Kuni Takahashi Photo Blog

フォトグラファー高橋邦典
English: http://www.kunitakahashi.com/blog

闇の村と石油ターミナル

2005-10-30 18:43:25 | アフリカ
3日ぶりのシャワーと、腹一杯の食事。。。身体がリフレッシュされた。

ポート・ハーコートより車で2時間程南下し、さらに小舟で5分ほど海を渡った島にある漁村で3日間を過ごしたあと、昨夜町に戻ってきた。ホテルにチェックインし、海風と砂、それに汗でべとべとになった身体をきれいに洗い流してから、レストランで熱い魚のスープとライスをしこたま食べる。村では持参した缶詰とクラッカーばかりだったので、シンプルな料理だが腹にしみる。連日の睡眠不足と貧困な食事で疲労していたせいもあって、レストランでビールを一本飲んだだけで、もうぐったり身体が重くなってしまった。

電気も水道もとおっていないこのイタック・アブシという村は、産油地帯の真っただ中にありながら、その恩恵を全く受けていないどころか、石油公害により村の支えとなってきた漁業がダメージを受けた村のひとつだ。そこでは、本土側にある大手石油会社エクソン・モービルの石油ターミナルと、海上に建設されたプラットフォームから立ちのぼる巨大な炎が24時間休むことなく空を焦がしていた。

2日目の晩、村の漁師の深夜漁に同行した。近代都市のごとく、きらきらと明かりの灯っているターミナルの反対側にある村の方向に眼を向けると、そこにはただひっそりとした闇があるだけだった。搾取する側とされる側の対照的な姿だ。。。

取材の詳細はプロジェクト終了後レポートしたいと思う。

今日はホテルをでたあと別の村に移動する。この先数日間はまた原始的な生活を強いられそうだ。

ポートハーコートより

2005-10-27 15:53:51 | アフリカ
昨夜ポートハーコートにはいる。

ラゴスから45分程のフライトなのに、サンドイッチのサービスがついていた。5時間のフライトでもピーナッツしかでないアメリカの航空会社とは大違い。

N.D.P.V.S (ナイジェリアン・デルタ・ピープル・ボランティア・サービス)のスポークスマンにインタビュー。このグループはデルタ地域の住人を代弁する形で政府相手にたちあがった組織だ。この地域にはいくつかの武装組織があるが、その中のひとつでもある。時間がないのでインタビューの内容まではここで書けないが、熱っぽく語る彼の話は2時間に及び、ホテルに戻ったのは夜の12時近かった。

これから数日農村部にはいるので、ブログの更新はまた街に戻ってからになります。

ナイジェリア到着

2005-10-26 18:40:54 | アフリカ
「ああ、また戻ってきた。。。」

飛行機を降りる間際、外から入ってきた生暖かい空気の匂いを感じて、僕はまたこの地に戻ってきたことを実感した。僕はナイジェリアは初めてなので、この国に戻ってきた、という意味ではない。リベリア、シエラレオネ、コートジボワール、そしてナイジェリア。。。おなじ西アフリカに位置するこれらの国々には共通した「空気」があるのだ。なんとなく焦げ臭いなかに、人間の体臭の混ざりあった、多湿でねっとりと肌にまとわりついてくるような「空気」がそこにはある。国は違えど、いつもこの地域を訪れるときは、まず最初にこの「空気」が肌と鼻を刺激する。そして僕は、またここに来たんだなあ、という気分にさせられるのだ。

面倒だといわれていた入国審査もすんなり通過し、荷物もまったくチェックされることなく空港をでる。覚悟していただけに、拍子抜けした感じだ。聞くところによると、最近は空港での状況がずいぶん改善されてきたとのこと。
2日前に南アフリカから到着していたレポーターのポールと、ナイジェリアで僕らのフィクサー(アシスタントのようなもの)をしてくれるサムが出迎えにきてくれていた。

空港から車で小一時間、ラゴスアイランドにあるホテルに午後9時頃到着。小綺麗で設備も整ったいい宿だ。ホテル内のレストランで食事をしながら簡単な打ち合わせをおこなう。僕はシーフードのシチューを注文したのだが、イカと貝ばかりで、魚の切り身などははいっておらず、ちょっと期待はずれ。

2日目の今日は産油地帯であるデルタ地域にあるポートハーコートという街に飛行機で移動する。これから1週間程は、その付近の村を訪れ、産油地域に住んでいながら、その恩恵をほとんど預かっていない人々の生活を取材していく予定だ。


ついに出発

2005-10-25 00:36:43 | アフリカ
粘ったかいがあった。

アンゴラ大使館で、嫌な顔をされながらも問答を繰り返し、もうここに居座るぞというほどの意気込みが伝わったのか、ついにビザがおりた。これで予定通り出発できる。

最初の取材国はナイジェリア。飛行機に遅れがなければ、現地時間の火曜日夜にラゴスに到着する予定。
飛行機事故や大統領夫人の死去など、ここ数日間ごたがたが続いている国なので、普段から相当混乱しているといわれる空港の状況が悪化していなければいいけれど。。。入国審査や荷物審査もかなり面倒なようだ。

まあ、アフリカに行くときはいつも面倒がつきまとうものだ。いろいろと予期せぬことは起こるだろうが、なんとかなるだろう。いままでがそうだったように。。。

ワシントンDC到着

2005-10-24 12:09:38 | 報道写真考・たわ言
午後9時、珍しく定刻通りに飛行機はDCに着陸。

週末とあって、飛行機は満席、というよりオーバーブッキングされていたようで、次の飛行機に移ってくれる乗客をボランティアで募っているほどだった。ボストン時代の友人で、現在DCで日本のラジオ局の仕事をしている仲野君と軽い食事をしたあとホテルに戻る。DCはみなやたらホテルの値段が高くて、そこそこのところを探すのに苦労したが、なかなかいいところが見つかった。Carlyle Hotelというブティックホテルで、ここからならアンゴラ大使館まで歩いていける。

さて、明日の朝は9時の開館にあわせて大使館に行く予定だ。ビザがおりれば午後6時の便でアフリカに向けて出発できるが、果たしてどうなることか。。。。

出発準備・頭痛のタネ その2

2005-10-23 03:20:14 | アフリカ
参った。。。悪い予感的中。

アンゴラのビザが、金曜日におりなかった。こちらからは電話でひたすら懇願し、おまけにワシントンDC在住の友人まで巻き込み、彼に大使館まで行ってかけあってもらったが、それでも拉致があかず。

相手は僕が月曜に出発予定であることを知っているし、ラッシュ(急ぎ)プロセスのために普通の倍の値段も払っている。(なんと220ドル!)なによりも申請の際に彼らは、木曜日にはビザが発給される、と言っていたのだ。こういうことを懸命に説いてみても、

「本国からの連絡がきてないので、どうしようもない」

の一点張り。

こうなったらもう自分がDCに乗り込んでいくしかない。ビザが月曜に発券されても、パスポートをシカゴまで送り返してもらう時間がないのだ。日曜日にDCに飛んで、月曜の朝大使館に押しかける。そこでなんとかビザを発給してもらって、午後にアフリカに向けて出発することにする。そうすれば、乗り継ぎ地のロンドンからラゴスまでは予定通りの飛行機にのることができる。

航空チケットを変更しなくてはならないので旅行会社に電話を入れるが、4カ国を含む複雑な航路であるうえに、シカゴではなくDCから出発することになると、航空会社もアメリカンからユナイテッドに変えなくてはならず、おまけにすでにチケットが発券されているので電話での変更は不可能とのこと。結局空港のチケットカウンターまで行かなくてはならなくなった。

金曜日の午後といえば、週の中で一番道路が混雑している時間帯だ。ラッシュアワーの真っただ中をだらだらと1時間以上かけてようやくオヘア空港のチケットカウンターにたどりつくが、今度はカウンターにも人の列が。。。発券ブースにはユナイテッド航空の事務員がたった一人しかいないうえに仕事がのろい。ここのカウンターに来る旅行者たちはみな、僕のように面倒な変更手続きをしなくてはならないためか、いっこうに列が進まないのだ。結局1時間ほど待ったあげく、当分自分の順番はまわってきそうになかったので、翌日出直すことにした。ちなみに帰りも渋滞に巻き込まれて1時間半程無駄にするはめに。

今朝(土曜日)はカウンターが込み合う前にと、7時に起きてすぐに空港に向かった。案の定非常に面倒な手続きだったようで、対応にあたってくれた女性が閉口しながら30分以上かけ、ようやくチケットの再発行をしてもらった。

アンゴラの大使館が予定通りビザをだしてくれなかったおかげで、まったくえらい時間と労力を浪費したものだ。

現在、荷造りの合間にこのブログを書いているが、月曜日のことを考えると頭が痛い。月曜の朝、アンゴラの役人達が僕を眼の前にして、ぬけぬけとまだビザが発券できない、などとのたまおうものなら。。。。(プチプチッ)






出発準備・頭痛のタネ

2005-10-21 07:30:58 | アフリカ
アフリカへの出発が決まり多分に忙しくなってきた。
とはいえ、写真機材やその他の荷造りに関しては普段とそれほど変わりはないので問題はない。ただ今回は、取材に付随する面倒なことがいろいろと重なってしまい、それで頭を痛めている。

(1)ナイジェリアのビザ取得に、予想を大きく超えて6週間もかかった。
(2)年末が近く、財政状態のあまり良くないトリビューンが取材費を切り詰めようと、細かいことを言ってくる。
(3)取材後シカゴに帰ってから年末までほとんど時間がなくなる恐れがあるため、コンテストの準備のために写真の整理をしておかなくてはならない。
(4)飛行機のつながりが悪いアフリカの国をいくつかまわるので、航路の決定が面倒。
そして。。。
(5)今日発給されるはずだったアンゴラのビザが、まだおりていない!!!のだ。

(1)については既に解決済み。(2)については、経理部の人とぐたぐたとメールのやり取りをしたあげく、結局今日は取材費の折り合いがつかず、明日までお預け。(4)は、実に親切、かつ的確に電話で対応してくれた旅行会社のジャッキーさんのおかげで、なんとか無駄な時間を浪費せずに取材の仮行程が組めた。

面倒なのは(3)の写真の整理。毎年1月には各写真コンテストの応募締め切りが目白押しになるので、年末までにある程度応募写真の整理をしておかなくてはならない。日頃の整理を怠っている僕は、いつも年末年始になってから、1年分の写真の見直しと整理、応募写真の準備できりきり舞いするはめになる。今回はこのアフリカ取材のあとにすぐ中東にいくことになっているので、年末までほとんどまとまった時間が取れない。それで出発前にできるだけ写真の整理を済ませてしまおうとやっきになっているのだ。

そしてもうひとつの頭痛のタネが、またもやビザ!今度はアンゴラである。大使館では今日ビザをだしてくれるようなことをいっていたのに、本国からまだ連絡がない、とかいって認可されず。。。僕は月曜のフライトで出発する予定なので、明日(金曜日)発給されるとしてもフェデックスでパスポートを送り返してもらってぎりぎりだ。もし明日もビザがおりなかったとしたら。。。。そんなことを考えるのはやめにしよう。同じようにビザの問題で、フライトの数時間前にパスポートが届くという綱渡りは以前にもしてきたし、今度も大丈夫だろう。。。と信じたい。

どんな取材のときも、物事すべてがスムースにいくなんてことはあり得ないのである。


ナイジェリアビザ

2005-10-19 23:41:40 | アフリカ
ついに、許可が下りた。

今朝ワシントンDCにあるナイジェリア大使館から、ジャーナリストビザがおりたと連絡があった。
申請してから6週間以上、あまりのプロセスの遅さにやきもきしながら、ほぼ毎日催促(懇願?)の電話をいれてきた。
いままでビザを申請をした国々のなかでも、最長の「待ち時間」を強いられた。

これでひとつの難関はクリアできたので、引き続きすぐにアンゴラへのビザ申請をおこなう。こちらのほうはそれほど時間はかからないだろう。(と願う!)

毎度のことだが、国外の取材からシカゴに帰ってきて1ヶ月半もするとまた外にでたくてうずうずしてくる。もう病気のようなものだ。6月にアフガニスタンから帰ってきてからもうすぐ4ヶ月が過ぎようとしている。その間に休暇で日本に帰ったり、先月には2つのハリケーンを取材してしのいできたが、そろそろ限界だ。

来週はじめにはアフリカに向けて出発できることを願う。

一人の人間の死から

2005-10-18 23:21:24 | 報道写真考・たわ言
仙台の友人からメールが届いた。

「悲しいお知らせです」とタイトルにあったそのメールは、一人の人間の死を伝えるものだった。

森塚威次郎というその男性は、活動家で、医学博士でもあったという。
そして昨年、仙台市で僕の写真展を企画、実現してくれた実行委員のメンバーでもあり、その最年長者であった。

彼の存在は、皮肉なことに彼の死を伝えるメールで初めって知った。僕は彼と一面識もなかったのだ。

彼と親しかった、実行委員のリーダーが彼女のブログで森塚氏のことを回想している。

「森塚さんは、
温かい方でした。
厳しい方でした。
気配りの方でした。
優しい方でした。
そして何より、
人の痛みに寄り添い、
傷が癒えるのをじっと一緒に待ってくれる方でした」

こういう人間と、僕の写真を通して接点を持ったにも関わらず、面識をもてなかったのが悔やまれる。

昨年は、ボランティアの方々の熱意と尽力によって、仙台を皮切りに全国6都市で写真展をひらいてもらうことができた。しかし、実際に力を貸していただいた人達に僕はほとんど会うことができなかった。取材がたてこんでいて、日本への帰国がままならなかったとはいえ、みなさんには失礼なことをしたと思う。

一度も会ったこともない人々の手によって、僕の写真は伝えられ、そのメッセージは伝えられていく。
僕の知らないそういう人達の存在が、僕の写真を支えている。。。
一人の人間の死をきっかけに、そんなことをあらためて考えさせられた。

森塚氏のご冥福をお祈りします。

カラオケ

2005-10-17 13:47:20 | 報道写真考・たわ言
最近カラオケに行くことが多くなった。

ボストンに住んでいた15年間の間にはカラオケにいったことなどせいぜい1回か2回。さかのぼって日本での学生時代だってほとんどいった記憶がない。だいたいカラオケボックスなるものが流行りだしたのは、僕が日本をでて、アメリカで生活するようになってからだ。

それが昨年シカゴに引っ越してきてから、いきなり行く回数が増えた。

それはズバリ、「歌い友達」ができたからに他ならないが、さらにシカゴには、韓国系(日本の歌もしっかりある)のものも含めて、カラオケ屋が多いのだ。

出張取材がなくシカゴにいるときは、月に一度くらいの割合で友人たちと一杯やりながら歌いにいくことが今ではすっかり楽しみになってしまった。

トリビューンに移ってから、イラクやアフガニスタン、アフリカの国々など、年のうち半分くらいは海外取材にでているような生活になったが、無意識のうちにやはりどこかにストレスが溜まってきて、そんなものを歌と一緒にはきだしているのだろうか?

歌い友達のひとりが、そのまた知人の言葉として食事の席でこんなことを言っていた。

「日本人にとっての『歌を楽しむ』という文化をつくりあげたのはカラオケだ」

その知人がいうには、歴史的にも一般の日本人にとって「人前で歌う」という行為は、義務とか強制でやらされることが多かったが、カラオケの浸透によって普通の人々が歌う楽しみに開眼した、ということらしい。

確かに僕の小学、中学生時代を思い出しても、なにかの罰ゲームで歌わされたり、音楽の時間に強制的にクラスのみんなの前で歌わされたり、新入部員挨拶で歌わされたりと、自分の意思に反して義務的に歌わされた記憶のほうが多い。

このカラオケ論、極端なような気もするが、それでも一理あるなあ、と思わずにはいられない意見ではある。まあ僕にしてみれば、歌をはじめとして音楽というのは、その字の示す通り、音を楽しむことができればいいと思っているので、そのための能書きは必要ないのだけれど。。。

そういうわけで、もっと楽しめる機会を増やそうと、ここ最近はトリビューンのカメラマン達や他の部署の友人達もまるめこんで、カラオケ友達の輪を広げている。みなカラオケボックスの存在など知らなかった連中ばかりなので、仲間うちで気楽に歌える環境が大受けだ。しかし彼らはアメリカ人なので歌うのも勿論英語。僕も英語の曲のレパートリーを少し増やしてみるかな、などと密かに企んでいる。


子供達からのメッセージ

2005-10-16 14:18:15 | 報道写真考・たわ言
横浜から郵便が届いた。

昨年末におこなわれた僕の写真展での来訪者の感想メモを、写真展を企画、実現してくれたボランティアの人々がまとめて送ってくれたのだ。学校の授業の一環として来てくれた子供達もいたようで、パッケージのなかには彼らからの感想文も多く含まれていた。
写真展は、拙書「ぼくの見た戦争_2003年イラク」(ポプラ社)の出版後におこなわれたもので、イラクを始め、リベリアやハイチなどの紛争地からの写真を集めたものだった。

本や写真展の感想はとても励みになる。それが子供達からのものであれば、なおさらだ。

小学生でもいろいろ考えているんだなあ、とこちらが感心させられてしまうものも少なくない。

物資の溢れかえっている日本でほとんど不自由なく暮らしている日本の子供達にとって、(いや、大部分の大人にしても同じだろうが)戦争なんて映画やテレビのなかでの出来事にすぎないだろう。普段それを想像する機会さえほとんどないのではないだろうか。そんな子供たちが僕の写真をみて、戦争や平和、死についてあらためて考えてくれる。

「これからは『戦争』の二文字の言葉をなくすために将来気をつけて生きていきたいです」
「『死ね』とかいっている人がいたら、絶対に注意しなきゃいけないなと思いました」
「。。。退屈と思った何もない日々が本当は幸せなんだって気づきました。今までわがままだった僕は、自分の命も人の命も大切にして生きていきたいと思います」
「現実から目をそらしてはいけない。。。未来をつくるのは私たちなんだよ!!。。。どの写真もそれを思わせるものでした」
「。。。これからも写真をとりつづけてください、ファイト」

拙いながらも丁寧に書かれた小学生達のこんな文字を読んでいるとき、僕は自分の仕事に意義を見いだすことができる。





憲法は「理想」

2005-10-15 09:03:34 | 報道写真考・たわ言
昨夜は久しぶりに酔った。

仕事帰りにカメラマン仲間とトリビューンの隣にあるバーによったのだが、カウンターで飲んだのでつい杯がすすんでしまったようだ。アパートに帰るなり、ズボンを脱いで靴下とってそのままばったり、ということになってしまった。

そんなわけで今朝はあまりすっきりしない起き抜けだったのだが、腰を下ろしたトイレで読んでいた永六輔氏の「無名人語録」のなかの、こんな言葉が目にとまった。

「憲法というのは規則じゃありません。理想なんです、理想。夢といってもいい、それを改正するなんておかしいでしょ」

誰がいったのかは知らないが、まさになんと的を得た言葉か!と感心してしまった。

平和憲法九条に関してこれまで議論されてきていることは「改正」どころか「改悪」だろうと思うが、憲法が国家の「理想」と考えるならば、それに対する僕らの姿勢がどうあるべきかがはっきり見えてくるではないか。「改正」や「変更」などとぐたぐたいう前に、僕らが戦後からずっと持ち続けてきたこの「理想」を実現するためにいまの日本は努力しているだろうか?

まだ酒の少し残っていたあたまが、少しクリアになったような気がした。

手段は選ばず

2005-10-13 10:14:12 | 報道写真考・たわ言
早朝6時からシカゴ郊外にあるガソリンスタンドで撮影。これも石油問題プロジェクトの一環だ。そんなわけで起きたのが朝4時半、早起きはそれほど苦にならないが、さすがにここまで早いとしんどい。現場に向かう途中、車のラジオからこんなニュースが流れてきた。

「L.A.エンジェルス(大リーグ野球のチーム)の選手達が宿泊しているシカゴのホテルで、選手達の部屋のドアをたたき回って安眠を妨げた男2人が逮捕された」

ここで状況説明をしておこう。
昨夜(11日)、ここシカゴではアメリカン・リーグの優勝決定シリーズがシカゴ・ホワイトソックスとエンジェルスのあいだで幕をあけた。レッドソックスを3連勝で下し、早々に勝ち進んでいたホワイト・ソックスに比べ、ヤンキースとがっぷり四つに組んで5戦をフルに戦ったエンジェルスが決勝進出をきめたのは10日の夜。シリーズのスケジュール上、その翌日にホワイトソックスとの第1戦を戦うという強行軍になった。
ヤンキースとの試合後、エンジェルスの選手達がシカゴのホテルにチェックインしたのは昨日の明け方近く。その晩には第一戦開始ということで、ほとんど休む間もないという状況だった。そのエンジェルスの選手達にとって球場入りするまでの貴重な睡眠時間を妨害してやろうと、ホワイトソックスファンの2人組がホテルに侵入しドアをたたきまくった、ということだった。

このニュースをきいて僕はたまげたが、と同時に、ありえるよな~と妙に納得もしてしまったのだ。

自分の利益のためには手段を選ばない。。。
「正々堂々」なんて言葉はあんまり存在しないんだから、この国には。

96年のアトランタ・オリンピックのときを思い出す。体操競技で、アメリカの選手がでる度に「USA! USA!」の大唱和。同時に競技していた他国の選手達が、全然集中できない、と不平を漏らしていた。あれはテレビで観ていてもひどいものだった。

スポーツだけではない。イラク戦争だって、アフガニスタンの爆撃だって、さかのぼってベトナム戦争だって、すべて自国の利益ばかりで、相手のことなんて眼中にない。相手も同じ人間だっていう感覚が欠如しているんじゃないか、と思う。

捕まったホワイトソックスファンの2人は取り調べでこういったそうだ。

「俺たちはホワイトソックスのために、自分たちの役割を果たしたんだ」

なんかイラクにで任務に就いている多くの米兵の言葉に似ているよなあ。。。。

不平等な命の重さ

2005-10-11 09:10:19 | 報道写真考・たわ言
土曜日におこったカシミールでの地震の犠牲者が2万から3万になりそうだといわれている。

石油問題のプロジェクトが始まっていなかったら、取材にいかせてもらえるようすぐに名乗りをあげていたところだが、実際に取材が会社から認めらていたかどうかははなはだ疑問だ。現実にいまのところトリビューンからフォトグラファーは誰もこの地震取材に派遣されていない。年末も近くなり、財政状況が厳しくなっているために、ニュースに限らずスポーツや文芸などすべての部署で出張取材が切り詰められているのも大きな理由だが、それだけではない。

この地震が、ロンドンやパリ、東京などの先進国首都でおこり、そこでこれだけの犠牲者がでていたとしたらどうだったろう?

間違いなく1人ないし2人のフォトグラファーがシカゴから現地に送られていたと思う。財政云々いっている場合ではない。まさしくそれは大事件だからだ。

ほぼ毎年のように何処かの「後進国」とよばれる国で大天災により何千、万という人間が命を落としている。しかしそれは同規模の災害が「先進国」でおこった場合ほどの大ニュースにはならない。

ここに見えてくるのは、「後進国」の人間の命の重さは「先進国」のそれより軽視されている、ということだ。少なくともアメリカのメディアをみればそれは明らかだし、ここトリビューンのニュース・ルームでも、地震のことよりも、プレイオフを順調に勝ち進んでいるホワイト・ソックスのほうが話題になっているようだ。

しかし、こんなことを書いている自分も、悲しいかな例外ではないのだ。もし、この大地震がパリや東京などでおこっていたら、石油問題のプロジェクトを後回しにしても取材に行かせてくれと上司に頼み込んでいただろうと思う。第一報を聞いて「また地震か。。。」程度にしか考えなかった僕は、取材に行くため上司を説得する努力さえもせずに、自分のプロジェクトを優先させたのだから。。。


ジャーナリストの本心?

2005-10-10 12:56:50 | 報道写真考・たわ言
灰谷健次郎氏の「いのちまんだら」を読んでいたら、こんなエピソードがでてきた。作文教師の玉本格氏が訪問教師をしているとき、子供からこんな詩をつきつけられたという。

先生はよそのひとだ
ほんとうに子どもがすきだから
先生をやっているのか
お金をもうけるために
しかたなくやっているのか
わたしは
それがいちばん知りたい

これって、「先生」のところを、「ジャーナリスト」に変えてみても意味がとおるな、と思った。僕らフォトジャーナリストは、現場にでかけていっていくら被写体と時間を過ごしても、所詮は「よそのひと」だ。この仕事をしていても、苦境の中にいる被写体の人達のためになるよう、という使命感なのか、単に自分の自己満足のために写真を撮っているのか、自分でもよくわからなくなることがある。