kotoba日記                     小久保圭介

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自然(じねん)の脚

2019年09月10日 | 生活
              
              


朝の空
秋の空になってきた
秋が来た
そう思った

晩年の小島信夫の作品について

茨木のり子の言葉
「死こそが常態である」
という逆説

まどみちおの晩年の
詩作について

後ろ脚のないクワガタムシが
それでも動き回る姿
それが自然(じねん)

吉本隆明が言う
自然(じねん)

もの書きは
最後まで書くことが
生きること

脚の悪い高齢者が
5分で行けるコンビニまで
1時間半かかって
歩いては休み
休んでは歩き
壁に手をつき
電柱に手をつき
転唐オないように
杖をつき
悪い方の脚を
良い方の脚で
カバーし
三点歩行
片手の壁に
付けた一点
大丈夫な方の脚が二点目
杖を持った手が三点目

三点歩行で歩く
ということ

歩く意志
とは
生きる意志だ

生きようとする
だから
歩こうとする
それは本能であり
後ろ脚がない
クワガタムシと同じ
生物の本源だ

ーーー

自販機の前で号泣することから
連想されたのは
小島信夫の
「一滴の涙が出た」
の一文に匹敵するという
ウエットだと
自販機の前で号泣
ドライだと
「一滴の涙が出た」
これは同質だと言う

吉増剛造が今
吉本隆明の詩を
書き写している
思想と詩が
結びついている
まれなことではないだろう
と推測する
吉増にとって
吉本とは何だろうか

日本の代表的詩人
藤井貞和と吉増剛造
二人が影響されている
人物名がある
民俗学の
折口信夫である
そこをやれば
二人の詩人が判る
それは系譜だ
けれど
あまりにも
対象が大きい
躊躇する
けれど
いつかやりたい折口信夫

自然(じねん)である
ということ
ヤスオさんの
じねん

政治と思想と文学は
実は同じだ
と高橋源一郎は最近言った
「どうしてかというと、みんな『言葉』だから」

印象に残る発言だった

車椅子の晩年の吉本隆明を
講演させたのは
糸井重里
客席には吉本フリーク
著名人もいただろう
体がだめになっても
吉本隆明の頭は冴えていて
最後まで
指示表出と言った
それを手ぶりで
言った
それを動画で見ていた
「圭介あの動画持ってないかな」
現代音楽家から電話があった
「ない」
「オーケ。探す」
のちに
「あった。売っていた。糸井重里事務所で」

糸井重里はあの時の
吉本隆明を
キリストのようだ
とたとえた
吉本の仕事が
本当に判る実感は
わたしには来ないだろう

小坂修平がなくなった
ことも
加藤典洋がなくなった
ことも
萩原健一がなくなった
ことも
デビッドボウイが
なくなった
ことも
たくさんの
わたしたちの
思考を鍛えた
感覚を鍛えた
転換期になったことも
全部
本だ

その蔵書は
今では
10円で
文字通り
bookoff
となったのだ

晩年が近づけば
処分せねばならない蔵書
捨てられないもの
本が捨てらない

言う
図書館に寄贈するがの
流行るような気がする
知れた金額を手にするより
図書館で
誰かが
読んでくれるかもしれない
わたしたちの蔵書

わたしの場合
どうしても捨てらない本が三冊ある
それは若い時に
何度くり返し
読んだことだろう
源一郎の初期の三部作
「さようなら、ギャングたち」
「ジョンレノン対火星人」
「虹の彼方へ」

これが文学の転換期をうながした
代表である

ある人は太宰だという
救われた
と言う

それならば
わたしは
フォークシンガーの
いとうたかおさんの
ライブ録音させてもらったテープ
のちに収録された数々のアルバム
それは捨てることはできない
30代に救われた歌だったから

本棚は自分だ

本棚を見れば
その人が判るという

本棚は自分自身だ

本を捨てる
という
こと

自然(じねん)
という
こと。

秋の



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