前回のブログの書き込みで、photoj studentさんが「日本人のフォトジャーナリストによる日本のフォト・エッセイがどうして少ないか?」という疑問を投げかけていたので、そのことについて少し考えてみた。
僕は別に日本人フォトジャーナリストによるこういった作品がとりたてて少ないとは思っていないが、これを、「海外で生活している」日本人フォトジャーナリスト、に限定すると、確かにphotoj studentさんの言っていることは的を得ているかとも思う。
しかし、それはある意味当然のことだろう。
日本を出て、海外で報道カメラマンとして生きている日本人たちには、それなりの理由があるだろう。人によってそのプライベートな理由はさまざまだろうが、仕事に関しては、自分自身のことも振り返ってみて、だいたい以下のようなことを考えていたのではないだろうか。
(1) 日本という狭い社会から飛び出して、世界を舞台に仕事がしたかった。
(2) 日本の日常では考えられない戦争や紛争、難民などの取材がしたかった。
(3) 日本の「フォト・ジャーナリズム」は、西洋のそれに比べまだまだ社会的地位が確立されていない、と思っている。
(4) アフリカなど、日本からでは地理的に不便な場所を継続して取材したいと思っている。。。等など
こういった理由で日本の外にでていった人間たちにとって、「狭い社会」であり、「戦争や紛争のない」日本は、写真を撮る上でそれほど魅力のある土地ではない、ということになる。
だから、僕自身のことを言わせてもらうと、休暇で日本に戻るときは「ついでに」取材をし、写真を撮ってこようとは思っても、わざわざお金をかけて見慣れた日本を取材に行こうなどとは思わない。それだけの資金と時間があるのなら、アフリカや中東に行きたい、と考えてしまう。
日本人のくせに日本の問題を気にかけないのか、この非国民め!などと叱られそうだが、こればかりは自分の「何を撮りたいのか」という欲求の問題だから仕方がない。日本国民として日本のことにはおおいに関心はあるけれど、それがカメラマンとしての「写欲」と必ずしも一致するわけではないのだ。
また、上記のような理由以外に、日本人と外国人のあいだの社会を見る眼の「新鮮さ」の違いがあると思う。
この書き込みのなかで紹介されているAPフォトグラファーの撮ったようなビジネスマンたちの日常の風景は、僕ら日本人たちにとっては、ほとんど「撮るに値しない見慣れた光景」だが、外国人の眼には新鮮に映ったわけだ。イスラムの国で頭からチャドルを被った女性たちの姿や、巨大な笊一杯の果物を頭に乗せて売り歩くアフリカ人の姿など、地元の住人にしてみればなんでもない風景が、僕ら日本人にとってとてもエキゾチックで新鮮に見えることと同じである。
日本人が日本社会を見る場合、そういう「新鮮な視点」というものをなかなか持ちにくい、というのも、日本人によるこのような作品が少ないまたひとつの理由であると思う。
。。。などとだらだら書き綴ってみたが、急に「だから何なんだ?」と思い始めてきた。別に誰がどこで何を撮ろうとそんなことはどうでもいいじゃないか。カメラマンの国籍や住んでいる場所など関係ない。要はそれがなんであろうと自分が大切だと考えるものを撮ることができれば、それでいいんじゃないかな。
僕は別に日本人フォトジャーナリストによるこういった作品がとりたてて少ないとは思っていないが、これを、「海外で生活している」日本人フォトジャーナリスト、に限定すると、確かにphotoj studentさんの言っていることは的を得ているかとも思う。
しかし、それはある意味当然のことだろう。
日本を出て、海外で報道カメラマンとして生きている日本人たちには、それなりの理由があるだろう。人によってそのプライベートな理由はさまざまだろうが、仕事に関しては、自分自身のことも振り返ってみて、だいたい以下のようなことを考えていたのではないだろうか。
(1) 日本という狭い社会から飛び出して、世界を舞台に仕事がしたかった。
(2) 日本の日常では考えられない戦争や紛争、難民などの取材がしたかった。
(3) 日本の「フォト・ジャーナリズム」は、西洋のそれに比べまだまだ社会的地位が確立されていない、と思っている。
(4) アフリカなど、日本からでは地理的に不便な場所を継続して取材したいと思っている。。。等など
こういった理由で日本の外にでていった人間たちにとって、「狭い社会」であり、「戦争や紛争のない」日本は、写真を撮る上でそれほど魅力のある土地ではない、ということになる。
だから、僕自身のことを言わせてもらうと、休暇で日本に戻るときは「ついでに」取材をし、写真を撮ってこようとは思っても、わざわざお金をかけて見慣れた日本を取材に行こうなどとは思わない。それだけの資金と時間があるのなら、アフリカや中東に行きたい、と考えてしまう。
日本人のくせに日本の問題を気にかけないのか、この非国民め!などと叱られそうだが、こればかりは自分の「何を撮りたいのか」という欲求の問題だから仕方がない。日本国民として日本のことにはおおいに関心はあるけれど、それがカメラマンとしての「写欲」と必ずしも一致するわけではないのだ。
また、上記のような理由以外に、日本人と外国人のあいだの社会を見る眼の「新鮮さ」の違いがあると思う。
この書き込みのなかで紹介されているAPフォトグラファーの撮ったようなビジネスマンたちの日常の風景は、僕ら日本人たちにとっては、ほとんど「撮るに値しない見慣れた光景」だが、外国人の眼には新鮮に映ったわけだ。イスラムの国で頭からチャドルを被った女性たちの姿や、巨大な笊一杯の果物を頭に乗せて売り歩くアフリカ人の姿など、地元の住人にしてみればなんでもない風景が、僕ら日本人にとってとてもエキゾチックで新鮮に見えることと同じである。
日本人が日本社会を見る場合、そういう「新鮮な視点」というものをなかなか持ちにくい、というのも、日本人によるこのような作品が少ないまたひとつの理由であると思う。
。。。などとだらだら書き綴ってみたが、急に「だから何なんだ?」と思い始めてきた。別に誰がどこで何を撮ろうとそんなことはどうでもいいじゃないか。カメラマンの国籍や住んでいる場所など関係ない。要はそれがなんであろうと自分が大切だと考えるものを撮ることができれば、それでいいんじゃないかな。