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大発見!「憲法十七条」の原本は丸っこい変体少女文字の平仮名で書かれていた(4月1日限定:特別記事)

2022年04月01日 | その他
 講釈師の神田黒山でございます。「講釈師、見てきたような嘘をつき」などと申しますが、これから申し上げることは、まさに講釈師の私(わたくし)が実際に経験したことであって、嘘ではございません。

 3月31日の夜がしんしんと更け、日付も変わって4月1日となった頃、私が椅子に腰掛けたままふと居眠りをしてしまったのか、椅子を壁にぶつけてしまい、壁が剥がれて古い巻物がひとつ出てまいりました。

 こうした光景は、前にも見たことがあるような気がいたしますが(こちらや、こちらや、こちら)、その巻物を広げてみると、「じゆうなな(十七)」という字が見えたため、ドキッといたしました。見てみると、案の定、聖徳太子の「憲法十七条」でございました。

 ただ、不審なことに、巻物であるのに横書きであって、しかも新仮名遣いと旧仮名遣いがまじった平仮名です。そのうえ、『法華義疏』は (為)や (所)のように、右にくるっと旋回する軽快で曲線的な書風で知られますが、それどころではなく、1980年代に流行した変体少女文字を思わせる丸文字となっておりました。



 思わず、筆ペンなどで作成された最近の粗雑な偽文献かと思ってしまいましたが、さにあらず。巻物の紙は、古い障子紙に小便などを霧にして吹きかけて放置し、変色させて時代臭をつけた類の近代の偽作ではなく、南北朝期の中国の紙のように見受けられました。

 紙の繊維を顕微鏡で見てみましたし、墨の色も確かめましたが、西安の敦煌遺書博物館が所蔵する南北朝後期の『勝鬘経』注釈の断片(奈931)とそっくりです。隋頃の紙でその当時の書風と言われる『法華義疏』より古いのですから、これが日本最古の文献でございましょう。

 ただ、『日本書紀』では推古十二年夏四月条に「皇太子親肇作憲法十七條」と記されておりますが、この巻物では「皇太子」に当たるところが「ふとこ」となっておりました。平仮名ばかりのその文を、読みやすいように多少漢字をまぜて記すと、「ふとこ、上[かみ]つ宮で十七の法[のり]を作ったよ」と読めます。

 「ふとこ」という人物が作成したという記録を、『日本書紀』の編者が漢文にする際、「太子」という漢字に表記改め、律令を考慮して「皇」の字を付し、「皇太子」としたものと愚考いたします。

 聖徳太子の大伯父は「うまこ」であったことを考えると、名前の典拠は、「天高く、馬肥える秋」という成語の元となった唐の杜審言(645-708)、つまり、杜甫の祖父である杜審言の漢詩、「贈蘇味道」でございましょう。

 この詩では、秋になると北地の馬たちが肥えて体力が増すため、「塞」、つまり国境の砦の向こう側にいる北方の遊牧民族が秋の収穫物をねらって良馬に乗って攻め入ってくるぞ、と警戒するよう呼びかけております。この「秋高くして塞馬肥ゆ(秋高塞馬肥)」の句の「馬肥」の2字に基づき、大伯父の「うまこ」に対して、「肥えた子」ということで「ふとこ」と命名したのですな。

 「うまこ」は男性ですが、「ふとこ」さんは、変体少女文字風な丸っこい筆跡ですし、しかも平仮名を用い、「作ったよ」などと書いている点から見て、今風な若くて活発な少女だったに違いありません。脳みそ夫がやってみせる、飛鳥中学に通う女子中学生太子(こちら)みたいな少女だったと思われます。

 杜審言は、7世紀半ばから8世紀初めの人であって、その漢詩に基づいた名の人が推古12年(604)に憲法を作成するというのは不思議ですし、平安時代に確立したと言われる平仮名で、それも戦後の新仮名遣い混じりで書きしるすなどありえないようにも思われますが、そこら辺が「古代のロマン」というものなのでございましょう。

 残念ながら、空気にあたったせいか、巻物の字の色が急に薄くなってまいりました。この字が読めるのは、本日、4月1日限りとなりそうでございますので、「憲法十七条原本発見」の一席、これにて読み切りと致します。
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