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大山誠一・吉田一彦氏に遠慮しつつ、ついに聖徳太子虚構・道慈作文説を否定:榊原史子「『日本書紀』崇峻即位前紀七月条と四天王寺の創建」

2024年04月12日 | 論文・研究書紹介

 こちらも論文集を紹介し始めたところで中断していた例です(こちら)。

榊原史子「『日本書紀』崇峻即位前紀七月条と四天王寺の創建」
(小林真由美・鈴木正信編著『日本書紀の成立と伝来』、雄山閣、2024年)

 四天王寺の研究者である榊原氏については、若い頃、大山誠一氏や吉田一彦氏に評価され、両氏が編集する論文集や雑誌の特集で論文を発表させてもらうようになった恩義があるためか、虚構説に遠慮して是非の判断を避ける書き方をしている本を以前紹介しました(こちら)。

 今回は、遠慮しつつも虚構説を否定し、注での目立たない書き方ですが、以前支持していた道慈作文説を撤回すると明記しています。

 今回の論文でも、冒頭で厩戸皇子については諸説があるとし、「近年においては、大山誠一氏によって聖徳太子虚構説が提起された」として、その説の内容を簡単に紹介します。

 そして、大山説以後も、「聖德太子をめぐっては、さまざまな説が提示されている」とし、具体的な活動については「いまだ十分に明らかになっていない」と述べるにとどめ、大山説が学界で相手にされなくなっていることには触れません。

 ここから四天王寺に関する検討に入り、若草伽藍で用いられた瓦当笵がすりへった段階で四天王寺の瓦作成に用いられたことなど、考古学の研究成果を紹介し、四天王寺の創建は若草伽藍の創建時期に近いが、それより遅かったことを再確認します。

 そして、どの程度遅れるかに関する諸説、また厩戸皇子の建立とする説と、難波吉士氏の建立であって厩戸皇子との関係は認められないとする説などを紹介します。

 ついで、文献から見て、当初、玉造に造営された寺が現在の地に移築されたとする説を紹介したのち、『日本書紀』の記事と考古学の成果から見て移築説を否定します。

 また、『四天王寺縁起』(1007年)は寺の所有として多くの土地や建物などの名をあげ、物部氏の旧領・邸宅・資材・人民が四天王寺に施入されたとしていますが、『法隆寺伽藍縁起并流記資材帳』が法隆寺のものと記している「水田」「薗地」「庄倉」は、物部氏の本拠であった渋川にも見られることに着目します。

 これらのことから、榊原氏は、四天王寺は厩戸皇子によって創建されたと考えるの妥当と結論づけます。

 ついで、創建説話については、『元興寺伽藍縁起并流記資材帳』は信じがたいとする吉田氏の説を紹介し、同様に古い『四天王寺縁起』に基づいて『日本書紀』の創建説話が書かれたとは考えるのは難しいだろうと述べます。

 しかし、『日本書紀』は厩戸皇子が登場せず、四天王寺創建にも触れない記事の部分ですら四天王寺系の資料を用いており、すべて最終段階の編者の筆と見ることはできないことは、前回の記事で示しておきました(こちら)。

 榊原氏がその部分を疑うのは、厩戸皇子が勝たせてくれたら四天王の為に寺を建てますと誓った箇所のうち、「護世四王」とある部分は、『日本書紀』完成の少し前の702~703年に西明寺で義浄が訳した(そして、聖徳太子虚構説では、それを西明寺に留学していて718年に帰国した道慈がもたらし、道慈が理想的な厩戸皇子を記述するなど、『日本書紀』の原稿を潤色する際に用いたとされる)『金光明最勝王経』に見えるからです。

 しかし、5世紀初めに訳された『金光明経』には確かに「護世四王」の語は見えないものの、この語は、597年に訳された増補版であって中国でもかなり読まれた『合部金光明経』には見えています。創建説話のその箇所には後代の潤色があるとしても、7世紀の末頃までに四天王寺で創建説話の原型ができていて不思議ではありません。

 なお、榊原氏は、『日本書紀』の編者が『金光明最勝王経』を参照しながら四天王寺創建説話を書いたことは疑いないとし、「四天王像を頭に載せるという記述は、仏像が宝冠を頭に載せていることに想を得たのではなかろうか」と述べています。

 榊原氏は、いなかった説を痛罵した石井公成さんの『聖徳太子ー実像と伝説の間ー』は読んでおられないのか、大山氏や吉田氏への遠慮もあって引用しにくいのか、まったく言及していませんが、小さな仏像をお守りにする際は髷の中に入れるのがインドの習慣であることは、本に書いておきました。あるいは、榊原氏は、絵本などに描かれる巳の刻参りや八つ墓村のような太子の姿を思い浮かべているのでしょうか。

 榊原氏は、『日本書紀』編纂の最終段階で四天王寺創建説話が書かれたことについて、新川登亀男氏の説などを紹介し、「皇太子の制度の理想型」を示すために厩戸皇子が「皇太子」と呼ばれて活躍が強調されたとし、『日本書紀』の最終編纂時期に、理想的な皇太子が『金光明最勝王経』の教えを実践していたことにするためだったと推測します。

 そして、四天王寺は、一時期、古代史学で強調されたような外敵退散のためではなく、上宮王創建の他の寺と同様、追善のためとする三船隆之氏の説を紹介し、難波、斑鳩、飛鳥を結ぶ交通網が整備されたことに注意し、斑鳩宮への移住は対外交渉の拠点づくりのためとする塚口義信氏の説を紹介します。

 そして、推古朝は推古女帝のもとに、聖德太子と蘇我馬が共同執政の形で政治をおこなったとする塚口氏の説を「妥当な見解」と評価します。塚口氏の説の追認という形ですが、太子虚構説は完全に否定されていますね。

 ここまで書いてしまった以上、曖昧な書き方は無理とあきらめたのか、榊原氏はその後で、「厩戸皇子は、実在した勢力のある王族であり、有能な人物であったと評価することができるのではないだろうか」と述べ、ついに虚構説を否定してしまいました。しかも、馬子との共同執政であったものの「外交に関しては、厩戸が主導していた」と明言しています。いやいや。

 なお、注58では、自分の旧稿では道慈が創建説話を述作した可能性があるとしたが、「現在では、具体的な人物を特定することは難しいと考えている」と述べています。読んでいて感慨深いです。いろいろと迷った末の決断でしょう。

 なお、お知らせです。本日の夜の飛行機で中国に向かい、浙江大学、浙江理工大学、杭州仏学院などで「禅宗の成立と疑偽経類」「中日仏教文化交流」その他について連日講演し、最後に1日だけ寺院や遺跡をめぐって翌日に帰国しますので、次の記事は少し遅れるかもしれません。

 杭州は、鎌倉・室町時代には日中貿易や僧侶の往来の中心地だったところであって、また私が近代中国の思想家の中で最も高く評価する章太炎の旧居と墓があるところです。10月開催の唯識学会にも呼ばれてますので、杭州にはまた行くことになります。コロナ禍がおさまり、ようやく海外の研究者を受け入れるようになったため、秋には長らく延期になっていた北京の人民大学などでの講義もありそうです。