Kuni Takahashi Photo Blog

フォトグラファー高橋邦典
English: http://www.kunitakahashi.com/blog

日本人による日本のフォト・エッセイ

2007-02-25 20:45:57 | 報道写真考・たわ言
前回のブログの書き込みで、photoj studentさんが「日本人のフォトジャーナリストによる日本のフォト・エッセイがどうして少ないか?」という疑問を投げかけていたので、そのことについて少し考えてみた。

僕は別に日本人フォトジャーナリストによるこういった作品がとりたてて少ないとは思っていないが、これを、「海外で生活している」日本人フォトジャーナリスト、に限定すると、確かにphotoj studentさんの言っていることは的を得ているかとも思う。

しかし、それはある意味当然のことだろう。

日本を出て、海外で報道カメラマンとして生きている日本人たちには、それなりの理由があるだろう。人によってそのプライベートな理由はさまざまだろうが、仕事に関しては、自分自身のことも振り返ってみて、だいたい以下のようなことを考えていたのではないだろうか。

(1) 日本という狭い社会から飛び出して、世界を舞台に仕事がしたかった。
(2) 日本の日常では考えられない戦争や紛争、難民などの取材がしたかった。
(3) 日本の「フォト・ジャーナリズム」は、西洋のそれに比べまだまだ社会的地位が確立されていない、と思っている。
(4) アフリカなど、日本からでは地理的に不便な場所を継続して取材したいと思っている。。。等など

こういった理由で日本の外にでていった人間たちにとって、「狭い社会」であり、「戦争や紛争のない」日本は、写真を撮る上でそれほど魅力のある土地ではない、ということになる。

だから、僕自身のことを言わせてもらうと、休暇で日本に戻るときは「ついでに」取材をし、写真を撮ってこようとは思っても、わざわざお金をかけて見慣れた日本を取材に行こうなどとは思わない。それだけの資金と時間があるのなら、アフリカや中東に行きたい、と考えてしまう。

日本人のくせに日本の問題を気にかけないのか、この非国民め!などと叱られそうだが、こればかりは自分の「何を撮りたいのか」という欲求の問題だから仕方がない。日本国民として日本のことにはおおいに関心はあるけれど、それがカメラマンとしての「写欲」と必ずしも一致するわけではないのだ。

また、上記のような理由以外に、日本人と外国人のあいだの社会を見る眼の「新鮮さ」の違いがあると思う。

この書き込みのなかで紹介されているAPフォトグラファーの撮ったようなビジネスマンたちの日常の風景は、僕ら日本人たちにとっては、ほとんど「撮るに値しない見慣れた光景」だが、外国人の眼には新鮮に映ったわけだ。イスラムの国で頭からチャドルを被った女性たちの姿や、巨大な笊一杯の果物を頭に乗せて売り歩くアフリカ人の姿など、地元の住人にしてみればなんでもない風景が、僕ら日本人にとってとてもエキゾチックで新鮮に見えることと同じである。

日本人が日本社会を見る場合、そういう「新鮮な視点」というものをなかなか持ちにくい、というのも、日本人によるこのような作品が少ないまたひとつの理由であると思う。

。。。などとだらだら書き綴ってみたが、急に「だから何なんだ?」と思い始めてきた。別に誰がどこで何を撮ろうとそんなことはどうでもいいじゃないか。カメラマンの国籍や住んでいる場所など関係ない。要はそれがなんであろうと自分が大切だと考えるものを撮ることができれば、それでいいんじゃないかな。



政治は女性に

2007-02-18 19:14:01 | 報道写真考・たわ言
日本では先日、柳澤厚生労働大臣の「女性は子供を生む機械」といった発言が問題になったようだが、僕は正直な話、政治家はみな女性がなったほうがよほどまともな社会になると思っている。

現実的にそうなったらまたそれなりに問題もでてくるだろうが、少なくとも戦争の少ないより平和な世の中にはなるんじゃないかとは思うのだ。

女性は子供を生む、そして母になる。。。親になったことがない僕がいうのもなんだけれど、母親の子供に対する愛情というのは、やはり父親のそれとはどこか違うものがあるような気がする。自らの体内で子を育て、腹を痛めて産む母親の、我が子の「生」に対する根本的な愛情というのは、父親のものより遥かに強いのではないだろうか。

だから「戦争」に対しても、政治的思惑とか、ビジネスとか、国家の威信などといった目先の利益のことよりも、もっと単純で根本的な「自分の子を戦争に生かせたくない」という気持ちが働いて、女性は生理的に戦争を拒絶してしまうのではと思うのだ。

さらに、乳を飲ませ、子供を育てる過程などを通しながら、環境問題などにより敏感になるのも女性のほうではないかとも思う。日常的な生活感覚も男性よりある。

とまあ、こんなことばかり書いていると男性諸君から非難の的になりそうだけれど、いずれにしても、あんな暴言を公の場でのたまう大臣がいまだにのうのうと議員を続けていられるなど、日本国民として恥ずかしいやら頭にくるやら。。。アメリカならとっくに罷免ですよ。





不公平な援助

2007-02-13 21:37:35 | リベリア
昨日、出版物用にリベリアの記事を書きながら、ふとあることを思い出した。

昨年12月モンロビアで、元少年兵のモモを訪ねていったときのことだ。彼はほかの少年達と一緒に、砂運びの日雇い仕事をしている最中だった。

モモが翌学期からまた学校へ行けるように、手続きのことなどを話しにいったのだが、僕が帰る間際に一人の少年、いや、モモより少し大人びたその風貌からして、もう青年といっていい年頃だろう、がやってきて、こう言った。

「僕も学校に行きたい。学校に行ければ一生懸命に勉強するよ。。。」

スティーブという名のその彼もモモと同じく元少年兵。学費の面倒をみてくれる身寄りもなく、日雇い仕事でなんとか食いつないでいるという。見た目や話し振りは誠実そうで、実際に学校にいくチャンスがあれば、きちんと勉強するだろうと思われた。

僕は一瞬返答につまった。彼の学費を出してあげたい。。。そう思ったが、結局スティーブにいい返事をすることはできなかった。

持ってきた募金には限りがあり、モモやファヤへの学費など計画していた用途以外に使う余裕がなかったからだ。億万長者ではあるまいし、困っている人間をみな助けることなど出来やしない。

しかし、他の子供たちにしてみれば、「僕らも同じように助けが必要なのに、なぜモモだけが援助してもらえるんだ。。。」という気持ちになるだろう。

リベリアの子供たちすべてを助けることなどできるわけもないし、とりあえずは一人でも二人でも、僕が関わりをもった子供だけでもサポートできればいい。。。そう思っていた。せっかく日本で集められた募金を、お金の用途がはっきりしない組織や団体に漠然と寄付することには抵抗があったからだ。

内戦中にモモは「たまたま」僕と出会い、僕の写真に収まった。一方スティーブは「たまたま」どこか別の場所にいたにすぎない。この単なる「たまたま」のせいで、現在モモは学校にいくことができ、スティーブは学びたくともその機会を与えてもらうことさえできないでいる。

もともと人生など公平なものではないけれど、スティーブの気持ちになってみれば、納得しがたいものを感じてしまうのも無理はない。

こういう援助の仕方について、僕にははっきりとした答えがみいだせない。しかし、これから先も、少なくとも同じ子供たちをサポートし続けていければ、とは思っているのだが。。。




凍てつく湖

2007-02-09 19:41:53 | シカゴ
昨日撮った写真。

凍りついたミシガン湖のわきを、ジョギングするクレージーな輩。。。南極の風景ではありません。これがシカゴの冬。

日本に住む友人の話ではなんと東京は18度の暖冬で、桜まで咲き出したという!!!

なんともうらやましく思うが、しかしシカゴにもう20年以上住む先輩方がいうには、昔はシカゴの冬はもっと厳しかったらしい。今週のような極端な寒波が、以前はひと冬の間に何度も繰り返してやってきたという。ということは、こんなに寒いシカゴでさえ、昔に比べたら温暖化している、ということだ。

彼らから見れば、この程度で弱音をあげている僕なんぞ、なんともひ弱に見えるのだろうなあ。

またまた寒さへのぼやきブログになってしまい、失礼。






またまた極寒のシカゴ

2007-02-05 23:35:36 | シカゴ
また極寒の季節になった。

もうひたすら寒い。吹きすさぶ風が尋常ではない。いまこのブログを書いている午前8時現在の気温は摂氏マイナス20度、風を計算に入れた体感温度はなんとマイナス30度だ。

外を歩くときは肌の露出部を最低限にするために首から口にかけてマフラーで覆うのだが、どうしても眼だけは隠すことができない。自分のはきだす息がマフラーの隙間からに眼のほうにあがってくるのだが、昨夜、ほんの10分ほど歩いていただけで、まつ毛にかかった息が水滴になり、それが「凍りだした」!!!

ああ、シカゴの冬。。。。でもまあ今のところ雪が少ないだけましか、と自分をなぐさめる。

昨夜は案の定、ダウンタウンの酒場でタバコの煙にまかれながら、スーパーボウル観戦をするベアーズ・ファンが一喜一憂する様を写真に収めていた。ファンの声援むなしく、惜しくもベアーズは敗退。シカゴ・ファンのアメフト全米一の夢はビールの泡とともに消えていった。

こんなことを書くと、ファンから刺されそうだが、実は僕はほっとしている。

ベアーズが勝っていれば、シカゴでの優勝パレードが火曜日に予定されていたのだが、こんな寒空の下で何時間も外での撮影などたまったもんじゃない。スポーツ関係の撮影で、そこまで体を張って仕事をするだけの気力はないのだ。

昨夜酒場での撮影が終わり、5時間ほど外に駐めておいた車にもどってみると、中に置き忘れていたリンゴが見事に凍っていた。。。

(写真:悔しがるベアーズのファンたち)

ベアーズ・フィーバー

2007-02-02 21:17:16 | 報道写真考・たわ言
ベアーズ、ベアーズ、ベアーズ。。。どこを向いても今週のシカゴはベアーズ一色だ。

このシカゴのアメリカン・フットボールのチームが、今期リーグ優勝して、今週日曜日におこなわれる「スーパー・ボウル」で対戦相手のインディアナ・コルツと全米一をかけてプレイする。

ベアーズのスーパー・ボウル出場は1986年以来の21年ぶりとあって、街は大変な熱狂ぶりだ。米3大美術館に名を連ねるシカゴ美術館でさえ、玄関にそびえたつ勇猛なライオンの銅像の頭にベアーズのヘルメットをかぶせるわ、自然史博物館では巨大な恐竜の骨の模型にベアーズのユニフォームを着せるわで、そのフィーバーぶりは尋常ではない。

嫌いなわけではないけれど、スポーツ観戦に特に興味のあるわけでもない僕には、なんでこんなに熱狂できるのかねえ、と白けた気持ちでこういうイベントを眺めていたのだが、ここ数日のトリビューンの紙面をみていて、だんだん腹がたってきた。

スポーツページのみならず、フロントやローカルまであらゆるページがこのベアーズの記事で「汚染」されてしまっているではないか。たかがスポーツ(失礼!)の試合(それもまだプレビューにすぎない)が、仮にも全米第3の大都市のメジャー新聞の紙面を何枚も埋めるほど価値のあるもんなんだろうか?他にもっと報道すべき大事なことがあるんじゃないの?

新聞のみならず、ウェブページもまた然り。 
http://www.chicagotribune.com をみてもらえばわかるように、フロリダの竜巻で19人が死んでいるというのに、そんなニュースは下のほうに追いやられて、スーパー・ボウルの記事がドカーンをメインセクションを占めている。

実際に、シカゴ市民がみなフットボールに興味があるというわけでもないし、こういう過剰なフィーバーにうんざりしている人たちは大勢存在しているのだ。それなのに、まるで読者や視聴者はすべてベアーズファンでもあるかのように、これでもかと煽り立てるような新聞やテレビでのベアーズ報道に大きな疑問を感じるし、なんだかまるで大衆操作のようで恐ろしくもなってくる。

これはもう新聞がジャーナリズムからはかけ離れて、単にエンターテイメント産業に堕落してしまった、ということなのだ。

さらに悲しいことには。。。日曜日の夜にシフトにはいっている僕は、ベアーズが勝つにしても負けるにしても、ダウンタウンのどこかの酒場でファンの喜怒哀楽を撮らされることになるんだろう。。。ああ無情。