Kuni Takahashi Photo Blog

フォトグラファー高橋邦典
English: http://www.kunitakahashi.com/blog

チベット・デモ

2008-03-19 11:33:30 | シカゴ
先週から続いている騒乱によるチベットでの死者が80人とも100人とも伝えられているが、今日はそれに関連してシカゴでおこなわれた中国に対する抗議デモを撮影。

普段シカゴにいるときは、記者会見とかビジネス・ポートレートなどのつまらぬ撮影が多いので、久しぶりに撮りがいのある仕事がまわってきた。

インディアナやウィスコンシンなどの近郊から駆けつけたチベット人たちも合わせた500人ほどがシカゴのダウンタウンを行進し、中国領事館前でチベットに対する弾圧を抗議、熱気のあるデモになった。

シカゴ在住のチベット人をすべて集めても300人ほどしかいないし、正直言ってこれほど人が集まるとは思っていなかったので、僕としては嬉しくなる。やはりデモは人数が多ければ多いほどいい。

チベットといえば、ダライ・ラマ。もう10年以上前になると思うが、ボストンにいたときに僕は彼を撮影したことがある。あれだけ高名で、チベット人たちにとっては崇高なリーダーである彼も、実際目の前にしてみると、ジョークは飛ばすわ、なんだかひょうきんなおっちゃんだなあ、と思ったのを覚えている。

まあそれはいいとして、今回のラサでの暴動は1989年以来ということなので、20年ぶりの大暴動ということになる。しかし今回の死傷者数のほうがはるかに多いし、また暴動は他の地区にも飛び火しているようで、これからも犠牲者は増えるかもしれない。

中国は今年はオリンピックも控えているし、あまり過激な弾圧には出られないは思うが、それでも鉄拳をふるうことには慣れている政府だし、平和的対話を求めているダライ・ラマを「嘘つき」よばわりしているくらいだから、ちょっと心配ではある。

この先の展開の如何に関わらず、僧侶の理不尽な拘禁を始めとする、チベットでの中国政府による武力弾圧は許されるべきではないだろう。アメリカやドイツもすでに中国に対してダライ・ラマとの対話を促す声明をだしていることだし、日本もあやふやな態度を続けていないで、たまには人権尊重の確固とした態度を示してほしいものだ。

(お知らせ:写真展19日からですhttp://www.apple-tree.biz/

3人になった姉妹

2008-03-16 13:18:32 | リベリア
水曜の夜からギフトを訪ねてペンシルバニアに来ているが、今年1月にあらたにジョディのもとに養子にきたアサタが加わって、姉妹3人はえらい騒ぎ。家はもうマッド・ハウスのようだ。
(ギフトと新しい母親 http://blog.goo.ne.jp/kuniphoto/m/200612
(ギフトを訪ねて http://blog.goo.ne.jp/kuniphoto/m/200707

ようやくノエミがギフトという「新たなお姉さん」を持つことに慣れてきたところだったので、その時期にギフトの親友であるアサタを迎えることによって姉妹関係のバランスが崩れてしまうのではとすこし心配していたのだが、まあ今のところ深刻な問題はなさそうだ。相変わらずふざけが度を越しておこる喧嘩は絶えないが、泣いたり笑ったりしながらもみなそれなりにみなマイペースでやっている。

ひとつだけ気になったのが、ジョディはギフトやアサタに甘すぎるのでは、ということ。ジョディの性格上子供たちをきつく叱ることがほとんどないので、彼女たちは「母親」というよりも「友人」といった感じでジョディと接しているような印象を受けることが多い。アフリカの母親というのは一般的に威厳があって時には子供には恐ろしい存在でもあるので、それとは正反対に甘いジョディに対してギフトやアサタは口答えもやたら多い。もう少しびしっと叱ってもいいのでは、などと思うこともしばしばだが、まあ「友人のような親子関係」というものありえるわけだし、親になったこともない僕があれこれ言うべきでもないだろう。

昨年、ギフトについに戦争体験の精神的な後遺症がでてきて、ちょっと大変な思いをしているようだが、このことはシカゴに戻ってから書きたいと思う。

とりあえずは、「アンクル・クニ」と呼ばれながら、3人になった「姪」たちと過ごす時間を楽しんでいる。




ペンシルバニアへ

2008-03-11 09:32:55 | リベリア
ここのところあまりぱっとしない日々が続いている。

トリビューンのオーナーが極端な金儲け主義のサム・ゼルになってから、経費削減の憂き目にあって、海外取材が激減した。

ゼルは「読者はローカルニュースにしか興味がない」などと、国外のニュースを否定する発言もしており、僕にとってはこういう人間をトップに持つことは非常な脅威である。こういう偏狭な考えが、国民の視野を狭め、他国に対する理解を妨げ、挙句にはイラク侵攻などもひきおこすことにつながっている、ということに気づかないのだろうか。。。もともとジャーナリズムとは全く関係がなく、不動産売買で富をなしたこういう輩にトリビューンを売り渡した前経営陣の罪は重い。

そうはいっても、平カメラマンの僕が愚痴ったところで経営方針がかわるわけでもない。こちらは自分ができることをやるしかないので、昨年手がけた「貧困問題プロジェクト」のような、シカゴ近辺でできるプロジェクトを今年も始めようと、現在リサーチ中だ。アイディアはあるのだが、それを実際に撮影に持っていくためのコネクションをつくっていくのは結構大変で、時間もかかる。

そんなわけで、最近出張も全然ないので、今週水曜から数日間、ギフト(リベリアから養子になった少女)の様子を見にペンシルバニアに行くことにした。ギフトには昨年夏以来会っていないし、母親のジョディが今年の1月にギフトの親友だったアサタという少女をリベリアから養子に迎えたばかりなので、また随分環境も変わっているだろう。

しかし、ジョディのこの決断には驚かされた。ギフトを養子にしてからまだ1年足らずだったし、ギフトと妹のノエミとの関係もようやく落ち着いてきたところだったので、あらたにまた養子をとるなど、とても僕には考えられないことだったからだ。

アサタが姉妹に加わってからすでに2ヶ月が経ち、電話で話す限りとりあえず皆うまくやっているようだ。まあいろいろなことを含めて、彼女たちの新しい生活をまた写真に収めてこようと思っている。

(お知らせ)
目黒区美術館区民ギャラリーで来週19日から23日まで写真展がひらかれます。機会がありましたらどうぞ。
http://www.apple-tree.biz/

「真似る」写真

2008-03-05 03:03:53 | 報道写真考・たわ言
コメント欄で、Qサカマキさんと僕の写真のいくつかが酷似しており、どちらかが「真似ている」と糾弾されているようだ。別に僕にとってはこんなことはどうでもいいことなのだが、興味がある人もいるだろうから、一応撮影の現場の状況を説明しておきたい。

コメントの返事にも書いたように、紛争地の現場ではカメラマン2-3人がチームになって取材をすることは少なくない。これは、単独行動をするよりも、暴徒に襲われる確立を減らすことができるし、いざというときにお互い助け合うことができるからだ。また、取材にかかる経費が保障されていないフリーランスのカメラマンであれば、ドライバーや通訳を共有することにより、経費を折半できる利点もある。

ちょっとニュース価値の大きな現場になると、国内外から大勢のカメラマンが集まってくる。アメリカから距離の近いハイチなどそのいい例で、2004年の暴動のときなど、市内のホテルはみなジャーナリストで一杯になっている状態だった。

ハイチの首都ポルトープランスなど、それほど大きな町ではない、暴動やデモがおこれば、何十人ものカメラマンたちは自然とみな鉢合わせになるわけだ。暴動の中で、誰かが派手な行動にでたりすると、その人間を撮ろうをカメラマンがワッとその被写体に集まってくる。みな一番いいアングルで撮るために必死なので、お互い肘を使っての押し合いへし合いになることも珍しくない。カメラマン同士の視点が似ていて、同じアングルを狙おうとすれば、それはなおさらのことだ。

これが例えば死体が路上に横たわっているような、同じ状況がある程度一定して続くような場面であれば(死体が動き出して位置が変わるということはないので)、一人のカメラマンが撮ったあとにその場所を譲って他のカメラマンに撮らせる、ということもあるのだが、緊迫した暴動などではそうはいかない。そのときの「一瞬」を撮らなければ、もうその場面はやってこない。

僕はハイチとリベリアでQさんとチームを組んで行動していた。Qさんとは1992年にハイチで知り合ってから、もう15年以上の付き合いになる。お互い経験のあるカメラマン同士で信頼できるし、僕は新聞社、彼はマガジンがクライアントなので、競争の心配もそれほどない。しかし、同業である以上、やはり現場での被写体に対する視点とかアングルが似ることは避けられない。特に被写体がひとつしかないときは、Qさんとさえも押し合いのバトルになることもある。ハイチで撮った写真の多くは、僕とQさん以外にも、他のカメラマンたちが大勢いたので、同じ被写体を撮った似たような写真がいくつも存在するはずだ。今回の場合、たまたま僕らは日本人で日本の媒体で写真を発表したから、僕ら2人の写真が比べられたに過ぎない。

僕は残念ながら取材に行くことができなかったが、2年前のイスラエルのレバノン侵攻のときも、多数のカメラマンが押し寄せ、ニューヨーク・タイムズやLAタイムス、AP通信などを含めて、撮ったカメラマンは違うのに同じような写真がいたるところで掲載されていたが、こんなことは、大きなニュースであればあるほど避けられないことなのだ。

以上がハイチに関する写真についての現場からの説明だが、写真を「真似る」ということについてさらに言及しておこう。

日常の現場でも、他のカメラマンが撮っているアングルをみて、ああ面白いな、とその撮り方を「真似て」撮ることは時々あることだ。これは僕自身にも経験があるし、特に学生のころや駆け出しの頃は、そうやって他のカメラマンから学んでいくことになる。やはり僕も自分独自の写真を撮りたいという気持ちは持っているので、そう頻繁にあることではないが、今でも時にはそのように他人の撮り方を「真似る」こともあるし、逆に僕の撮り方をみて、他のカメラマンが同じ角度に寄ってくることもある。

こういう撮り方がきらいなら、それを批判することは読者の自由だし、僕にはどうでもいいことだ。ただ、仮に同じ現場で誰かが他のカメラマンの写真の撮り方を「真似た」からといって、虚構の場面をつくりあげる「やらせ」などとは違って報道の本質に関わることでもないし、特に目くじらをたてるほどのこともないのにとは思うのだけれど。。。