昨夜、旧知のカメラマン仲間、デイビッドと食事をする機会があった。メキシコ在住の彼はWHO(世界保険機構)の奨学金を得てこの一ヶ月ムンバイで結核問題の写真プロジェクトをおこなっていたのだが、それもあと数日で終わるという。
インド人のカメラマン2人も合流し、今年のワールド・プレス・フォトのことや、日常の撮影のことなど、愚痴も混ぜながらだらだらと話しをしていたのだが、そのなかで僕のボストンでの写真学校のことにも話が及んだ。ほろ酔い加減で家に戻り、布団に入ってから再び写真学校時代のことを思い出し、何年に卒業したかをあらためて思い出してみて少なからず唖然とした。
あれからもう18年になるのだ。
思えば日本を離れてからすでに20年近く。これまでの人生の半分近くを国外で過ごしたことになる。冴えない黄土色のリュックサックを背負い、母親と祖母に見送られながら、今は跡形もなくなってしまった仙台の実家を後にしたことはいまでもはっきりと思い出すことができる。
14年間の新聞社スタッフというポジションを離れ、フリーランスとなったいま、駆け出しだった頃のことを良く思い出すようになった。写真を撮るという根本的業務以外に、編集者たちへのセルフ・プロモーションや写真の売り込みに追われ、その結果に一喜一憂する日々。いまやっていることは、写真学校を卒業したての自分がやっていたこととそれほど変わらないのだ。すごろくでいう「ふりだしに戻る」という感じがしないわけでもない。
この18年の間、歳は確実に重ねてきたが、写真家として僕はどれだけ成長し、何を残してきただろうか? デイビッドのプロジェクトのように、社会的意義のあるテーマをどれほどつきつめて撮ることができただろうか?
あまり深くは考えたくないこの問いを頭の片隅に押しのけて、今日も写真の編集に追われている。
インド人のカメラマン2人も合流し、今年のワールド・プレス・フォトのことや、日常の撮影のことなど、愚痴も混ぜながらだらだらと話しをしていたのだが、そのなかで僕のボストンでの写真学校のことにも話が及んだ。ほろ酔い加減で家に戻り、布団に入ってから再び写真学校時代のことを思い出し、何年に卒業したかをあらためて思い出してみて少なからず唖然とした。
あれからもう18年になるのだ。
思えば日本を離れてからすでに20年近く。これまでの人生の半分近くを国外で過ごしたことになる。冴えない黄土色のリュックサックを背負い、母親と祖母に見送られながら、今は跡形もなくなってしまった仙台の実家を後にしたことはいまでもはっきりと思い出すことができる。
14年間の新聞社スタッフというポジションを離れ、フリーランスとなったいま、駆け出しだった頃のことを良く思い出すようになった。写真を撮るという根本的業務以外に、編集者たちへのセルフ・プロモーションや写真の売り込みに追われ、その結果に一喜一憂する日々。いまやっていることは、写真学校を卒業したての自分がやっていたこととそれほど変わらないのだ。すごろくでいう「ふりだしに戻る」という感じがしないわけでもない。
この18年の間、歳は確実に重ねてきたが、写真家として僕はどれだけ成長し、何を残してきただろうか? デイビッドのプロジェクトのように、社会的意義のあるテーマをどれほどつきつめて撮ることができただろうか?
あまり深くは考えたくないこの問いを頭の片隅に押しのけて、今日も写真の編集に追われている。