聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

『日本書紀』の守屋合戦に続く敵将と忠犬の記述こそ語りものの元祖、編者は元資料を貼り込んだだけ:石井公成「お説教でない仏教説話」

2024年04月04日 | 論文・研究書紹介

 葛西太一さん、瀬間正之さん、森博達さんと、『日本書紀』の語法に関する論文が続きましたが、今回は私の番で、

石井公成「お説教でない仏教説話」
(『日本文学研究ジャーナル』第29号、2024年3月)

です。「仏教説話」特集の冒頭のエッセイを依頼されたため、「ですます調」の気楽な感じで書いておきました。

 仏教説話というと、仏教関連の興味深い話を紹介し、最後に教訓となるよううな言葉を述べるというのが通例です。ただ、仏教的な題材であっても、興味深いだけで最後に教訓が述べていない場合は、仏教説話と呼べるのか。

 こうした点についていくつか例をあげて検討した後、取り上げたのが『日本書紀』の守屋合戦の記事です。この記事では、厩戸皇子と馬子が造寺を誓って誓願すると、敵を打ち破ることができたとし、合戦がおさまった後、「摂津の国に四天王寺を造る。大連の奴の半ばと宅とを分け、大寺の奴・田荘とす」と記し、馬子は飛鳥寺を建てたとしています。

 天皇の勅願寺院でない四天王寺のことに「大寺(おおてら)」と呼んでいるのですから、この書き手はおそらく四天王寺の僧であったと考えられます。守屋の「奴」と「宅」の半分を四天王寺に納めたということは、あとの半分は馬子のものになったということですね。

 守屋合戦の記事としては、これで終わりにして良いはずです。しかし、『日本書紀』では、これに続いて守屋に仕えていた武将である捕鳥部万の奮戦ぶりと戦死を描いたうえ、その愛犬についてまで記しています。その後半の内容は以下の通りです。

朝廷は、万の死体を八つに切り、八つの国に分けて串刺しにしてさらせと命じた。国司がその通りに死体を斬って串刺しにしようとすると、雷が鳴り大雨が降った。この時、万が飼っていた白い犬が、その屍の回りを俯したり仰いだりしながら回って吠えた。ついに屍の頭をくわえ、古い冢に収め、枕の横に伏せてその前で餓死した。国司が、その犬をきわめて不思議に思い、朝廷に報告すると、朝廷はひどく気の毒に思い、命令を下した。「この犬は世に稀な存在でって、後世に示すべきだ。万の一族に墓を作って葬らせよ」と。このため、万の一族は、二つの墓を有真香邑に立て、万と犬を葬った。

以上です。

 雷が鳴り大雨が降ったとなれば、八つに切ることはできなかったことになります。こうした天変地異の記述は、朝廷の命令が適切でないため、天が警告を与えたことを示していますね。

 この万の奮戦と忠犬の話については、『法華経』の文句をそのまま用いているため、僧侶か還俗僧か『法華経』を暗記している在家信者が書いたことは間違いありません。問題は、この記述は、忠犬を讃える形で終わっており、仏教の教訓になっておらず、また四天王寺創建とも関係ないことです。

 この話を喜んで聞いたのは、万の親族を含め、守屋側で戦った人々の子孫でしょう。そのことは、万と忠犬の話に続けて、同じような戦死者と忠犬の話がもう一つ、付されていることからも推察できます。聞いた人々の中には、四天王寺の「奴」とされた者たちもいたかもしれません。むろん、こちらも仏教の教訓はなされておらず、四天王寺との関係も記されていません。

 しかも、この万の奮戦と忠犬の話については、変格漢文が目立つのです。たとえば、「万所養之犬」などとせず、「万養犬」と記しているのは、「万が飼っていた犬」という和語の文をそのまま漢字にしたためでしょう。

 つまり、合戦場面が臨場感をもって描かれ、哀れな犬の振舞いが生き生きと描かれており、それも変格漢文が目立つのは、「語りもの」として語られていたものを無理に漢文にしたためと考えられるのです。

 日本の絵解きは、聖徳太子伝で始まりましたが、この守屋の武将と忠犬の話は絵に描かれるとは考えにくいため、語りものにとどまったと思いますが、聖德太子と芸能の結びつきは、この話からも推察できますね。

 ところで、この話で重要なのは、厩戸皇子と山背大兄に関する記述は、『日本書紀』の最終段階でかなり増訂されたことが明らかにされているものの、この話はそうではないということです。そもそも、厩戸皇子が登場しないどころか、厩戸皇子たちの軍勢と戦った側について好意的に描いているため、廐戸皇子をやたらと神格化しようとした『日本書紀』の方針とは異なるのです。

 上記の拙文は「仏教説話」特集の冒頭エッセイであったため、『日本書紀』における位置づけなどについては触れていませんが、この万と忠犬の話は、『日本書紀』編集の最終段階で創作されたり、書き換えられたりしたものではありえません。四天王寺系の資料をそのまま貼り込んだとしか考えられないものです。

 となると、『日本書紀』における厩戸皇子関連の記述には、他にも四天王寺系の文献や他の系統の文献をそのまま貼り込んだものが含まれている可能性が高いということになります。

 その一番の候補は、厩戸皇子が亡くなったあとの慧慈の述懐の部分でしょうね。用明紀では豊耳聡聖徳、豊聡耳法大王、法主王などの異名をあげており、推古紀の本文では、徹底的に「皇太子」と呼んでおりながら、この箇所に限って、厩戸皇子とも皇太子とも呼ばず、これまで登場していない「上宮太子」という呼び方が複数回使われているのは、何かの資料を貼り込んだだけで呼称の統一などの編集作業をしていなかった、ということですね。私は、「天皇」という語も「神」という語も使わない「憲法十七条」は、その可能性が高いと考えているのです。

【追記:2024年4月6日】
厩戸皇子の異名について、少し補足しました。