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考古学者が厩戸皇子の斑鳩移転を画期的な「斑鳩京」をめざしたものと推定:前園美知雄『律令国家前夜』

2023年04月27日 | 論文・研究書紹介

 斑鳩宮の評価については、馬子との権力闘争に敗れて隠遁したように見る説も一時はかなり説かれており、逆に、宮や若草伽藍の周辺には独特の方格地割が見られることを理由に都として整備しようとする計画があったとする説もあります。そこで、この問題について考古学者が論じた最近の本を取り上げましょう。

前園美知雄『律令国家前夜-遺跡から探る飛鳥時代の大変革-』
(新泉社、2022年)

です。

 前園氏は、奈良県立橿原考古学研究所に勤務し、太安万侶墓、藤ノ木古墳、法隆寺、唐招提寺などの発掘調査をおこなった研究者であり、この本は、王宮の遺跡、寺院、古墳などを通して飛鳥時代について考察したものです。その構成は以下の通り。

 【飛鳥】
  三輪山との別離
  新しい信仰:飛鳥の寺院
  王たちの奥津城
 【斑鳩】
  律令制国家前夜:厩戸皇子の斑鳩宮
  上宮王家の奥津城
  大王家の系譜   

 この構成が示すように、前園氏が重視するのは、宗教的権威としての三輪山です。『古事記』『日本書紀』に記されたヤマト政権の大王の宮の多くは、三輪山の麓か、三輪山を眺めることができる地域、つまり、磯城・磐余の地に置かれていました。

 物部守屋を打倒した蘇我馬子が、蘇我氏の血を引く崇峻を天皇に擁立します。倉梯にあったとされる崇峻の宮は、遺跡は発見されていないものの、桜井市の倉橋付近にあったと考えられています。

 ところが、その崇峻が殺され、同じく蘇我氏の血を引く推古が天皇になると、豊浦宮で即位しており、政権の地が、磯城・磐余から飛鳥に移ります。以後、宮は長く飛鳥に置かれました。

 前園氏はこれに続いて、「予想だにしていなかったと思われることも起きている」と述べ、それは、蘇我系である「厩戸皇子が皇太子になって摂政になり、理想の政治を追いはじめたことだ」と述べます。そして、厩戸皇子の活躍に触れた後、「飛鳥を離れ、斑鳩に居を移して次世代の王としての地歩を固めつつあった」と述べるのです。

 以下、諸天皇の宮の概説が続きますが、舒明天皇(田村皇子)の即位については、蘇我蝦夷の妹である法提郎女と結婚し、古人大兄皇子を設けていたことが大きく、「山背大兄王に政権が渡ってしまうと、厩戸皇子に基礎が築かれつつあった大王家を中心とした政権となってしまうおそれがあった」と述べます。

 大丈夫でしょうかね。前園氏は考古学では実績のある方ですが、歴史学の成果はあまり読んでいないのか、『日本書紀』の「皇太子」や「摂政」という言葉をそのまま用い、厩戸皇子は、蘇我氏の意向にさからう天皇家中心の理想的な政治をめざしたような書きぶりです。

 これって、昔の「蘇我氏逆臣説」の図式じゃないですか? 末尾の「参考文献」を見ても、考古学関連の文献が多く、歴史学の吉村武彦『聖徳太子』、東野治之『聖徳太子-ほんとうの姿を求めて』、そして仏教史系である私の『聖徳太子-実像と伝説の間-』などは挙げられていません。

 中国の北朝や新羅の例を見ても分かるように、豪族の連合政権のような形であったもののが、国王の中央集権が強まっていく際、それを補佐する有力な臣下が外戚として力を振るうのは良くあるパターンです。この場合、国王の権力が増せばその臣下の権勢も増し、逆にその臣下の権勢が増せば国王も他の豪族たちより隔絶した立場になるのであって、国王と有力な臣下は共益関係にあるのです。

 厩戸皇子は、大伯父であって義父でもあった大臣馬子の支援により、斑鳩に宮を建て寺も建て、都の飛鳥と斑鳩を斜め一直線でつなく幅広い太子道を造ったはずですし、太子の後を継ぐべき長男で「大兄」となった山背大兄は、馬子の娘から生まれてますよ。

 遣隋使を派遣し、百済宮と百済大寺を並んで造営した舒明天皇について、厩戸皇子の考えを継ごうとしたという指摘は良いですが、その考えはその皇子たちや義弟の孝徳にも伝わっていたのであり、「彼らの脳裏には未完に終わった斑鳩京があったのではなかろうか」というのは行きすぎのように思われます。
 
 この本のうち、古墳などに関する説明、宮や寺院の跡の発掘に関する記述は有益です。たとえば、現在、各地の発掘現場で見られる、四角く区切られた場所を一定の深さで堀り、そこに丸や四角の柱の跡が並んでいると光景は、斑鳩宮跡が発見された90年前の法隆寺東院の調査が最初であって、それを主導したのは法隆寺国宝保存工事事務所の技師であった浅野清氏だったとし、そうした発掘法について語ったところなどは、飛鳥・斑鳩で多くの調査に携わった人ならではの記述です。

 (瓦については、吉田一彦氏の概説紹介の中で触れた栗田薫「ドクターかおるの考古学ワールド」(季刊『大阪春秋』)の連載(こちら)が、最先端の研究法にたどり着いた経緯を記しており、非常に面白い読み物になってます)。

 しかし、「厩戸皇子は600年に派遣した遣隋使の報告を聞き、奈良盆地の奥まった一角で、蘇我氏の一強体制で進められている政治に危機感を抱いたと思われる。そこで斑鳩を中心とした新しい国づくりをめざしたのであろう」といった部分は、先に書いたように、「蘇我氏横暴説」の図式にひきずられすぎているように思われます。

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