2014-08-01 09:11:21 | 日本
2週間の日本滞在を終えて、先週また暑いデリーに戻ってきた。
今回は、キャノン・ギャラリーでの自分の個展開催のために東京に戻ったのだが、銀座の会場に詰めているあいだ、訪れてくれた人々と話をしながらいろいろと考えさせられた。

個展のタイトルは「紛争地からのメッセージ」。その名のとおり、僕がこれまで15年ほどのあいだに訪れた紛争地からの写真を集めたものだが、実は僕がみせたかった写真の6割程しか展示できなかった。キャノンから「死体や血はダメ」と釘をさされていたからだ。
「戦争写真の展示なのに、死体や血がみせられないとは…」
どうにも理解し難い条件ではあったが、ここで意地を張ってせっかくの機会を逃すのも惜しいので、妥協の上、死体や血も「ちょっとだけ出した」作品を混ぜ込んだ。

まあこういった要求はキャノンに限ったことではなく、以前このブログでも紹介したヤフー・ジャパンとの一件も含めて、日本企業の保守的な「事なかれ主義」なのだと思う。結局のところ、死体などの衝撃的(?)な写真を展示して、見た人から苦情がきたら誰も責任をとりたがらない、ということなのだろう。こんな状況だから、写真展でいえば、日本でひらかれるものの大半は風景や動物など当たり障りのないものばかりで、政治的な主張を含んだり、社会的問題提議をするようなものは敬遠されがちになる。一昨年にニコン・ギャラリーが、開催の決まっていた安世鴻氏の慰安婦写真展を、在特会や右翼の脅しに負けて一方的に中止したのも情けない一例だ。僕の写真展を訪れてくれた人々の何人もが、「こういった写真はなかなかギャラリーでみる機会がない」と言っていたように、今の日本のメジャーなギャラリー、特に企業の絡む会場で、現代の戦争や社会問題を扱ってくれるところなど、非常に少ないのではないだろうか?

いくつかの新聞社がとりあげてくれたこともあって、6日間で1200人以上という、僕が予想していたより遥かに多くの人たちが今回の個展を訪れてくれた。面と向かって話ができたのはそのうちほんの一部だが、「もっとこういう写真を頻繁に、多くの人たちにみせるべきだ」と言ってくれた人が少なくなかったことは励みだ。と同時に、こんなことに気づかされた。実は、人々がみたくないからこういった写真が展示されにくいのではなくて、みせる側が、「こういう硬くて深刻な題材は一般受けしない」とか「ショッキングな写真をみて気分を害したという苦情が怖い」という理由で単に「自己規制」しているだけなんじゃないか、と。

特定秘密保護法案とか集団的自由権の閣議決定などで、いまの日本はすごいスピードで歴史を逆行し、戦前に戻るかの如く危ない方向に向かっている。そんななか、メディアやギャラリーのように「発信する側」が、こんな検閲のような「自己規制」を続けていくのは問題だと思う。これはぼくら国民から、知る権利や考える機会を確実に奪っているのだから。

(この記事はヤフーニュースブログにも掲載してあります)

「僕は娘を戦地におくりたくない」

2014-07-04 14:15:41 | 日本
腹がたって、情けない。安倍総理、日本政府、そして我が国民たち。
3日まえに憲法解釈が安倍政権によってねじ曲げられ、また日本が「戦争のできる国」に一歩近づいた。

第二次大戦の悲惨な経験のあとにつくられた平和憲法のもので、これまでかろうじて日本の武力行使は「自衛のため」だけに限られてきた。それが今度の解釈変更で、「集団自衛権」が認められるようになり、日本に直接の危害が及ばなくても、同盟国さえ絡んでいれば世界のどこの紛争にも顔をつっこめるようになったのだ。
米国に尻尾をふってすがっていきたい官僚たちや、金になる武器を増産したい産業界からの要請も背景にあるだろうが、こうして日本を軍国にもどすのは安倍総理の長年の夢だった。今回の解釈改憲はその悲願達成の第一歩となったわけだ。しかしこれが、将来の国民の血と引き換えに成されているのだということを、一体どれだけの人々がわかっているのだろうか。

近年領土拡張で一層その強引さを増してきた中国など、日本の国益を脅かす材料があるのは理解しているし、いざというときのために軍事を備えておきたいという、改憲賛成派の心情はそれなりに理解できる。しかし、日本の国防なら、集団自衛権は必要ないだろうし、現行のままで十分なはずだ。同盟国がピンチだからといって、わざわざ中東やアフリカの戦争に加担する必要などない。

戦場というものをいくつか経験してきたフォトグラファーとして、僕には確固として譲れない思いがある。それは理由などどうあれ、「戦争は絶対悪」ということだ。耳の鼓膜を破るようなひっきりなしの爆音、死体の腐乱の匂い、脳みその飛び散った子供、まるで生ゴミのごとく積み上げられた何十もの屍…こんな、戦地での音や匂い、理不尽な殺戮の光景は、記憶した体が決して忘れることはない。そんな戦争への拒絶感は、僕にとっては理屈云々ではなく、体感的なものだ。

日本の戦後70年が経ついま、安倍総理や現職の議員のうち、戦場を経験したことのある人などいるのだろうか?彼らに欠けているのは、絶対的にその体感だ。おまけに彼らは想像力が乏しいからそういうことに思いを巡らすことさえできない。戦地の醜さを身をもって知っている人間、もしくはそれを想像できる人間であれば、こんなに安易に戦争への道をひらくことなど出来やしないはずだと思う。

今、日本に必要なのは、軍備どうこう以前に、体たらくな議員・官僚の外交能力を高める方が重要なのではないか?最近の、空いた口の塞がらぬような発言スキャンダルの数々をみても、近年の議員達の質はひどいものだ。歴史や国際認識に欠け、人間的にも幼稚に思える人がなんと多いことか。そこまで落ちてしまった人たちにつける薬などないかもしれないが、それでも勉強させるなり、国際政治の専門家の力を借りる、国際感覚をもった新しい若い力を投入するなどして、近隣諸国との建設的な外交にもっとエネルギーを注いでもらいたい。他の国々としっかりした関係を構築できれば、もともと戦争の心配などせずにすむのだから。軍事費拡大よりこちらのほうが遥かに重要なはずだ。

しかし、結局のところは国民がどれだけ政府に対する意思表示をするかにかかっているわけで、昨年の選挙のようにあれだけ騒がれながらも、投票率50パーセント前後の無関心さを通すのなら 、あまり希望はないだろう。数年後に自分たちの子供が徴兵されて、どこか地球の裏側の戦地で死ぬような憂き目をみてから文句をいっても、もう手遅れだ。僕はこんな政治家たちのために、将来娘を戦地におくるつもりなど、毛頭ない。

(お知らせ キャノンギャラリーにて7月10日より個展「紛争地からのメッセージ」開催 興味があればお越し下さい。
http://cweb.canon.jp/gallery/archive/takahashi-hotspot/index.html

検閲された写真

2014-05-12 12:03:10 | 日本
2日前の坂井社長について書いた記事に添えた写真の件で、同文を載せているYahoo!ニュースと一悶着あった。

記事との関わりもあって、拙書「ぼくの見た戦争」に掲載した写真を使用したのだが、死体が写っている、というだけの理由で、Yahoo!側によって記事全体が非公開にされてしまったのだ。記事をアップして1時間もたたないうちの処置で、その「検閲」の迅速さには感心させられたが、この過剰とも思える反応には驚かされた。死体とはいっても、人が横たわり、地面に血痕が残っている程度のもので、肉片が飛び散ったりしているような、特にグロテスクなものではない。拙書に掲載されているもののなかでも、控えめなものを選んだつもりだ。まあ、グロテスクに感じるかどうかは個人差があるので、ここでは議論しない。僕が不本意に思ったのは、きちんと編集者と意見を交換する機会も与えられぬままに、一方的に記事を非公開にされたことだ。

以下は担当の編集者から送られてきたメールからの抜粋だ。ちなみに僕はこの編集者とは一面識もないので、この人のことは何も知らないし、逆に先方は僕がどういうカメラマンで、これまでどういうものを撮ってきたかなどは多分知らない人だと思う。

「日本の報道機関では死体写真を掲載することは基本なく、流血も見えダイレクトであり、ショックを受ける読者もいると思われるため、削除または別の写真へのご変更をお願いできないでしょうか。
あえて児童向けに発売されたこととは異なり、Yahoo!ニュース上で発信されることは不特定多数が目にする可能性をもっていますので、どうかご理解をいただければ幸いです」

少々理解しにくい文章だが、まずはじめに、「日本の報道機関では死体写真を掲載することは基本なく、」とあるが、なにが「基本」なのだろうか?逆に言えば、基本でない報道の仕方もいくらでもあるわけで、僕のページがその「基本」とどういう関係にあるのか、それに従わなくてはならないのかなど、別に契約書に定められている訳でもない。「不特定多数」云々についても、テレビならまだある程度は理解できる。食事中に画面から予期せず死体の映像がとびだしてきたら、不快感を覚える人は少なくないだろう。しかし、このYahoo!ニュースのサイトなど、ほとんどの読者は自らの選択で「フォトジャーナリスト・高橋邦典」のページを訪れるのだ。(僕のページの読者など微々たる数だが)仮に偶然このページにたどりついて、死体の写真にたまげてしまう人がいるというのなら、あらかじめ写真がでる前に一言「閲覧注意」などの注意書きを入れておけばすむ事なのではないだろうか。

もともと僕は紛争や戦争も撮る報道写真家なので、Yahoo!側から記事寄稿の話が来た時に、こういう類いの写真を使う可能性など了解済みかと思っていた。どうやらそれはこちらの誤解だったようで、結局のところこのYahoo!ニュースにしても、臭いものには蓋をしろ、醜いものはみせるな、といった、読者からのクレームを恐れる商業メディアの「事なかれ主義」が露呈したようだ。

奇遇なことに、つい最近、東北の震災取材中の死体に関する以下のようなエピソードを、日本の記者から聞いたばかりだった。

日本のテレビ局のカメラマンたちは、どうせ番組で使われないのがわかっているから、目の前に遺体があっても撮ることもしなくなったというのだ。視聴者からのクレームを恐れるメディア組織の体質というのは、こうやって現場で働くカメラマンたちまでも腐らせていくのか、唖然とさせられてしまった。

日本に比べ、死体に対する許容度の高い西欧メディアで働く機会の多い僕も、さすがに死体だけをその目的のように真正面から撮るということはほとんどない。周りの状況を考え、伝えたいことのひとつとしてフレームの一部にそれをいれこんでいくわけだ。砲弾の犠牲者や拷問にあった者など、遺体がかなり残酷な状態なことが多いので、たとえ西欧のメディアでもその写真が使われる可能性は少ない。しかし、それがわかっていても、だから撮らない、ということはありえない。目の前の惨状を「記録」するということも、僕ら報道者の義務のひとつだと思っているからだ。撮らなければそれは記録としても残ることはないし、そこで終わり。撮ってさえおけば、たとえそれが現在放映や掲載されないとしても、記録として未来へと残される。将来、そんな画像が必要とされることがくるかもしれないのだ。

死体に限らず、肉片のあらわになった怪我人の写真など、グロテスクといわれる写真の出版や展示に関しては、僕自身いろいろ試行錯誤してきた。リベリア内戦時に撮影した、右手を砲弾で引き裂かれた少女の写真があったが、これは戦争というものの醜さを直視的にあらわし、僕にとっても思い入れのある写真だったので、写真展でも極力トリミングなしで展示するようにしていた。しかしある展示場で、主催者からこんな報告があったのだ。女子中学生がこの写真をみて気分が悪くなり、その先の展示をみることができなくなった、と。醜い戦争の現実を知ってもらいたい、という思いで展示したものだったが、逆にその一枚が原因で、他の写真をみてもらう機会を逃してしまうことになった。この一件は、僕の一方的な思い込みやメッセージを押し付けるような写真の使い方の是非を、あらためて考えさせてくれるいい機会となった。その後、そういった写真に関しては、主催者や編集者を含め、いろいろな可能性を考慮しながら、みながある程度納得できるように、ケースバイケースで対応するようにしている。

繰り返しになるが、そういう機会を著者に与えずに、一方的にサイトを非公開にしたYahoo!ニュースの措置を非常に残念に思う。死体写真が載っていても、「これを児童書でだすから意味があるんだ」と啖呵を切ってくれた坂井社長のことを書いた記事でこんな問題がおこるとは、なんとも皮肉としかいいようがない。



ポプラ社の「最後の皇帝」

2014-05-09 15:33:44 | 日本
先月末、知人から突然の訃報がメールで届いた。

ポプラ社の前社長、坂井宏先氏の死の知らせだった。亡くなったのは先月の18日だというが、メールが届いたのは30日。同社で何度も一緒に本をつくった編集者がなぜもっと早く知らせてくれなかったのか少々訝しげに感じたのだが、その彼女が社長の死を知ったのも10日以上たったあとだったとい う。告別式にも参列できなかったそうだ。

坂井社長が身体の不調を理由に職を退いたのが昨年11月。この人事に関しての社内の事情や、なぜ社員が知るまでそんなに時間がかかったのか、僕には知る由もない。ただ、そんなに具合が悪かったとは思っていなかったので、この知らせにはショックを受けた。

坂井社長には色々お世話になった。なかでも忘れることの出来ない思い出が、11年前に初めての本「ぼくの見た戦争」を出版したときのことだ。2003年、イラクに侵攻した米軍に従軍して撮った写真を、児童書として「写真絵本」のかたちでまとめたものだった。戦争というものを、当たり前の平和にどっぷり浸かっている日本の子供達に視覚的に感じてもらおうという、かなり斬新な試みだった。しかし、死体など残酷なシーンもあえて含めたので、出版 直前に営業部からクレームがついた。「これでは児童書としては売れません」と。一緒に本をつくった編集者もその圧力に妥協させられ、一般書としての発行を余儀なくされそうになっていた。そのときに鶴の一声をあげたのが、坂井社長だった。
「これは児童書としてだすから意味があるんだ。ぼくがすべて責任をとるから出版しなさい!」

結果的に「ぼくの見た戦争」はこの分野では異例の発行部数をあげ、10年以上たつ現在も増版され続けている。その後も、アフリカの少年兵や震災をあつかった、売りにくい硬いテーマのものを、僕のような一介の報道写真家に目をかけ、坂井社長は採算を度外視して児童書として出版してくれたのだっ た。坂井社長は、編集者時代に「かいけつゾロリ」や「ズッコケ三人組」シリーズなどのミリオンセラーを生み出したが、楽しいものだけではなく、「子供のための本」としてなにが必要なのか、強い信念を持っていた人だったと思う。

「もう、あのように思い切ったことをしてくれる人はいません。ほんとうに心から悲しく思います」
編集者からのメールにこう綴ってあった。僕もまさに同感だ。大企業が理念を忘れ、採算ばかりを気にするようになってしまった今の日本で、あれだけの啖呵を切れる経営者がどれほどいるのだろうか。坂井社長のワンマン経営に対する批判も少なくはなかったと聞くが、そんな強引さがあったからこそ、 ポプラ社がここまで成長したともいえるはずだ。会社のことは何も知らない外部者の僕ではあるが、坂井社長は「最後の皇帝」のような存在だったのかな、とも思う。
合掌。

(この記事はヤフーニュースブログにも掲載してあります)

再稼働反対デモ

2012-08-19 07:52:31 | 日本
3週間の日本滞在中、反原発再稼働のデモに3度足を運んだが、いろいろと思うことがあった。

デモに10万、15万人集まったと、国外からニュースやtwitterを通して聞いている時は、ようやく日本も変わってきたのだ、とかなり希望を抱いていたのだが、実際に日本社会の空気に触れてみて、残念ながらまた悲観的になってしまった。

まずデモの有り様だが、これほど警察にコントロールされたものは他の何処でもみたことがない。地下鉄の駅を出た途端大勢の警官に誘導され、参加者たちは細かく仕切られた歩道に分断されてしまう。時折、安保世代らしき年配の人たちが警官に食って掛かるのを見かけるくらいで、ほとんどの人たちは誘導に従って行列をつくるだけ。ここでも「従順で礼儀ただしい日本人」の姿は健在だ。集まった人たちは結局、ブロックごとに分けられた細長い行列になるだけで、デモの本来の力となるべき「集団のエネルギー」はほとんど削がれてしまっている。もともとデモとは、市民の数をもって政府に圧力をかけるべきものであって、政府が脅威を感じなくては意味がない。現在の官邸前デモはまるで「政府公認の毎週の行事」に成り下がってしまったような、そんな違和感を感じずにいられなかった。

確かにこの国では、市民が暴徒化するはずもないし、血気盛んな一部がそういう行動に出ても、機動隊にあっという間につぶされて終わってしまうだろう。それ以前に、デモが平和的におこなわれなくては、多くの人々が運動から離れてしまうのも眼に見えている。これはもっと効果的なデモをと思っている人々にとってはおおきなジレンマだ。

では政府に脅威を与えるにはどうすればいいか?さらに数を集めるしかないだろう。それも東京だけではなく、全国的に国民が立ち上がらなくてはならない。もしも、各都道府県庁にそれぞれ一万人(これより多いにこしたことはないが)が毎週押しかけたら、かなりの効果があるんじゃないだろうかと思う。

しかしこれも無理だろうな、というのが正直なところだ。

今回は東京、仙台そして神戸でそれぞれ数日間を過ごしたが、やはり国民の大多数はそれほどの危機感を持っていないと痛切したからだ。みな頭のなかでは漠然と考えているのだろうが、黒い雨が降って来るでもなし、突然の頭痛が起きて倒れるわけでもない。とりあえずは不自由もなく生活できている。次の爆発がおこったり、何年後かに放射能の影響がでてからでは手遅れなのだが、実際に自らの生活が脅かされる自体がおこるまで、ほとんどの人々は行動を起こすほどの危機など感じてはいない。結局は想像力の欠如、ということになるんだろうな。

これは僕の友人たちや家族も例外ではなく、一緒にいても原発のことなどほとんど話題にのぼらなかったし、ましてやデモに足をはこんだという知人・友人など皆無だった。こんな日本の空気を肌で感じて、残念ながら冒頭に述べたように僕はかなり悲観的になってしまったのだ。そんな訳で、いつもは楽しめる日本滞在も、今回は少し複雑なものになってしまった。

(もっと写真をみる http://www.kunitakahashi.com/blog/2012/08/19/nuclear-protest-japanese-style/ )

「あの日」から1年 Vol.2

2012-04-11 11:22:52 | 日本
畠山フク子さん(81)宮城県気仙沼市

フク子おばあさんと出会ったのは昨年3月、気仙沼の瓦礫のなか。大型漁船がうち上げられていた湾沿いの新浜町だった。

「貯めたお金を、探してるの。火事があっても焼けないように、消防士さんの服と同じ布で包んでおいたんだけど、どこに流されてしまったのかねえ。。。」

遺産として、息子のために貯めてあった箪笥貯金だ。少なくはない額だったが、結局このお金は見つかることはなかった。それどころか、瓦礫の上を行ったり来たりしているうちに、腰も痛め4ヶ月入院する羽目になってしまった。

「夜になると咳ばりしてたし、足も弱ってたので、息子に行くなといわれてたんだけど、黙ってさっささっさと行き来してたの。午前中にご飯食べていって、今度お昼食べてもまた行って、そのうちどうも腰が痛くなってきたなあ、と思って」

退院し、9月に仮設住宅に入居。震災前に介護センターに入所しており助かった夫の興治朗さんも10月に退所し、現在は2人で暮らしている。 興治朗さんはほとんど動くことができず、寝たきりだ。

「ケースワーカーさんが運転して看護士さんつれてくるの。毎週月曜日。『おばあちゃん大変だねえ』というんだけど、いつものことだもの。大変でもねえよ。わたし自分で頑張れるだけ頑張っからいいんだ」

トーンは高いが、なんだか心地よいやわらかさをもった声で話すフク子おばあさん。今年で81歳になるが、まだまだ気丈だ。

住んでいた土地は地盤が沈下し、もう家を建てることはできない。気仙沼市の現在の計画では公園になるようだが、まだはっきりとはわからない。市役所にかけあったこともある。

「役所に自分の土地さ勝手に公園にされても困るって、言ってきたの。だけど、『5年くらいかかるからどうなっかわからないんです』と言われたの。もう私たちが生きているうちに、良くはならないね」

歌が好きなフク子おばあさん、若い頃からよく歌っていたという。

「夜寝ててね、なんだか、頭が変になるから、夜中の12時あたりになったら、歌うたってるの。じいさんが歌えーっていうときは一晩中歌ってっけど、昔のようには歌えねえんだよ。調子っぱずれになってしまって」

頼むと、ちょっと照れくさそうにしながらも、やさしい声で一曲歌ってくれた。「お吉物語」だった。



泣いて昔が返るなら

なんで愚痴など言うものか

花のいのちは一度だけ

よしておくれよ気休めは

。。。


(もっと写真をみる http://www.kunitakahashi.com/blog/2012/04/11/tsunami-survivors-a-year-later-vol-2/ )

「あの日」から一年 Vol.1

2012-03-24 10:17:33 | 日本
前回のアップから随分間があいてしまった。津波の一周年の取材撮影のためにおよそ1ヶ月半日本に滞在し、先週ムンバイに戻ってきた。

昨年の地震直後、僕は津波を生き延びた50人以上の家族に写真を撮らせてもらい、話を聞いた。今年また東北に戻ったのは、彼らと再会するのが主な目的だった。20家族以上をまた訪ね、彼らがこの一年どんな思いでくらしてきたかを聞かせてもらうことができた。そのいくつかをここで紹介したい。

MSNBCのフォトブログのサイトにも数家族掲載。英語のみ)


高橋義弘さん(65)宮城県女川町

女川町大原二区の区長だった高橋さん。仏さまを思わせるような温和な顔をした彼は、時折笑みさえも浮かべながら体験を語ってくれるが、そんなやわらかな表情の影には、深い悲しみが隠れている。

地震直後、区長としての義務を果たすべく、一人暮らしの老人たちの安否確認のために区内をまわった。そのあと、近所の崩れていた瓦を片付けねばと、寄り道をしたときに津波が襲ってきた。自分は津波に追われながらなんとか丘の上に逃げたが、家の中で倒れた家具の片付けをしていた妻の寿子さんが家とともに流されてしまった。

「そんな片付けはいいから、津波くっから早く逃げれよ」

家をでるときに、そう声をかけたのが最後だった。外にいた高橋さんの母親のさと子さんも流された。

辛かったのが息子や娘に責められたことだった。

「なんで(妻と)一緒に逃げねかったのや」

母親の遺体は見つかったが、寿子さんはいまだに行方不明だ。

「まだ、すっきりとはしないね。なんとなくねえ。そう言う話になったら、ダメだね。おいは。。。」

話していた言葉がとまり、高橋さんが手のひらで顔を覆った。仮設住宅の彼の部屋が一瞬静寂に包まれる。

「津波前は(母と妻の)3人でいたっちゃ。だけどひとりになって、何するにも大変だな、って思うな。ああでもねえ、こうでもねえって、毎日喧嘩はしてたんだけっさ、いねくなればいねえでね。いままで朝、昼、晩と女房にだされたもの食べて、いまはみな一人でやらなきゃならないっさ。おかず買って、米研いでさ。でもまだうまくいかねえのね。硬くなったりやっこくなったり 」

現在は仮設住宅の自治会長として、忙しく過ごす。もともと世話好きな性格だから、区長といい自治会長といい、性に合っているという。

「(妻の遺体が)みつかればね、まだあきらめもつくんだかもしんねえんだっけさ。なんていうのか、まだまだ。。。だからこうやって自治会の会長でもやって、小間使いみたいなもんなんだけどさ、それで少しは気を紛らわせていんだけども。ひとりでぽつんとしてると、妻のことばかり考えてしまうからさ」

「いまはここにいて、自治会の住民のことを思ってるのが一番さな。この人たちのために一生懸命やるっても、おいのひとつの人生かなあ、とも思ってるの。前は区長だったし、そんときの気持ちはいまでも変わんねえ」

(もっと写真をみる http://www.kunitakahashi.com/blog/2012/03/24/tsunami-survivors-a-year-later-vol-1/ )

MSNBC フォトブログ 津波の犠牲者たち

2011-04-08 03:36:29 | 日本
MCNBCのフォトブログで、僕の撮った津波の犠牲者3人の話が今週掲載された。こんな状況に時間を割いて、どの方も心を痛める話しをしてくださった。http://photoblog.msnbc.msn.com/kuni-takahashi

姑を助けようとして亡くなってしまった妹をもつ南三陸志津川の女性は、自分だけ生き残ってしまったという罪悪感に苛まされている。「ひょっとして応答してくれるんじゃないかと思って。。。」いまだに妹の携帯に電話をかけることがある。

女川のおじいちゃんは、津波が起こった時に家の外にいたが、自分が逃げるのが精一杯で、家の中にいる妻を助けることができなかった。いま避難所で暮らすが、両脇で暮らす家族は皆無事で、楽しそうに食事をするのをみるのが辛い。毎日家のあった場所で瓦礫をかきわけながら、救えなかった妻との時間を過ごす。

気仙沼のおばあちゃんが防火袋にいれてとっておいた、長年貯めていたお金も流されてしまった。自分が死んだ時に、唯一息子のために残しておこうと思っていたなけなしの財産だった。


震災・津波の残したもの

2011-04-02 19:45:36 | 日本
取材を始めて9日だというのに、もう随分長い時間が経ったような気がしている。震災、津波の光景を撮る以外に、自分のプロジェクトとして被災者のインタビューを続けている。妻を助けられなかった夫、妹を失い自分が生き残ってしまった罪悪感を持つ姉、無くなった家の周りでいまだに行方不明の娘を捜す父親。。。返す言葉などみつからず、ただうなずいて聞き続けることしかできない。

(もっと写真を見る http://www.kunitakahashi.com/blog/2011/04/02/massive-earthquake-and-tunami-hit-japan-my-home-country/ )

沖縄の傷跡

2010-09-05 15:10:26 | 日本
今回の日本滞在中、初めて沖縄を訪れることができた。

太平洋戦争中、多くの犠牲を払わされ、さらに戦後も米軍基地のしわ寄せをくわされているこの土地をこれまで訪れていなかった事に、僕は日本人としてなにか後ろめたさのようなものをもち続けてきた。別に沖縄に来たからといって、それで気が済むなどとは思ってはいなかったが、土地の人たちの話しを聞き、戦跡、そして現存する米軍基地を訪れることによって、正直なところ僕の沖縄に対する感情は逆に一層複雑なものになってしまったうようだ。

訪れた土地のひとつ、読谷村のチビリガマ(洞窟)の内部には風化して茶色に変色した人骨がまだいくつも残っていた。侵攻する米軍から逃れ、点在するガマに身を隠していた地元民たちのうち83人が自ら命を絶った。案内してくれた知花昌一さんは、僕ら内地からきた無知な訪問者たちを相手に実に丁寧に当時の様子を説明してくれた。1987年の沖縄国体で、戦前の軍国主義を象徴する日の丸を焼いたのが彼である。

母親が自らの赤子の顔を身体に押し付け窒息死させたり、首の頸動脈を切って血が何メートルも吹きだしながらもなかなか死にきれなかった人々の様子など、語り部である知花さんの話しは凄惨を極めた。

「ここでおこったことは『集団自決』ではありません。『強制死』です」
彼はきっぱりと言った。

米兵に追われ、されには日本軍からも捨て石として見捨てられた島民の多くは、投降することも許されずにいわば「強制的な自決」を強いられたのだ。

3ヶ月足らず沖縄戦での日本側犠牲者は18万人以上。戦後、沖縄が本土に復帰されたとき、沖縄の人々はこう思ったという。

「これで日本に戻れる。もう米国領土でなくなるのだから、基地もなくなる」

しかしその期待は裏切られた。さらに引き続く本土による沖縄「捨て石」政策によって現在も彼らは裏切り続けられている。県民にあれほどの期待を持たせた鳩山内閣の失脚によって、沖縄人の怒りはもう頂点に達しているんだ、そんな言葉が県民たちの口から何度も溢れでた。

今回、撮影取材ではなく、写真学校の講師という立場でこの地を訪れた僕は、限られた沖縄の人々のごく一面に触れたに過ぎない。しかし、仮に綿密な取材をおこなっていたとしても、この沖縄問題に関して僕に何ができるのか、はっきりとした答えなど見いだせなかったろう。沖縄をとりまく情勢はあまりに複雑だ。

「沖縄の歴史を、そして現実を正しく知ること」

これは「本土の若者たちに何ができるか?」という問いに対しての、伊江島の反戦平和資料館の謝花悦子館長の答えだが、まさにその通りだと思う。自戒を込めて言わせてもらえば、広島、長崎の陰に隠れてしまって、沖縄の歴史をあまりに知らない本土の人間が多すぎるのだ。

無知なことによって、意識せずとも加害者になっている。それが本土に住む人々の罪だ。こんなことをあらためて思い知らされた。

(写真:チビリガマ内に残った、風化した人骨と空き瓶)
(もっと写真を見る:http://www.kunitakahashi.com/blog/2010/09/05/okinawa-scars-of-war/




朝日のアエラ

2008-08-15 08:17:37 | 日本
今月、アエラにハイチの写真記事が載ったので、編集部の人がこちらまでその掲載誌を送ってくださった。

久しぶりに手にしたアエラだったが、ページをめくってちょっと意外に感じてしまった。

「アエラってこんなに軽かったっけ?」

一人暮らしのコストとかフジテレビ女性社員達の話、はたまた男の尻のかたちがどうだとかといった記事が続いている。確か以前はもっと政治的な事や国際情勢の記事が多かったように思うが、勘違いだったかな?

これが僕の思い違いでなければ、アエラも軽くなっていく時代の波には逆らえない、ということだろうか。

こういう現実はトリビューンにしても同じ事だから身に染みて感じてしまうのだ。特にトリビューンのウェブサイトのほうはひどい。芸能関係とか、読者からの投稿写真とか、そういう軽いものがフロントで幅を利かせ、時間をかけて取材した特別記事やフォトストーリーなどはどこにあるのか探し出すのも大変なほどの奥のページに押し込められている。

以前にも書いたけれど、社会的に重要で、ジャーナリストとして発信したいと思う記事よりも、単に読者の好奇心をそそり、「クリック数」が多くなりそうなものが優先されてしまうわけだ。そんな風潮が現在の硬派ジャーナリズムの形態をどんどん変えていっている。

まあアエラに関しては新聞ではないし、内容はもっと多岐にわたっていて当然なのだけれど、やはり「朝日のアエラ」という看板にふさわしい、読んで勉強になる記事をもっと期待したい、と個人的には感じてしまう。

しかしこんな生意気書いてると、もうアエラに写真載せてもらえなくなるなあ。。。トホホ






外務省からのメール

2007-09-27 10:15:45 | 日本
ソマリア行きをブログに書いたとたん、外務省からメールが来た。

「外務省では、ソマリアに対して「退避勧告」を発出しており、滞在している方には直ちに出国されること、渡航予定の方には渡航の中止をお願いしております。。。」
とのこと。

実はイラクに行く度にも、毎回同じようなメールが送られてくる。

昨年イラクのビザ取得を妨害されたときにブログで外務省を批判したので、おおかた僕の名前は「要注意人物」としてブラックリストにでも載っているのだろう。
http://blog.goo.ne.jp/kuniphoto/e/bf04fcc409059e47e470b03aae098da5

いつも監視されているようであまり気持ちのいいものではないが、危険地域にいく日本人にはすべてこういう勧告を個人的におくっているのだろうか?

まあとりあえずこういう勧告をしておけば、万が一僕が現地で事件に巻き込まれても、「勧告したのにも関わらず、それを無視して行くからこういうことになったんだ」と、政府としては責任回避につなげられるのだろう。そしてイラクで人質となった高遠さんらのように「自己責任」を押し付けられて世間からバッシングされるのが落ちだ。

しかし、僕はなにも物見遊山でわざわざイラクやソマリアなどに観光にいくわけではない。報道されるべきことがあるからわざわざ危険を冒してもそういう土地へ行くわけだし、だいたい「危険だから」といってジャーナリストまでが尻込みしていては、一体日本やアメリカの一般の人たちが現場で起こっている現状をどうやって知ることができるというのか?

昔から「事なかれ主義」が主流の日本だけれど、外務省の方々にもそういう部分をもう少し理解してもらって、ジャーナリストやNGOなどをサポートしてもらえると僕らの仕事もやりやすくなるのだけれどなあ。