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聖徳太子仏教倭王論の改悪:半沢英一『天皇制以前の聖徳太子』

2023年11月02日 | 論文・研究書紹介

 少し前に、半沢英一氏が2002年に『日本書紀研究』に掲載した聖徳太子倭王法王論を紹介し、強引な推定が多いと論評しました(こちら)。すると、半沢氏が、2011年に刊行した本ではかなり訂正した、ということで著書を送ってこられました。

半沢『天皇制以前の聖徳太子ー『隋書』と『記』『紀』の主権者矛盾を解くー』
(ビレッジプレス、2011年)

です。

 私はこうした場合、評価を改める必要はないと思われた時はブログで紹介することはしないようにしてきたのですが(困った本を送ってくる人も多いので……)、今回は、若い頃に羽仁五郎を読んで刺激を受けるなど、同世代の人間として共通する記述が多く、半沢氏があのような主張をする心情は理解できるため、特例として取り上げることにします。

 この本でも、基本となる主張は前の論文と変わらないのですが、前には真作としていた「天寿国繍帳」や『上宮記』を7世紀中頃の作とするなど改めており、それによって主張がいっそう無理なものになってしまいました。前より詳しくなった仏教関連の記述でも、当時としてはありえない解釈が目立ちます。今回の記事のタイトルを「改悪」とした所以です。

 とにかく半沢氏の主張で目立つのは、聖徳太子の意義を重視し、馬子の役割を無視することです。その原因の一つは、「憲法十七条」の第十条が「我必ずしも聖に非ず、彼必ずしも愚に非ず、ともに凡夫なるのみ」と述べている箇所が若い頃から好きで、座右の銘としてきた(77-78頁)と書いていることでしょう。

 現在は、「必ずしも」と言えば「雷が鳴っても、必ずしも雨が降るとは限らない」といった場合に用いられていますが、これは「必ず~」の否定です。漢文では「非必~」であれば、「必ず~」というわけではない、という意味になりますが、第十条では「必」が「非」の上に来ています。

 つまり、「必」が「非~」というあり方全体にかかっていますので、否定部分を強調した形であって、「絶対に~でない」という語法です。ですから、ここの意味は「自分は絶対に聖ではない、他の人は絶対に愚ではない」となり、そのように自覚せよと命じたことになります。

 他の部分と同様、誤った和風漢文で「必非~」と書いたことも考えられますが、第十四条では「賢聖」がいないと国が治まらないと述べていますので、そうした「賢聖」は聖でも愚でもない「凡夫」の官人たちとは別の存在ということになります。蘇我馬子あたりでしょう。

 また、「必ずしも」は今日では、「必ずしも雨が降るとは限らない」などいった用法で用いられており、こうした用法は平安時代からあります。「しも」は副助詞の「し」に強調の係助詞である「も」がついた形であって、「しも」と打ち消しの語が結び着くと「~とは限らない」という意味になることが多いのですが、否定の強調となることもあります。

 たとえば『角川古語大辞典』では、「きっと~というわけではない」の用法とは別の用法として、『古今集』の「いく世しもあらじ」その他を例にあげ、「幾世もは生きていない」と訳しています。「憲法十七条」の古注が「必非~」を「必ずしも……あらず」と訓んでいたからといって、「必ずしも聖であるとは限らない」という意味ではない可能性もあるのです。

 自分は愚かな凡夫だという自覚を尊ぶ真宗の僧侶(学者)や悪人重視の『歎異抄』の影響を受けた人たち(こちら)は、第十条を好み、「ともに凡夫なるのみ」という点を評価しがちです。しかし、『論語』陽貨篇では、すべての人は教育で改善できるとし、ただ「上智と下愚」は別であって「移らず」、つまり変化しないと述べており、これが太子の頃の儒教の常識でした。「憲法十七条」は儒教・仏教・法家などの思想に基づいて書かれています。

 第十条が聖でも愚でもない「凡夫」と呼んでいるのは、そうした普通の「凡人」である官人たちのことであって、生まれついての「上智」であり「聖」である聖徳太子は「憲法十七条」では「凡夫」ではないのです。厩戸皇子は『日本書紀』では「聖」であることが異様に強調されていますしね。この点については、30年前の「憲法十七条」論文で書いておきました(こちら)。

 半沢氏は、敏達天皇が亡くなっても前方後円墳が作られず、崇峻4年になって母の陵に合葬されたのは、祭祀に支えられた前方後円墳の時代が終わったことを示すのであって、この年こそが法興元年であり、仏教による社会変格が始まった年であるとして、この動きを法興革命と呼びます。

 この時期が社会の大きな変わり目であるとするのは妥当ですが、半沢氏は、その革命の中で聖徳太子が「法皇」として即位し、法興革命を推し進めたと主張します。しかし、この時期に最初に出来た寺は、蘇我馬子が建立した飛鳥寺、次は馬子が姪である推古の宮を改めて尼寺とした豊浦寺であって、太子の法隆寺(若草伽藍)はその後になって建立されます。半沢氏は考古学の成果によってこの順序を認めています。

 聖徳太子が若い身で法皇として即位し、倭王となって仏教による政治・外交を進めていったのであれば、なぜ上宮法皇の寺は三番目に立てられ、しかも、都から離れた斑鳩の地に、飛鳥寺の金堂と同じ大きさの金堂を建てるのでしょう。飛鳥寺の金堂は三つあるのに、若草伽藍の金堂は一つだけですので、規模は小さいことになります。

 この順序、つまり、馬子→推古→太子、が当時の権力の順序であったと考えるのが自然ではないでしょうか。実際、舒明天皇が立てた百済大寺は、飛鳥寺をはるかに上回る巨大さであって、九重塔は高さが100メートルほどもあったことが分かっています。

 そこまではいかなくても、飛鳥寺よりやや大きい寺を上宮法皇の寺として建てなかったのはなぜなのか。それとも、飛鳥寺は上宮法皇の寺だったのか。それに、馬子の墓とされる石舞台は壮大なものであって、蝦夷・入鹿の生前の双墓も巨大であった(こちら)のに、聖徳太子の墓とされる墳丘はさほど大きくないですね。

 半沢氏は前論文では、推古は祭祀王であり、「天皇」であったとしても、仏教では天(デーバ=神)は仏より下なのだから、「天皇」は仏(悉達太子)である「法王」「法皇」より格下なのだと説いていました。本書ではその理由について詳しく説明し、また、最古の経典である『スッタニパータ』は生まれによる区別を否定しているため、天皇の血統を重視する『日本書紀』の路線とは異なるとしています。

 しかし、パーリ語で書かれていて漢訳がない『スッタニパータ』が、日本を含めた東アジアに知られたのは明治以後のことであり、これが最古の経典であることが知られたのはさらに後になってのことです。中国の奉仏国家では仏教を皇帝の権威付けに利用していましたし、日本では天皇は前世に十善を行ったため天皇に生まれたとされており、人々の家柄・身分の違いを仏教の因果説・業論によって説明していました。

 そのうえ、半沢氏が真作と認める釈迦三尊像銘では、太子周辺の者たちは、何度生まれ代わっても、そのたびごとに「三主」である聖徳太子、母后、王后に「随奉」したい、つまり、おそばでお仕えしたいと願っていました。これは、家系による区別の固定です。

 経典の例をあげるなら、当時の東アジアで広く読まれていた経典をあげる必要があります。四天王が活躍する『金光明経』などでは、仏教を奉ずる国王を四天王が守護することが説かれています。国王は特別な存在とされているのです。

 また半沢氏は、「アメタリシヒコ」は、大乗経典では仏が「宇宙に遍在している」と説いていることに似ているとし、会津八一が東大寺の毘盧遮那仏について詠んだ歌、「おほらかに もろて の ゆび を ひらかせて おほき ほとけ は あまたらしたり」をあげ、「仏のように宇宙に充ちている存在」とも解釈できるとします。

 会津八一が好きなのは私も同様であって、大学時代には八一の弟子である加藤諄先生の書道史の講義に出て八一の思い出話を聞きました。また、仏教学部に社会人入学し、私の授業に2年間、最前列の次の席で無遅刻無欠席で出席した萩本欽一さんが退学された際は、八一が書いた「游於藝(芸に遊ぶ)」の書をプリントしたバッグに本を入れて贈ったりしましたので、気持はわかります。しかし、華厳教学が専門であって東大寺について論文を書いたことがある立場からすれば、半沢氏の主張は時代錯誤の間違いとしか言えません。

 君主については、絶対的な権力を誇った中国の皇帝でさえ、宇宙に遍満するなどと言われたことはありません。その徳が天下の四方にまで広がり、といった程度です。世界全体を統治するというなら、模範はむしろ転輪聖王でしょう。前の記事で触れたように、隋の文帝は各地に仏塔を建てさせたアショカ王を気取っていましたし。天皇が密教化された毘盧遮那仏、つまり宇宙に遍満する大日如来と一体視されるのは、密教儀礼が発達した平安時代以後のことです。

 なお、大化の改新によって仏教による法興革命を否定し、神祇重視に転じたというのが半沢氏の主張ですが、斉明6年に甘樫丘の東に「須彌山」を作って蝦夷たちを「饗」したという『日本書紀』の記事のことを、半沢氏は当時の奇妙な石造の建造物とならべて「神仙思想」によるとし、王権の威信のためとしています(183・185頁)。

 しかし、須彌山は仏教の宇宙観によれば世界の中心にそびえたつ山です。森田悌氏などは、「スメラミコト」の「スメラ」はこの「須彌(スメール)」に基づくと説いています。この説の是非はともかく、斉明天皇が須彌山を作って蝦夷たちに見せたのは、仏教によって天皇を権威づけしようとしたものです。このほかにも、半沢氏が仏教について自説を述べている部分の多くは誤りです。

 そのうえ、半沢氏が神道路線への復帰だとみなす大化改新時の諸詔は、『日本書紀』編纂の終わり頃の時期の作が多いことが知られています。『日本書紀』大化元年条によれば、孝徳天皇は僧尼を集め、蘇我氏が仏教を興隆してきたことを述べ、今後は天皇が造寺などを支援すると宣言したことになっています。この時期は実際には仏教重視であって、次々に寺塔が建立されています。

 半沢氏は、上宮法皇による仏教路線の法興革命から天孫降臨神話に基づく万世一系の天皇制へという点を強調するあまり、『日本書紀』の編纂時の神祇重視のイデオロギーを大化の頃にある程度読み込みこもうとしすぎているのではないでしょうか。『日本書紀』は天照大神以来の皇統を強調しますが、その天照大神の成立は遅く、大化などよりかなり後になってから皇祖としての神話が作成されたことは常識です。

 では、半沢氏が前の論文の説を改め、より説得力を増したと自負する「天寿国繍帳」および『上宮記』の後代作説について見てみましょう。前の論文では真作としたため、法皇に即位し倭王として振る舞ったはずの人物が「太子」と呼ばれていることの説明に苦労したわけですが、その矛盾から逃れるため、本書では「天寿国繍帳銘」と『上宮記』を大化の改新と同じ7世紀中頃の成立としています。

 半沢氏は、「天寿国繍帳銘」では推古について「治天下」の語が用いられておらず、上宮法皇について「大皇」という表記が使われていたらしいことから見て、推古天皇の単独統治という図式が確立する前の中間的な時期の作成と見て、7世紀中頃の作とします。

 そして、前論文では、太子について「共治天下」と述べていた『上宮記』を早い時期の成立と見て、上宮法皇である倭王と祭祀王である推古の共同統治と見たが、『上宮記』は「天寿国繍帳」と同様に7世紀中頃の作と考えられるため、現在では推古は祭祀だけであって政治には関わらなかったと考えていると述べます(108頁)。

 しかし、「天寿国繍帳銘」は、聖徳太子と橘大郎女に至る系譜が前半分を占めているうえ、末尾では「画ける者は東漢の末賢、高麗の加西溢、また漢の奴加己利。令者は椋部の秦久麻なり」とあって制作を担当した有名でない工人たちの名をあげており、貴重な字数を費やしています。『日本書紀』が描いているような厩戸皇子の超人さを賞賛する内容はまったく書かれていません。

 7世紀中頃になって、なぜこんな銘文を作る必要があるのでしょう? 聖徳太子は法皇として倭王だったのではなかったことを示すために、わざわざ「太子」と記した銘文を縫いつけて豪華な繍帳を作成したのでしょうか。

 こうした点は、『上宮記』の場合も同様です(『上宮記』については以後、半沢氏の解釈とは異なる方向で研究が進んでいますので、近いうちに紹介します)。

 平沢氏は、太子が倭王だったと主張するなら、『播磨国風土記』に「聖徳王御世」(こちら)とある部分に注意すべきでしたね。これは、早くから法隆寺領が置かれていた播磨ならではの記述と見られますが。

 また、「天寿国繍帳銘」では聖徳太子のことを「大皇」と呼んでいたという点ですが、当時の日本の漢字音では「大王」も「大皇」も同じですし、訓も「おおきみ」で同じです。律令が発布された後も、長屋王邸跡からは「長屋皇」と記した木簡が発見されており、敬意を強めた場合、「王」とすべきところを「皇」と書く例もあったことが知られています。

 『上宮法王帝説』でも、四天王寺を「四天皇寺」と書いてますね。古代の日本では、「王」と「皇」では発音が異なる中国と違い、「王」と「皇」の区別はゆるかったようです。

 半沢氏が、推古が天皇であったとしても、その天皇という語は、『日本書紀』および以後の常識となった天皇とは違う意味だと強調するのは妥当ですが、「天寿国繍帳銘」と『上宮記』を7世紀中頃の成立とすることによって、前論文の強引さがより増してしまいました。

 半沢氏は、『日本書紀』は上宮法皇が倭王であったことを隠蔽しようとしたと述べるのですが、そうであるなら、『日本書紀』は厩戸皇子についてなぜ「或名豊聡耳法大王。或云法主王」などと記し、痕跡を残したのでしょう。

 推古15年春2月条では、推古が神祇尊重を説いて神祇を拝するよう命じ、皇太子と大臣が百寮をひきいて神祇を祭拝したと記されています。この記事については、『日本書紀』編纂時の追加記述ではないかと早くから疑われてきました。

 その点は不確定ですが、いずれにしても、聖徳太子が法皇に即位し、倭王として仏教に基づく政治・外交をおこなっていたことを隠蔽するなら、「法大王」「法主王」といったまぎらわしい別名は出さず、皇太子となった厩戸皇子は推古天皇の命令に従ってひたすら神祇を重んじた、としてそうした記事をいくつも書けば良いのに、なぜそうなっておらず、皇太子の仏教事業に関する記事ばかり並んでいるのか。

 このように半沢氏の主張は認められないことばかりであって、九州王朝説に反対するようになって本格的に古代史研究に入ったとはいえ、古田流の強引な推定と陰謀史観と大げさな言い回しの影響が目立ちます。前の論文では、いくつか意義ある指摘をしていたのに本書では改悪されているうえ、仏教などの基本知識がないまま妙な主張をしている部分が多いため、あれこれ勉強している古代史マニアによる、思い込みが先行した粗雑な作と評するほかないものになっています。

 氏の書いたもののうち、賛成できたのは、「聖徳太子「法皇」倭王論補強-大山誠一氏『<聖徳太子>の誕生に対する疑問』-」(『古代史の海』第20号、2000年6月)の大山説批判の部分ですね。この論考は、これに続いて同号に掲載されている秦政明「「筈である」の論理的脆弱性-大山誠一氏の場合-」の厳しい批判とともに、この当時における大山説批判としてすぐれたものでした。

【2023年11月3日】
 『スッタニパータ』には漢訳がないことを付け加え、釈迦三尊像銘の「三主」に触れた段落を上にあげて、この『スッタニパータ』の説明の次に移しました。「天寿国繍帳銘」については、最後に列挙されている工人たちの名を記し、また後代の太子信仰を思わせるようなことは書かれていないことを補足しました。

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