Kuni Takahashi Photo Blog

フォトグラファー高橋邦典
English: http://www.kunitakahashi.com/blog

慌しい年の瀬

2006-12-29 23:30:05 | 報道写真考・たわ言
年の瀬が迫ってきた。毎年思うことだが、一年が経つのがあまりにも早くてげんなりする。やりたかったことの半分もできないうちに、時間ばかりが過ぎていく。。。

リベリアの写真の整理もつき、ようやく毎年恒例の各写真コンテストの準備(これがまたえらく時間がかかるのだ。。。)を始めることが出来たと思ったら、世間の様子が急にあわただしくなってきた。

東アフリカのソマリアの情勢がここ数日で急転換。ソマリアへは以前から取材に行きたいと思っていたのだが、この先1,2週間の状況次第ではいよいよその機会到来となるかもしれず、眼が離せなくなってきた。フライトのスケジュールを調べたり、準備を始めておかねばとばたばたとしていたら、今夜いきなりサダム・フセインが処刑になった。

このサダム処刑の反動で、アメリカへのテロが起こる可能性も高くなってきた。大晦日のタイムズスクエアなどが標的になったら、大惨事になることは間違いない。そんなわけで、いつでも出発できるように今夜は荷造りをする羽目に。。。

いやいや、年末年始をゆっくり過ごすなど、夢の中だけになりそうだ。

紅白歌合戦で興奮し、「行く年来る年」で除夜の鐘を聞きながらそばをすすっていた頃が懐かしいなあ。。。

援助のむずかしさ

2006-12-24 11:35:07 | リベリア
昨夜、リベリア募金に協力していただいた人たちのための報告書を作成しながら、ムスの家族について考えていた。

すでにこのブログでも紹介したとおり、ムスは今年2度にわたってシカゴを訪れている。5月はオプラ・ウィンフリーのテレビ番組の招待によるものだったが、義手をつくってもらうための2度目の旅は、シカゴのリベリア人コミュニティーを中心とした一般市民たちの協力の賜物だった。このときには母親のファトゥも一緒にリベリア人家庭のもとで一ヶ月ほど滞在したが、義手以外に人々から集められた募金3千ドル程を持ち帰っている。

今回リベリアでムスの家を訪れ、僕は彼らの生活環境の向上を眼のあたりにして喜んだ。

昨年はまだ4畳ほどの狭い一部屋に家族4人が身を寄せ合って住んでいたが、今では3つの寝室にリビング、そしてキッチンのある一軒家にファトゥの弟家族を居候させながら住んでいる。家賃は月85ドルだそうだ。

ムスも弟のブレッシングも学校に通い(今回は足の骨折のため、残念ながらムスの学校での姿をみることができなかったけれど。。。)父親のアルバートとファトゥも毎日夜学での勉強を始めた。アルバートは週5日、ファトゥは週3日でオフィス清掃とメイドの仕事をし、二人合わせて月に125ドルの収入を得られるようになった。

さらに、昨年末にトリビューンで記事が掲載されてから、2人のアメリカ人がスポンサーとして毎月500ドルほどをムスの家庭に送金し続けているということもわかった。

人々の経済援助のおかげで、ムス一家の生活レベルが飛躍的に良くなったことは素晴らしいことだと思うのだが、何度か彼らを訪れているうちに、少々気になることがでてきた。

金の使用のつじつまがどうにも合わないのだ。見せてもらった貯金通帳には700ドルあまりしか残っていない。土地を購入しようとして詐欺にあい500ドルほど失ったらしいが、それでも家賃を1年分先払いし、子供達の学費を払い、諸々の生活経費を引いたあとに残っているべき額があまりにも少ない。

どこかで浪費しているはずだったが、アルバート達と話しあっても、結局何に金を使用したか正確に掴むことはできなかった。恐らく、いままで貧乏だったところ急に金回りが良くなったので、あれこれと物を買い続けてしまったのだろう。ファトゥも綺麗な洋服を随分と買い込んでいたようだ。

問題なのは、彼らが援助されることに慣れてきてしまっているような印象を受けたことだ。シカゴからは3千ドルという大金を持ち帰り、アメリカのスポンサーからは毎月お金が送られてくる。こういう他人からの財政援助に、彼らは依存し、なんだか安心しきってしまっているようだった。

募金など一時的なものだし、スポンサーにしても、それがずっと続く保障などどこにもない。これを当てにして生活することは非常に危険なことだ。こんな状況を危惧した僕は、彼らとじっくり話をして、資金に余裕のある今のうちにビジネスを始めて将来のための経済的自立ができるように促してきた。

また、リベリア人コミュニティーや、教会関係の団体からの寄付で旅費を捻出し、善意のドクターによる無償の手当てでつくってもらった義手も、いまはムスに使われることもなく家の壁に掛かったまま飾りのようになっている。これは彼女がシカゴを去る前からなんとなく感じていたことなのだが、義手は重いうえに見てくれも悪い。2年間も片腕で生活し、日常生活に支障のないムスにとっては義手をつける必要性など見出せなかったのだろう。こう言ってしまっては元も子もないのだが、義手の件はシカゴの市民たちが善意で話を進めたわけで、ムスのほうからつくって欲しいと頼んだわけではなかった。

この件も含めて、今回ムス一家と接し、援助というものの難しさを垣間見たような気がした。いろいろな条件が絡み合い、援助は必ずしも「する側」の意図するような結果をもたらすわけではない。これはムスのような一家庭の事象に限らず、組織や国家レベルの援助にもあてはまる問題だろうと思う。

いま願うのは、援助が途絶えたときにも、ムスの家族に自立し続けていって欲しいということだ。また貧困に逆戻りし、ムスが学校に行けなくなるという状況は二度と見たくない。


(リベリアでの写真の整理がひと段落し、ギフトのストーリーのスライドショウもトリビューンの以下のサイトにアップされました)
http://www.chicagotribune.com/giftsjourney








ギフトの新しい家

2006-12-20 09:11:06 | リベリア
ギフト達とアメリカに戻り、ジョディの家のあるフィラデルフィア郊外で週末を過ごした後、昨夜シカゴに戻ってきた。

リベリアからの道中は、途中フライトがキャンセルになったりして、長旅に慣れていないジョディもぐったり。ギフトにとっては、あまりにも刺激が大きすぎたこともあったのだろう、旅の終わりにはほとんど口もきけない状態になっていた。

初めて乗る飛行機に、エレベータ、エスカレーター、眩いほどにぎらぎらとした空港内のフードコートにショッピングモール、そして周りの人間はほとんど白人。。。たった一日あまりのうちに、彼女にとって初めてだらけのこの「異常」な現実に晒されたギフトは、恐らくそれをうまく消化することなどできなかったのではないだろうか。

彼女は一体何を感じているのだろう、何を考えているのだろう?

黙り込んでいるギフトをみながら、僕は、このときほど他人の頭の中をのぞいてみたいと思ったことはなかった。

金曜日の夜、ジョディの家に到着し、待っていた新しい妹のノエミと近所の人たちの歓迎を受けて、疲れきっていたギフトにもようやく笑顔が戻った。

たったの4日間であったが、僕がシカゴに戻るまでにギフトも随分アメリカでの生活に慣れてきているようだった。

新年からは家庭教師がきて、ある程度の学力がついたら学校に入学することになっている。先日学校を訪れ先生たちと顔合わせをしたが、もともとサッカー好きの彼女は、生徒達の課外活動をみながら、バスケットボールもやりたい、水泳もやりたい、と眼を輝かせていた。

旅の疲れからか、ホームシックになるのか、時折黙りこくってしまうこともあるが、それも自然なことだろう。彼女の胸中は計り知れないが、あとはいい教会が見つかれば、ギフトの生活の大きな支えになると思う。信仰深いギフトは、朝晩と毎食時に祈りを忘れない。日曜日にジョディの行く教会のミサに参加したが、黒人教会とはやはり礼拝法や音楽、雰囲気も随分違うので肌が合わなかったようだ。幸いジョディの黒人の友人達が教会を紹介してくれることになったが、はやくギフトにあった場所がみつかればと願っている。

新しい親子として、母と娘の絆をつくっていかなくてはならないギフトとジョディにとって、この先まだチャレンジは続いていくだろう。

僕としては、今はとりあえず、次にギフトを訪れるときに彼女がどんな顔をみせてくれるか楽しみに待つことにしようと思う。願わくばあまりアメリカナイズされていないように。。。。

(写真:ジョディの家に到着し、喜ぶギフト。左は妹となるノエミ)



2人の母親

2006-12-13 23:43:35 | リベリア
あっという間に2週間が経ち、もう帰国の日になってしまった。

ギフトの養子という特別な取材のために普段よりも忙しくて、モンロビアでほとんどゆっくりとした時間を過ごせなかったのが少し残念だ。今回はギフトの取材を続けるため、ジョディ達と一緒にアメリカに戻らなくてはならないので滞在延長もできない。

先日、シシリアがお別れのためにギフトを訪れた。シシリアは、養子の話がでてからギフトがフォスターホームに移るまでの半年間、自分の家にギフトを住まわせて世話をしていたリベリア人女性だ。

久しぶりにシシリアの顔を見たギフトは、大声で喜びの声をあげながら彼女に飛びついていった。ギフトの懐きようから、シシリアがギフトのことを我が子の如く愛情をもって接していたことが良く分かる。

「養子になることが決まってから、なるべくフォスターホームは訪れないようにしてきたの。ギフトがいつまでも私に未練をもってしまっては困るからね。。。」

シシリアは僕らにそう言った。

数時間の間、ギフトはシシリアにまとわりつきながら楽しそうな時間を過ごしていたが、いざ別れの時間が近づいてくると、シシリアがこらえきれなくなって涙をながしはじめた。それを見たギフトも彼女の胸の中に顔をうずめてわんわん泣き出したのだが、それまでアメリカに行けるという楽しみばかりで占められていたギフトの胸中に、この時に初めてリベリアとの「別離」の感情が芽生えたのかもしれない。

二人が抱き合って泣いている姿を見て、ひとつの疑問が僕の頭をよぎった。

「ギフトにとって、あまりに環境の違うアメリカに行くよりも、自分の生まれ育ったこのリベリアで、シシリアと一緒に生活したほうが幸せなのではないのだろうか?」

僕はこのことをシシリアを尋ねてみた。

「いいえ。私達では物質的にも環境的にもギフトにしてあげられることは限りがありすぎるの。彼女を大学に行かせることさえもできないし、リベリアには十分な教育環境もない。豊かなアメリカで生活できるというというチャンスが与えられたのだから、ギフトの将来にとってはこれが一番なのよ」

ギフトにとって、何が一番いいのか今答えをだすのは難しい。ただ、アメリカに行くことによって、ギフト将来により幅広い選択肢が生まれることは確かだろう。シシリアにはそれが良くわかっているのだ。

ギフトが幸せになるかどうかは、ジョディそして彼女自身の努力にかかっている。この先5年後、10年後に彼女がどんな生活をしているか。。。ギフトがアメリカに来たことを後悔することなく、幸せに暮らしていることを祈りたい。。。

(写真:涙ぐむシシリアと、ギフトをなぐさめるジョディ)


ギフトと新しい母親

2006-12-08 16:13:24 | リベリア
ギフトを養子としてアメリカにつれて帰るため、一昨日リベリアに到着したジョディとともに、フォスターホームを訪れた。

「ママ!!」彼女の姿を眼にしたとたん、声を上げながらギフトがジョディに抱きついてきた。

フィラデルフィア郊外に住むジュディが、僕らのリベリアの記事をみてギフトを養子にしようと決めてからすでに1年。。。これから母と娘となる二人が、初めて出会うことができた瞬間だった。

しばらく言葉を失った二人は、ただお互いを確かめるようにしっかりと抱きしめあった。これは、この二人が一日千秋の思いでこの日が来るのを待っていたことをよく知っていた僕にとっても感無量のひとときだった。

今回リベリアに戻ってきて、ムスの義手のことなどを含め、援助をおこなう側とされる側の関係についていろいろな思いが頭を巡っている。撮影が忙しくてブログのアップさえもままならないが、この件については帰国してからきちんと報告をまとめたいと思う。

ギフトの今回の養子の件についても、アメリカに行ってから多くの困難が待っていることだろう。しかし、ジョディはギフトのこれまでの人生経験や学習能力など考慮して、彼女のできる限りの努力をして養子受け入れの準備を進めてきたし、ギフトもまれに見るほど勤勉で正直な女の子だ。僕は、チャレンジは多いにしても、必ずこの養子はうまくいくだろうと信じている。

とりあえずいまは、ようやく一緒になれたこの二人の喜びを、素直に受け止めたい。




子供達との再会

2006-12-01 15:32:48 | リベリア
飛行機の遅れもなく、水曜日の夜にリベリアの首都モンロビアに到着した。

2003年の内戦以来の友人アメッドに空港まで迎えに来てもらい、ダウンタウンまでの1時間ほどの道のりを車で走る。市の中心に近づくにつれて、昨年にはなかった街灯がところどころで道路を照らし、少しづつ国の変化があらわれているようだった。内戦の始まった1990年あたりから、この国には公共の電気がとおっておらず、発電機を持つホテルや個人のものに限られていたのだ。

昨日ムス、モモ、そしてファヤを訪れた。

モモやファヤはおろか、ムスにも僕が来ることは知らせていなかったので、彼女の家に近づくと母親のファトゥや父親のアルバートまで、一家総出で飛びついてきた。

ムスは2ヶ月ほど前に、遊んでいて脛の骨を折ってしまったようで、現在ギブス生活。わんぱくな彼女なので驚きはしなかったが、しばらく伝統的なウィッチ・ドクター(呪い師)にかかっていて病院に連れて行ったのが遅れたので治癒が遅れたようだ。アフリカ社会では、いまでもウィッチドクターを信じている人たちは少なくない。思うように歩けないので学校にはいっていないが、家庭教師がきて勉強はとりあえずやっているのでとりあえずは安心した。

わざわざシカゴまで招待されてつくってもらった義手のことは。。。。残念ながらもうつけていないようだ。シカゴにいたときから僕もなんとなく感じていたのだが、どうにもムスは義手を好きになれなかった、というかリベリアに戻ってからはそれをつけることを拒絶した、とファトゥが話してくれた。片腕での生活が2年以上も続き、ほとんど必要なことはできるようになっていた彼女にとって、重いうえに見た目も悪い義手をつけることの必要性が見出せなかったのかも知れない。多くの人々の好意で作られた義手だったけれど、もうこればかりはどうしようもない。しかし、少なくともアメリカを訪れたこと経験は彼女とファトゥにとっての財産になるはずだろう。

ファヤも9月から学校に行きだした。(これは日本の皆さんから寄せられた募金の一部を送って学費にあてたものです。どうもありがとうございました)いざ学校に行きだすと勉強が面白くなってきたようで、仕立て屋の仕事のほうはなんだかおろそかになってしまったようだが、授業には毎日きちんとでているようだ。

気がかりなのはモモだった。ファヤと一緒に学校に入学したのはいいが、すぐに授業にはでなくなった。結局現在も1年半前とほとんど変わらない生活で、日雇いの肉体労働をしながらなんとか生き延びている。相変わらず眼もうつろで視点も定まらない。少年兵として受けた彼の心のダメージは深く、そう簡単には癒えることがないということを思い知らされた。

今日はまず午前中にモモに会ってから、ギフトのいるフォスター・ホームを訪れる予定だ。