聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

早稲田での聖徳太子シンポジウム刊行:阿部泰郎「聖徳太子と達磨の再誕邂逅伝承再考」

2023年04月09日 | 聖徳太子信仰の歴史

 聖徳太子シンポジウムでの2番目の発表です。

阿部泰郎「聖徳太子と達磨の再誕邂逅伝承再考」
(『多元文化』第12号、2023年2月)

 阿部さんは中世の宗教文献と関連する毎柄について幅広く研究してきました。その中心となるのが、聖徳太子信仰の研究であって、これについては、以前、このブログで一例を紹介したことがあります(こちら)。

 その阿部さんが、名古屋大学に創設された人類文化遺産テキスト学研究センターで精力的に推し進めてきたのは、中核となる宗教テキストをめぐって、関連する注釈・伝記その他、「間宗教テキスト」と阿部さんが称するテキストが繁茂し、儀礼がなされ、絵や像が造られ、それらの相互作用の総体がさらに次の段階を生む場となる宗教空間の生成と展開の運動を明らかにするための共同研究です。(その重要メンバーであった近本謙介氏が、先日、パリで急逝されたのは残念なことでした)。

 そうした宗教空間・宗教テキストの世界の柱の一つが聖徳太子伝であり、今回、阿部さんがとりあげた光定の『伝述一心戒文』もその一例です。光定は、最澄の弟子であって、最澄没後に朝廷にあれこれ働きかけ、天台宗の確立に努めた人物ですね。

 太子伝については、天台宗の開祖である天台智顗の師であった南岳慧思の生まれ変わりという伝説が有名であり、さらに、太子が前世で読んでいた『法華経』とされるものが、末尾に唐代の書写識語があったことが知られ、その矛盾を解消するため、南岳衡山で前世に読誦していた『法華経』を太子自身が青龍車で飛んで取りにいったという伝説が生まれます。

 この二つの話とからんでくるのが、太子が道で飢えて倒れている人を見かけ、憐れんで歌を詠みかけ、衣を与えたところ、その飢人は実は聖人だったという片岡山飢人説話です。宝亀2年(787)に東大寺妙一、あるいは大安寺敬明の作とされる『上宮厩戸豊聡耳皇太子伝』では、この飢人について「蓋し是れ達磨か(蓋是達磨歟:思うに、これは達磨ではないか)」と注記します。

 この注記に飛びついたのが、日本の天台宗でした。最澄は早くから聖徳太子を、南岳慧思の生まれ変わりであって『法華経』を尊重した人物として尊崇していました。つまり、日本天台宗の先駆とみなし、天台宗を広めるために助力してくれる存在とみなしていたのです。さらに、最澄は達摩に始まる禅宗の系譜も受け継いでいました。

 最澄は天台宗の伝法が正当なものであることを証明するため、『天台法華宗付法縁起』を著しました。残念ながら残っていませんが、橘寺の法空の『平氏伝雑勘文』によれば、この『付法縁起』は上記の『上宮厩戸豊聡耳皇太子伝』の全文を載せていた由。

 また、最澄撰と伝えられる『天台法華宗伝法偈』では、太子の南岳慧思後身説を説き、片岡の飢人は菩提達摩かとする伝承を載せたばかりでなく、達摩が慧思に日本に誕生するよう勧めたとも記してあり、二つの伝承が結びつけられるに至ります。

 さらに、光定の『伝述一心戒文』では、関連する多様な「文」を集め、自らの言を加えて示したうえ、嵯峨朝における漢詩文全盛の風潮にさおさし、最澄や光定の漢詩や詩序を「巧妙に布置し解釈を加え、より巨きな因果の環を創りあげた」と阿部さんは評します。つまり、宗教テキストを創出しつつ文学にも踏み込んだものとなったと評価するのです。

 その際、阿部さんが着目するのが、『上宮厩戸豊聡耳皇太子伝』では「蓋し是れ達磨か」としてた注を本文として「達摩也」と断定したことです。9世紀前半に密教が伝わり、新しい顕密体制が生まれていきますが、その時期に「太子を介した諸因縁の結ばれ」として多様な仏教をまとめあげ、最澄の仏教の正統性を強調したのが光定の『伝述一心戒文』だった、というのが結論です

【追記:2023年4月12日】
 聖徳太子信仰に関する阿部さんの研究については、このブログで以前紹介してありましたので、それを冒頭に加えておきました。