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三経義疏の「義疏」は「注」とどう違うのか:王孫涵之「義疏概念の形成と確立」

2023年04月15日 | 論文・研究書紹介

 『法華義疏』『勝鬘経義疏』『維摩経義疏』から成る三経義疏については、熱烈な太子信奉者であった花山信勝、金治勇、望月一憲などの研究者が亡くなって以後は、論文が少なくなってしまいました。理解を深めるためには、中国や韓国の『法華経』『勝鬘経』『維摩経』の注釈、特に活字化が進んでいない敦煌写本中の古い注釈との詳細な比較が必要であるため、若手がそうした研究に取り組んでくれることを期待しています。

 さて、三経義疏はそれぞれ「~義疏」という題名が付けられているわけですが、実は、経典の注釈を「義疏」と称することは、六朝時代の初期から始まっていますが、仏教経典の注釈で現存するのは、数少ない例外である唐代の慧沼の『十一面観音経義疏』や宋代の元照(1048-1116)の『阿弥陀経義疏』などを除けば、六朝後半から初唐あたりの時期に限られており、それほど多くはありません

 そこで、今回は「義疏」という注釈の形がいかにして生まれたかに関する論文を紹介します。

王孫涵之「義疏概念の形成と確立」
(『東方学報 京都』第97冊、2022年12月)

であって、刊行されたばかりです。王孫氏は中国では多くない二字の姓であって、華南師範大学、北京大学大学院修士課程、京都大学博士課程と進み、現在は弘前大学の助教を務めている由。中国における注釈の形式の変遷に関する研究をしています。

 王孫氏は、「義疏」は儒教・仏教・道教と密接に関わっているが、その起源は明らかになっておらず、問答体であること、また科段、つまり、詳細な目次のように経典を区分したうえで解釈するやり方が特徴とされるものの、両方をそなえたものは少ないことに注意します。

 まず、従来の研究では、「義疏」の語が見える注釈としては、仏教では東晋の太和6年(372)から太元16年(391)頃に成立したと推測される竺法崇の『法華義疏』があり、儒教では南朝の宋に東宮、つまり皇太子が講じた『孝経義疏』が早く、仏教が先行していて儒教に影響を与えたとされていました。

 しかし、太元年間以前の晋での釈奠儀礼と結び着いていた『孝経』の解説である『孝経講義』は、既に義疏の性質を持っていたことが指摘されています。また、王孫氏は、文献に「義疏」とあっても、作成された当時、そのように呼ばれていたかどうかは別の問題だとします。つまり、古い時期に『~疏(儒教系では「そ」、仏教系では「しょ」)』とあった注釈が、後の文献では『~義疏』と呼ばれている例を示します。
 
 「義疏」については、経典とその「注」に対する二次的な注釈と見る説もあり、また講義を文献化した「講疏」だとする説もあります。
 
 まず、「問いて曰く~答えて曰く」という形で説明を進める問答体については、仏教由来とする説もありますが、仏教文献の早い注釈には問答体が見られないものもあります。ここで王孫氏が注目するのが、(聖徳太子の手本であったと推定される)梁の武帝(在位502-549)の同泰寺での講義に基づく『御出同泰寺講金字般若経義疏并問答』です。

 この「問答」部分は残っていませんが、「義疏」、すなわち経典の解釈とその後での聴衆との「問答」が別扱いされていたことが分かります。当時、清談の余波を受けて問答が盛んであったため、それが仏教の講義に取り込まれたのであり、さらに後になって講義の中に問答が組み込まれるようになったのです。なお、武帝の散佚した『注解大品(般若経)』では、経を五段に分けていた由。

 ただ、科段を用いることは、儒教の経典注釈では早くから用いられており、広く読まれた『論語義疏』を著した皇侃(488-545)は、漢代の章句に由来するものと見ていたようです。

 一方、問答を用いた説明は、『注維摩』に載る鳩摩羅什の注の部分に見えており、曇鸞(476-542)の『無量寿経優婆提舍願生解』(『往生論註』)では、問答体と科段の両方を備えています。

 儒教の注釈は簡潔さを尊んでいたため、長い説明をし、逸話などまで加える仏教の詳細な注釈については、西域から持ち込まれたようです。ただ、梵文の注釈には問答は見えるものの科段はなく、これは詳細な鳩摩羅什の注も同様です。

 「義疏」は意義・意味をあらわす「義」と、記録を意味する「疏」から成っています。このため、「義記」と題した注釈も多く残っており、北周保定5年に書写された敦煌文書のP2104は、尾題は『十地義疏』となっているのに対し、書写した人が加えた跋文では「十地義記」と呼んでいるほどです。

 では、なぜ詳細な「義疏」が登場したかと言うと、儒教の経典だけでなく、その経典について書かれた漢代の鄭玄などの簡潔な注も、経典に近い権威を持つようになったことが一因です。仏教も中国に導入されてすぐの時期は、仏教の聖典を儒教の場合と同様に「~経」と訳し、それに「注」をつけました。

 ところが、経典と注をまとめたものに注釈をつけるようになると、複数の注を考慮したもの、経典全体ではなく、その重要な箇所とそれに対する複数の注などについて論じた「~義」と題される注釈書が書かれました。このほか、「注」以外の形式の注釈は多様であったようです。

 もう一つ重要な要素は、口頭での議論です。六朝は講義の席でのやりとりが盛んになされ、また清談も大いに流行しました。それを踏まえた注釈が生まれたのであって、梁代の天監17年(518)に完成した仏教書の目録である宝唱『梁與衆経目録』では、「経」と「注」以外に、「義記」という区分がなされるに至ります。なんせ、梁の武帝は、仏教、儒教、老荘の書物を講義し、資料を整理したり助言したりする僧や学者の支援を受けてのこととはいえ、およそ200巻もの経典の「義記」を著しています。

 その時代に、聖徳太子の『法華義疏』の「本義」、つまり種本となった『法華義記』を著した光宅寺法雲(467-529)は、『成実論』の内容を分類し、詳細な42巻の『成實義疏』を作っています。

 当時は、講義をまとめて「義疏」としたり、逆に綱要書を著してからこれを講義することもあったようでで、宝雲は、武帝の命によって『成実義記』を二度講義しています。

 以下、王孫氏は、「義疏」についてさらに細かく検討していってますが、このブログとしては、聖徳太子が模範としたと思われる梁の武帝、そして、『法華義疏』の種本を書いた宝雲が、「義疏」というものとどのような関係にあったかが重要ですので、ここまでにしておきます。

 なお、『日本書紀』が編纂された720年頃は、唐や新羅では「~義疏」という題名の注釈はほとんど書かれなくなっています。三経義疏は後代に作られたと主張した人もいましたが、聖徳太子信仰が盛んになった頃になって、三経義疏みたいに古い学風、また古くさい題名の注釈を偽作するためには、ものすごい時代考証をやらねばならず、絶対に無理です。

 唐や百済・新羅・高句麗などから適当な注釈を拾い集めてきて、聖徳太子作としたという説も無理です。三経義疏は、三経義疏だけに共通し、中国・韓国の注釈書に見えない和習の表現がけっこうあるので。

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