kotoba日記                     小久保圭介

言葉 音 歌 空 青 道 草 木 花 陽 地 息 天 歩 石 海 風 波 魚 緑 明 声 鳥 光 心 思

無思考からの逃走

2019年09月11日 | 文学
『燃えあがる緑の木』

その動画を見ていると
作品を読んでいた時のことが
思い出せない
本は確かに本棚にあるのに
内容もすっかり忘れている
読書で内容を憶えているのが希少だ
村上春樹なんて読んだ直後から
あれ何が書かれてあったんだろう
っていうことが常
読書は音楽みたいに
感覚しか残っていない
『燃えがある緑の木』も同様
憶えていないのだ
憶えられないのだ

ただ動画を見ていて
大江健三郎の
「一瞬よりわずかに長い時間」
というフレーズの意味
それはとても重要
その数十秒、数分間を
死者たちと見た記憶があり
それを死者とともに
現在も見ることができる
これは「魂」の問題であり
永遠に「魂」はどんな形であろうと
生き続けている
という大江の確信である

そこに
死んでも永遠に魂は生きて
わたしたちと共にいてくれる
それが
わたし自身にとっても
救済になった

大江が
救済を描く
わたしが大江を読む気持ち良さと
癒しと安心は
生死の区分ではない
「魂」の永遠だ
あのゴツゴツした文体だからこそ
一行一行
立ち止まって考えながら
の「時間」を与えてくれる
読者が
通りすぎないように
と願ってのあえての悪文

大江の初期の文体を
村上春樹は模倣している
と鋭い指摘を
カフカ先生は当時
発した

それくらい
大江の初期の文体は
読みやすかった

あえて変えた
読者は離れ
新しい読者を呼び込んだ

---

すごく前
吉本ばななちゃんが
言っていた
「死者との対話が一番リアル」
それは理屈抜きで共感した、する

死者は何も言わない
けれど
語りかけることで
繋がっている

昨日は大好きだった祖母の命日だった
あれから48年も経った
「兄も俺も歳をとったよ、知ってるでしょ」
そんなことを
西の空に向かって
話している

祖母との
『一瞬よりいくらか長い時間』
それを今でもいくつか思い出すことができる
その場所に立てばさらに良いのだけれど
思い出すだけで
匂いまで嗅げそうだ
祖母の笑顔

『燃えあがる緑の木』

魂は作中の『森』に帰ってきて
わたしたちと共に暮らすという
森は二酸化炭素を吸収し
酸素を排出する
動物は酸素を吸収し
二酸化炭素を排出する
それが植物と動物の共生関係だ

その森の空気を呼吸することは
さらに身体的に死者と
共有することを意味し
一体化するという大江の言い方

既成の宗教ではなく
なにもない祈りと瞑想の場所
それはどう考えても
大江が『キリスト教』と書けない
ところである

いつだった
大江は松山だったか
牧師に言われた
「あなたはそこまで信仰をしているのだから、信仰者だといって良い」
そう言われた大江は
逃げ帰ったという
信仰を否定する
つまり何かを信じると
すべてのことがらが
全部教義の解釈になってしまう
あらゆることを
宗教的に片づけてしまう
それは結果の原因
または結果の理論を考える
ということをしなくなる
という恐れからだとわたしは思う
原理の無思考性を大江は恐れた
大江はインテリだから
何故か
という問いを
すべてに持って
それを宗教という原理で
片付けてしまうことから
「逃げ帰った」のだ

だからすぐそのあとに
『信仰を持たない者の祈り』
というエッセイを書かざるを得なかった
それは大江の意思表明以外
何物でもない

大江は構造主義の魅力に取りつかれた一人であるにも関わらず
信という原理に強い実感と憧憬を持たざるを得ない

牧師が言ったことは本当だったからこそ
理に帰らねばいけない
と立ち返ったけれど
それでも
上記の題が示すように
大江の中で
感受と理論の両方を
原理主義と構造主義の両方を
両肩に担ぎ
脚を踏ん張って
生きてゆく
という表明である

信仰に沿いたい
けれど
自身でストップと言う
ある意味
考えたい欲望を持つ人の
禁欲性といえる

---

大江の言葉で
『自動化作用』
という言葉がある

それは
普段見慣れている

部屋
ドライヤー
パソコン
通いなれている
植え込みの花

それを脳は一度認識して
自分に危害、危機を与えない
対象だと認めると
当たり前のように
見過ごしてしまう
自動的に
「これはドアだ、これは鍵だ」
と再認識せずに
家を出てゆく
ところが
そのドアを初めて見た驚き
鍵を初めて見たとき
そのギザギザの形状の複雑さを
おそらく誰もが数秒間は見る

あらゆることに慣れてしまうと
新鮮さは失う
自動的に鍵をとり
ドアを閉め
いつもの道の
草や木
店を
通り過ぎてしまう
しかし
今一度
すべてをちゃんと見る
それの観察の力を再生することで
新たな発見がある
『自動的』に見過ごしてしまうことの危険性
無思考、無観察、無認識、無意識
それは良くない
という意志を込めて
怠惰な常態を
『自動化作用』が起こっている
と書いた

中上健次も同様のことを
端的な言葉で現わしている

「外国人の目で物を見ろ」

二人の巨人たち
そのあとに
巨人は出現していない







コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 体感する温暖化現象 | トップ | 58歳です »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿