Kuni Takahashi Photo Blog

フォトグラファー高橋邦典
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検閲された写真

2014-05-12 12:03:10 | 日本
2日前の坂井社長について書いた記事に添えた写真の件で、同文を載せているYahoo!ニュースと一悶着あった。

記事との関わりもあって、拙書「ぼくの見た戦争」に掲載した写真を使用したのだが、死体が写っている、というだけの理由で、Yahoo!側によって記事全体が非公開にされてしまったのだ。記事をアップして1時間もたたないうちの処置で、その「検閲」の迅速さには感心させられたが、この過剰とも思える反応には驚かされた。死体とはいっても、人が横たわり、地面に血痕が残っている程度のもので、肉片が飛び散ったりしているような、特にグロテスクなものではない。拙書に掲載されているもののなかでも、控えめなものを選んだつもりだ。まあ、グロテスクに感じるかどうかは個人差があるので、ここでは議論しない。僕が不本意に思ったのは、きちんと編集者と意見を交換する機会も与えられぬままに、一方的に記事を非公開にされたことだ。

以下は担当の編集者から送られてきたメールからの抜粋だ。ちなみに僕はこの編集者とは一面識もないので、この人のことは何も知らないし、逆に先方は僕がどういうカメラマンで、これまでどういうものを撮ってきたかなどは多分知らない人だと思う。

「日本の報道機関では死体写真を掲載することは基本なく、流血も見えダイレクトであり、ショックを受ける読者もいると思われるため、削除または別の写真へのご変更をお願いできないでしょうか。
あえて児童向けに発売されたこととは異なり、Yahoo!ニュース上で発信されることは不特定多数が目にする可能性をもっていますので、どうかご理解をいただければ幸いです」

少々理解しにくい文章だが、まずはじめに、「日本の報道機関では死体写真を掲載することは基本なく、」とあるが、なにが「基本」なのだろうか?逆に言えば、基本でない報道の仕方もいくらでもあるわけで、僕のページがその「基本」とどういう関係にあるのか、それに従わなくてはならないのかなど、別に契約書に定められている訳でもない。「不特定多数」云々についても、テレビならまだある程度は理解できる。食事中に画面から予期せず死体の映像がとびだしてきたら、不快感を覚える人は少なくないだろう。しかし、このYahoo!ニュースのサイトなど、ほとんどの読者は自らの選択で「フォトジャーナリスト・高橋邦典」のページを訪れるのだ。(僕のページの読者など微々たる数だが)仮に偶然このページにたどりついて、死体の写真にたまげてしまう人がいるというのなら、あらかじめ写真がでる前に一言「閲覧注意」などの注意書きを入れておけばすむ事なのではないだろうか。

もともと僕は紛争や戦争も撮る報道写真家なので、Yahoo!側から記事寄稿の話が来た時に、こういう類いの写真を使う可能性など了解済みかと思っていた。どうやらそれはこちらの誤解だったようで、結局のところこのYahoo!ニュースにしても、臭いものには蓋をしろ、醜いものはみせるな、といった、読者からのクレームを恐れる商業メディアの「事なかれ主義」が露呈したようだ。

奇遇なことに、つい最近、東北の震災取材中の死体に関する以下のようなエピソードを、日本の記者から聞いたばかりだった。

日本のテレビ局のカメラマンたちは、どうせ番組で使われないのがわかっているから、目の前に遺体があっても撮ることもしなくなったというのだ。視聴者からのクレームを恐れるメディア組織の体質というのは、こうやって現場で働くカメラマンたちまでも腐らせていくのか、唖然とさせられてしまった。

日本に比べ、死体に対する許容度の高い西欧メディアで働く機会の多い僕も、さすがに死体だけをその目的のように真正面から撮るということはほとんどない。周りの状況を考え、伝えたいことのひとつとしてフレームの一部にそれをいれこんでいくわけだ。砲弾の犠牲者や拷問にあった者など、遺体がかなり残酷な状態なことが多いので、たとえ西欧のメディアでもその写真が使われる可能性は少ない。しかし、それがわかっていても、だから撮らない、ということはありえない。目の前の惨状を「記録」するということも、僕ら報道者の義務のひとつだと思っているからだ。撮らなければそれは記録としても残ることはないし、そこで終わり。撮ってさえおけば、たとえそれが現在放映や掲載されないとしても、記録として未来へと残される。将来、そんな画像が必要とされることがくるかもしれないのだ。

死体に限らず、肉片のあらわになった怪我人の写真など、グロテスクといわれる写真の出版や展示に関しては、僕自身いろいろ試行錯誤してきた。リベリア内戦時に撮影した、右手を砲弾で引き裂かれた少女の写真があったが、これは戦争というものの醜さを直視的にあらわし、僕にとっても思い入れのある写真だったので、写真展でも極力トリミングなしで展示するようにしていた。しかしある展示場で、主催者からこんな報告があったのだ。女子中学生がこの写真をみて気分が悪くなり、その先の展示をみることができなくなった、と。醜い戦争の現実を知ってもらいたい、という思いで展示したものだったが、逆にその一枚が原因で、他の写真をみてもらう機会を逃してしまうことになった。この一件は、僕の一方的な思い込みやメッセージを押し付けるような写真の使い方の是非を、あらためて考えさせてくれるいい機会となった。その後、そういった写真に関しては、主催者や編集者を含め、いろいろな可能性を考慮しながら、みながある程度納得できるように、ケースバイケースで対応するようにしている。

繰り返しになるが、そういう機会を著者に与えずに、一方的にサイトを非公開にしたYahoo!ニュースの措置を非常に残念に思う。死体写真が載っていても、「これを児童書でだすから意味があるんだ」と啖呵を切ってくれた坂井社長のことを書いた記事でこんな問題がおこるとは、なんとも皮肉としかいいようがない。



ポプラ社の「最後の皇帝」

2014-05-09 15:33:44 | 日本
先月末、知人から突然の訃報がメールで届いた。

ポプラ社の前社長、坂井宏先氏の死の知らせだった。亡くなったのは先月の18日だというが、メールが届いたのは30日。同社で何度も一緒に本をつくった編集者がなぜもっと早く知らせてくれなかったのか少々訝しげに感じたのだが、その彼女が社長の死を知ったのも10日以上たったあとだったとい う。告別式にも参列できなかったそうだ。

坂井社長が身体の不調を理由に職を退いたのが昨年11月。この人事に関しての社内の事情や、なぜ社員が知るまでそんなに時間がかかったのか、僕には知る由もない。ただ、そんなに具合が悪かったとは思っていなかったので、この知らせにはショックを受けた。

坂井社長には色々お世話になった。なかでも忘れることの出来ない思い出が、11年前に初めての本「ぼくの見た戦争」を出版したときのことだ。2003年、イラクに侵攻した米軍に従軍して撮った写真を、児童書として「写真絵本」のかたちでまとめたものだった。戦争というものを、当たり前の平和にどっぷり浸かっている日本の子供達に視覚的に感じてもらおうという、かなり斬新な試みだった。しかし、死体など残酷なシーンもあえて含めたので、出版 直前に営業部からクレームがついた。「これでは児童書としては売れません」と。一緒に本をつくった編集者もその圧力に妥協させられ、一般書としての発行を余儀なくされそうになっていた。そのときに鶴の一声をあげたのが、坂井社長だった。
「これは児童書としてだすから意味があるんだ。ぼくがすべて責任をとるから出版しなさい!」

結果的に「ぼくの見た戦争」はこの分野では異例の発行部数をあげ、10年以上たつ現在も増版され続けている。その後も、アフリカの少年兵や震災をあつかった、売りにくい硬いテーマのものを、僕のような一介の報道写真家に目をかけ、坂井社長は採算を度外視して児童書として出版してくれたのだっ た。坂井社長は、編集者時代に「かいけつゾロリ」や「ズッコケ三人組」シリーズなどのミリオンセラーを生み出したが、楽しいものだけではなく、「子供のための本」としてなにが必要なのか、強い信念を持っていた人だったと思う。

「もう、あのように思い切ったことをしてくれる人はいません。ほんとうに心から悲しく思います」
編集者からのメールにこう綴ってあった。僕もまさに同感だ。大企業が理念を忘れ、採算ばかりを気にするようになってしまった今の日本で、あれだけの啖呵を切れる経営者がどれほどいるのだろうか。坂井社長のワンマン経営に対する批判も少なくはなかったと聞くが、そんな強引さがあったからこそ、 ポプラ社がここまで成長したともいえるはずだ。会社のことは何も知らない外部者の僕ではあるが、坂井社長は「最後の皇帝」のような存在だったのかな、とも思う。
合掌。

(この記事はヤフーニュースブログにも掲載してあります)