まだ中国です。中国はネット規制が強いため、前の記事では次の記事は帰国後にアップすると書きました。実際、泊まっているホテルのWi-Fiではこの太子ブログにアクセスできなかったのですが、帰国する日の早朝(時差は1時間)に目が覚めてしまったため、別の経路でアップすることにしました。
古代史は東アジアの政治情勢の中で展開していきましたので、海外からの視点から見てみることも必要です。その一つが、
馬梓豪「日中比較からみる日本古代朝政の特色」
(『国際日本研究』10号、2018年3月)
です。つくば大学の雑誌であって、この時の馬氏は大学院の博士後期課程の学生です。
馬氏は、「朝政」という言葉の検討から始め、古代中国では、朝、臣下たちが君主にまみえたことが原義であったとし、平安時代では『源氏物語』に「朝政」を「あさのまつりごと」と呼んでいる例があるが、飛鳥時代から奈良時代にかけては、分析に足るだけの「朝政」の用例がないと述べます。
ただ、政治がおこなわれる場所である朝堂については、7世紀には成立していたとされており、最古の遺跡は、孝徳朝の難波長柄宮と推定される前期難波宮の朝堂院です。『日本書紀』の推古紀や孝徳紀には、「庁」に関する記述が散見されるものの、朝堂の前身と推測されているだけであって、実態は不明です。
実際、天武・持統期の飛鳥浄御原宮の遺跡では朝堂の遺跡は発見されていません。平安時代の十二朝堂は、中国の朝堂とは異なりますし、どこまで遡れるのかは明らかになっていないのです。
とりあえず、馬氏は中国における「朝政」について、「朝」の字について検討することから始めます。諸文献に見える用例の変化を追い、馬氏は、両漢から魏晋南北朝までは、皇帝と官僚集団が相対的に独立しており、政策は各層の会議による官僚の集団意志と皇帝の裁可によって成立していたのに対し、隋唐になると、朝堂を外朝化することによって皇帝一人による一元的な「朝政」が出現したとします。
一方、日本については、7世紀までは秦漢頃までの中国に似ており、諸豪族の連合政権であったと言えるとします。そして奈良時代の律令制は遣唐使を通じて唐の政治を取り入れたとされるものの、むしろ平安前中期の方が唐の制度に近いと述べます。律令制は、大化以前の伝統が唐制と妥協して生まれたものとするのが馬氏の見解です。
『日本書紀』における「朝政」の初出は天武12年であって、「朝」は「みかど」と訓まれ、「朝政」が行われていた場所を指し、「政」は君臣に通じる「まつりごと」であったというのが馬氏の見解です。
そこで、『日本書紀』における政治関連の「朝」「朝庭(廷)」の用例を検討し、「天皇・中央政府」、「宮・庭などの場所」、「天皇の治世」、「国家・国土」の4種に分けられるとして、崇神天皇紀以後の用例を分類していきますが、「天皇・中央政府」の用例が急に増えるのは、敏達朝と崇峻朝です。
そして、「宮・庭」などの用例が急に増えるのは、推古・舒明・皇極・孝徳・斉明天皇の時であって、「朝廷」の語は推古朝に1例、孝徳朝に3例、天武朝では6例も見られます。推古朝に続く舒明朝では、「天皇の治世」「国家・国土」の例もそれぞれ1例登場します。このため、馬氏は小墾田宮が造営された推古朝を画期とみなします。
つまり、宗教的な「まつりごと」を主としていた時代が終わり、様々な政治協議をおこなう朝堂の前身となる「庁」が設置され、複数の「庁」を包含する「ニハ(庭)」が成立したと見るのです。
「朝廷」の語は、推古以前は中央政府を指すのが一般的であるのに対し、推古朝からは天皇を指す場合が多くなると、馬氏は指摘します。
推古朝での変化は契機については、当然ながら、推古8年(600)の遣隋使が倭国の「まつりごと」について報告し、文帝に「おおいに義理無し」と評されたことをあげます。これをきっかけとして、一連の改革事業がなされていることは、良く知られている通りですが、「朝」の字の用例を見ても、それが裏付けられるのです。
欽明朝あたりから政治と祭事が分離するようになり、推古朝の小墾田宮造営によって朝廷機能が変化し、伝統を反映させながら律令制を整備することによって、日本は固有のあり方から隋唐の式の朝廷・朝政へと変化していったというのが、馬氏の結論です。