恒例となっている4月1日限定の特別記事では、蘇我馬子の「桃原」の墓と桃つながりらしい高桃塚古墳?を紹介しました(こちら)。
飛鳥の古墳については新たな発見が続いており、その最新成果を収めた明日香村教育委員会編『遺跡の発掘からみた飛鳥』が刊行されるはずでした。しかし、1年半くらい前に予約したのに、発売延期、延期が続き、いよいよ刊行されるはずの日程の直前になってまた「5月末に発売」という延期通知が来ました。狼少年もこんなに繰り返し「出るぞ、出るぞ」とは言ってなかったんじゃないか……。
それはともかく、古墳は重要なので、坂田原から桃原にかけての一帯の地の古墳について論じた最近の論文を紹介しましょう。
坪井恒彦「大王(倭国王)陵としての前方後円墳の終焉-敏達・用明朝の墳墓観変遷の背景-」
(『羽衣大学現代社会学部研究紀要』第6号、2017年)
です。
前方後円墳が造られなくなることは、以前、取り上げた半沢英一氏も画期として注目していたところです。ただ、半沢氏は、母親の古墳に合葬された敏達天皇はそれ以前の天皇たちと違い、巨大な前方後円墳を造ってもえなかったとし、守屋合戦に勝利した厩戸が仏教的な法王として即位した結果、新たな時代が始まったたとする強引な仏教革命説を繰り広げていました(こちら)。
一方、坪井氏のこの論文は、朝鮮の造墓技術との関連に着目した考古学の立場での考察です。氏は天皇のことを「大王」と記していますので、この記事ではそれに従います。
坪井氏は、三輪山西麓に広がる纒向の地に初めて登場した前方後円墳、つまり、墳丘280メートルもある箸墓古墳の話から始めます。この巨大な古墳が倭国王の墓であることは疑いなく、その前方後円という特異な形は、大王の墓として考案されたものでした。
以後、7世紀初めまで、何千という古墳が造営されましたが、大王墓と見られる前方後円墳は、いずれも首長クラスの 墓とは異なり、きわだって巨大なものでした。
ところが、6世紀後半になって、大王が一般的に見える「方墳」に葬られるようになってしまうのです。7世紀半ばになると、高御座と共通する八角形の墳墓が作られるようになり、再び王権独自の墓が造営されるようになります。
坪井氏は、考古学では、異論はあるものの、最後の前方後円墳は、太子町奧城にある墳丘長93メートルの太子西山古墳であろうとし、敏達大王(585年没)の墓とする説が有力だとします。この墓は、大型の方墳や円墳から成る磯長谷古墳群を見下ろす尾根の上に、いちはやく営まれています。
続く用明大王陵は、春日向山古墳と推定されており、こちらは東西66メートル、南北60メートルの方墳です。用明大王の墓は初め磐余にあり、後に磯長に改葬したとする説もあるものの、磐余近辺にも前方後円墳の遺跡は見つかっていません。
次に倉梯岡陵と記されている崇峻大王陵は、宮内庁は桜井市倉橋金福寺跡と治定していますが、考古学では同じ倉橋にある一辺50メートルの赤坂天王山古墳の可能性が高いとしています。
推古大王については、大野岡上にあった竹田皇子陵に合葬され、後に磯長に改葬されたとされており、前者は橿原氏の上山古墳(東西40メートル、南北27メートルの長方墳)、後者は太子町の方墳である山田高塚古墳(東西66メートル、南北58メートル)と見られています。
これらの大王たちの祖である欽明天皇の墓について、宮内庁は平田梅山古墳を治定していますが、考古学では墳丘長318メートルという巨大さを誇る五条野丸山古墳が有力です。
平田梅山古墳については、被葬者をめぐって諸説があり、敏達埋葬のために造られたが何かの事情でそうならなかったとする説もあるものの、坪井氏は、いずれにしても敏達の墓を前方後円墳にしようとした事実はゆるぎないとします。
『日本書紀』によれば、敏達は母である石姫の墓に合葬されたとあります。白石太一郎氏は、継体天皇は、それ以前の大和・河内勢力によるヤマト王権と血がつながっておらず、ヤマト王権の仁賢大王の皇女である手白香との婚姻が不可欠であったとしますが、坪井氏は、その継体から敏達に至るまでの大王はすべてヤマト王権の血を引く女性を妃としており、その系統が前方後円墳と結びついていたと見ます。
一方、用明は、敏達の弟であるとはいえ、ヤマト王権の血とはつながりのない蘇我稻目の娘、堅塩媛から生まれています。続く崇峻も推古も欽明天皇と蘇我氏の女性の間に生まれています。
ですから、ヤマト王権の伝統である前方後円墳にこだわる必要はなかったと坪井氏は説きます。しかも、この頃には、前方後円墳は大王陵としては既に形骸化していたと推測します。
磯長古墳群は、蘇我氏系の大王の墓が林立することで有名ですが、坪井氏は、最初は蘇我氏の血を引かない敏達大王の墓で始まっていることを重視します。つまり、これによってこの地が皇室の墓の地として格付けされ、以後、前方後円墳にこだわらず、方墳を進展させた蘇我氏の影響が発揮されたとするのです。
そもそも方墳は、4~5世紀の百済に普及していった高句麗系の「石基壇石塚古墳」と称されるものがルーツとなっていると、坪井氏は主張します。それが、6世紀後半に蘇我氏の宗主の墓に用いられ、やがて蘇我氏系の大王の墓に用いられたとするのです。
ここで注目されるのが、一辺が41~42メートルであって、7~8段ほどの石積みとなっている都塚古墳です。この古墳は、大きさはさほどではないものの、人の頭ほどの石を12万9千個くらい積み上げてあり、大変な労力をかけたものです。これが百済の王陵と良く似ているのです。
都塚古墳が位置する明日香村阪田から祝戸にかけての地域は、朝鮮半島からの渡来集団が配されていた地です。中国南朝出身の司馬達等もこの辺りに棲んでいました。
その都塚古墳の北西400メートルほどのところにあるのが、巨大な石を積み上げ、「桃原」に造営された馬子の墓とされる石舞台です。つまり、渡来人を配下に持つ蘇我氏が、高句麗系の様式による百済の石積みの造墓技術を採用して自分たちの墓に用いたのであり、それが蘇我氏系の大王の墓に用いられるようになったとするのです。
坪井氏は、こうした古墳の型式の変遷は、朝鮮半島の状況、それと日本との関係が大きな影響を及ぼしていることに注意して論をとじています。