Kuni Takahashi Photo Blog

フォトグラファー高橋邦典
English: http://www.kunitakahashi.com/blog

言葉のフラストレーション

2008-10-25 05:09:46 | 報道写真考・たわ言
前回のブログに書いたように物置の整理をしていたら、昔のネガのファイルと一緒に日記のようなものがでてきた。数枚のレポート用紙に当時の自分の気持ちがだらだらと綴ってある。

こんな物書いたかなあ、いや、書いたような気もするなあ、と、記憶は曖昧なのだが、ここに綴られている僕自身の気持ちは今でもはっきりと覚えている。

アメリカに来たばかりの1990年、当時つきあっていたアメリカ人ガールフレンドのメイン州の実家に、冬休みを利用して遊びにいった時のことだ。

自分の日記なのでちょっと恥ずかしいが、そのまま少し引用してみる。

「。。。毎日毎日みんなとテーブルを囲んでゴタゴタとローカルな、自分の理解できない話をされて、完全に自分がおいてきぼりになったときの孤独感は本当にみじめなものだ。なによりも自分自身に腹が立つ。これだけ長い間英語を勉強しているのにも関わらず、そのうえ渡米してからもうかれこれ6ヶ月にもなるのに、自分の英語力に全く進歩がかんじられないことだ」

「。。。せめてもう一人日本人がいて、自分の意志を鉄砲玉のようにダダダダッと表現できれば(アメリカ人の目の前ならもっといい)どんなにすっきりするだろうかと思う」

そして、こんなことまで殴り書きしてある。

「だまれ、うるさい、お前らの話なんかききたくない。胸がむかむかする。早く俺を一人にしてくれ」

今読み返すと赤面ものだが、相手の言っている事がよく理解できず、かつ自分の意見もいえないというもどかしさ、それも相手が自分のガールフレンドの家族ということで、この時のフラストレーションは相当なものだったことが思い出される。

このあと僕は、英語で意思の疎通をはかろうという努力をあきらめて、自分をシャットダウンした時期さえしばらくあったのだが、そのうちに「相手が自分の英語を理解しないのは俺のせいじゃない。俺の発音が聞きとれない相手が悪いんだ」という、驚くべき自己中心的な開き直りの発想転換で、英語の生活に順応していったのだ。

それから18年。ネイティブのようなという訳にはいかないが、言葉で日常生活に不自由する事も無くなった。

今でも時折、英語をうまく話せない人間を見下げたように軽くあしらうアメリカ人を目にする事がある。そんな場面に接するたびに、嫌な記憶がよみがえってくる。僕もたどたどしいながら英語で話す努力をしているのに、きちんと聞いてくれようとせず、まともに相手にされなかった経験はいくらでもあるからだ。

アメリカ国内はもとより、取材で国外にでるときなど、英語を母国語としない人々と接する機会が少なくないが、自分自身の苦い経験のお陰で、得意でない英語を使ってコミュニケーションをとろうとしてくれるそんな人々に対しては、僕はきちんと眼を見て、辛抱強く会話をすることを心がけるようになったのだ。

言葉ができない、というだけの理由で、人間としての価値まで下げられてしまってはたまらないだろう。

写真とは関係のない話で失礼。


ネガの整理

2008-10-15 23:16:37 | 報道写真考・たわ言
来年引っ越しをする可能性がでてきたので、今のうちから少しずつ所持品を減らしておこうと、先日から物置の整理を始めた。
一番の頭痛の種は、写真のネガやプリント類だ。

写真学校時代から数えてもう20年近く写真を撮り続けてきた。ここ6、7年はデジタルでの撮影なのでCDに落とすことで写真の管理は済んでしまうが、それ以前はすべてフィルムを使っていたから、その量は膨大なものになる。 時々思いついたときに整理はしていたのだが、なかなかその数を減らすのは難しい。今でも物置の半分以上はネガやポジのファイルと、プリントのはいったケースで埋まってしまっている。

撮影したフィルムを捨てるというのはなかなか勇気のいることなのだ。

勿論、自分のポートフォリオにいれるような大切なフレームはデジタル化して残してあるが、それ以外でもなんとなく思い入れがあったり、単に記録として残しておいたほうがいいかな、などといろいろと思いが頭を巡り、ついつい捨てるのを後回しにしてしまうものが少なくない。

こんな写真は将来まず使い道がないだろうと思われるようなつまらないものでも、その一枚一枚にはストーリーがあり、眺めていると撮影当時の思い出が心に蘇ってくる。そこには、僕のカメラマンとしての歴史、というか、自分自身の成長の記録が重なっている、とも言えるのだ。

僕はこの職業を選んだせいで、写真という媒体を通して、普通に生活していたなら出会わなかったであろう多種の人たちと時間や経験を共にする事ができた。様々なタイプの人間たちとの接し方というものを、僕は写真を撮りながら彼らとの付き合いから学んできたのだ。

だから、過去に撮ったネガを眺めていると、その向こうには当時の僕自身の姿が見えてくる。

そんな感傷に浸ってしまうと、またまた整理がおぼつかなくなってくる。やれやれ。。。


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So What? だから、それがどうした?

2008-10-10 09:47:35 | 報道写真考・たわ言
数日前、ジャーナリストである友人と電話でこんな話をした。

ニューヨーク・タイムスのある著名な記者(不覚にもその名前を忘れてしまった)と話す機会があって、その人がこんな事をいっていたという。

「記事を書いたあと、”so, what?”(だから、それがどうした?)と繰り返し自問することが大切だ」

せっかく時間をかけて取材・分析した記事を書いても、読者にとってどうしてこの記事が大切なのか、必要なのか、ということをはっきりさせないと、その価値が半減してしまう、ということらしい。

例えば、 記者が労力をかけて政治家や官僚などの腐敗などを暴いたとしよう。しかしこの腐敗のために読者である市民のみなさんがこれこれこういう風に損害を被っているのですよ、というところまで掘り下げていかないと、結局は「so, what?」で終わってしまう、ということだ。

この話を聞いて、「まさにそのとおり!」僕は思わず大きく相づちをうってしまった。これは僕が文章を書くときにいつも苦労するところなのだが、うまく言葉で言い表してくれた、と思ったからだ。

イラクやリベリアをはじめ、海外で起こっている惨状のことを、いかに日本の人々に伝える事ができるか。。。これは僕が日本の媒体に記事を寄稿するときにいつも直面する課題でもある。

いくら戦争や貧困などの現状を切実に訴えても、日本人にとっては所詮は遠い国の話、自分の日常の生活とは関係がない。せっかく記事を読んでもらっても、結局は「so, what?」で終わってしまう事が多いのではと思う。

だからできるだけ読者である日本人の生活と関連するポイントを記事の中に織り込まなくては、と頭を悩ますのだが、それでもどうしても接点がみつからないこともある。日本と比較的繋がりの濃いアジア諸国のことならまだしも、遠いアフリカなどのことになると、一般的な日本人に真剣に記事を読んでもらう事はいっそう難しくなるのだ。

最近あまりそういう記事を書いていなかったので、いいことを思い出させてもらった。

「so, what?」の自問、忘れないようにしたい。




駄文

2008-10-07 12:04:22 | 報道写真考・たわ言
ブログの更新しなきゃなあ、などと思いながらも、なかなか気分が乗らない。最近ずっと仕事がらみで長い文章を書いているので、そのうえブログでまた文を書く気になれないのだ。根が筆無精だからつらい。

それに加えて、なにか書くにしても思いつくのはみな愚痴ばかり。。。トリビューンの新デザイン(今月から紙面が一新された)の吐き気をもよおすほどのひどさや、相変わらずつまらぬ撮影が多い事など。こんなことを書いても自分の気が晴れる訳でもなし、読む人もつまらないだろうと考えていたら、さらに筆が遠のいていってしまった。

実際いいことといえば、今週気候が持ち直してまた少し暖かくなったくらいだ。

今年もあと3ヶ月をきった。リベリアに自費で戻った以外、ろくな取材ができていないと、少し焦っている。ひょっとしたら今月末からちょっと面白い仕事がはいりそうなので、それに期待。。。

なにも内容の無い駄文で失礼。