数日前、写真学校時代からの古い友人とメールのやりとりをしながら、最近流行の写真の風潮に対する思いを吐き出す機会があった。
ここ数年感じていたことなのだが、特にワールド・プレス・フォト(世界報道写真コンテスト)で認められるような作品がやたらアート化、コンセプチュアル化してきているようで、少々ウンザリしている。
一見すると、「何これ?」と思うような写真が入賞作のなかにも少なくない。
アート写真ならこれでもいい。だが、僕らは一応なりともジャーナリストとしての役割も担っている訳で、写真を通してより多くの人にメッセージを伝えることは重要な課題であるはずだ。
写真を「深く読み込むことのできる」一部の人間や、玄人だけがわかるようなそういう写真は、果たしてジャーナリズムの一手段である報道写真としての役割を果たしているのだろうか?
やもすると気取った匂いさえをも発散するそんな写真が増えてきたこと、そしてそういう写真が流行のようにもてはやされていることに、僕はどうも違和感を感じざるをえない。
それとも、歳をとって頭が固くなった僕が、時とともに移り変わる報道写真の形態についていけなくなったというだけの話だろうか?
ここ数年感じていたことなのだが、特にワールド・プレス・フォト(世界報道写真コンテスト)で認められるような作品がやたらアート化、コンセプチュアル化してきているようで、少々ウンザリしている。
一見すると、「何これ?」と思うような写真が入賞作のなかにも少なくない。
アート写真ならこれでもいい。だが、僕らは一応なりともジャーナリストとしての役割も担っている訳で、写真を通してより多くの人にメッセージを伝えることは重要な課題であるはずだ。
写真を「深く読み込むことのできる」一部の人間や、玄人だけがわかるようなそういう写真は、果たしてジャーナリズムの一手段である報道写真としての役割を果たしているのだろうか?
やもすると気取った匂いさえをも発散するそんな写真が増えてきたこと、そしてそういう写真が流行のようにもてはやされていることに、僕はどうも違和感を感じざるをえない。
それとも、歳をとって頭が固くなった僕が、時とともに移り変わる報道写真の形態についていけなくなったというだけの話だろうか?