聖徳太子研究の最前線

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早稲田での聖徳太子シンポジウム刊行:石井公成「文献と金石資料から浮かびあがる聖徳太子の人間像」

2023年04月05日 | 論文・研究書紹介

  昨年7月に早稲田大学文化構想学部の多元文化論系の学会である多元文化学会が開催した春期シンポジウム「聖徳太子一四〇〇年遠忌記念 聖徳太子の実像と伝承」が開催され、私を含めた3人が発表したことについては、このブログで紹介しました(こちら)。

 その3人の発表を掲載した雑誌、『多元文化』第12号が刊行されました。奥付は2月刊行となっていますが、実際に刊行されたのは、卒業式での配布に間に合わせるためでしょうが、3月の後半でした。

 このうち、最初に話した私の発表は、

石井公成「文献と金石資料から浮かびあがる聖徳太子の人間像」
(『多元文化』第12号、2023年2月)

です。講演録の形ではなく、論文の形式になっています。researchmapの私のポータルページの「論文」のところににPDFをあげておきました(こちら)。

 出版社が販売している本や雑誌に書いたもの以外、つまり大学の紀要・論集や学会の学術誌などに書いた論文は、なるべくここで公開するようにし、短いものはこのポータルページのMISC(その他)のコーナーに置いてあります。

 今回の論文では、まず、私の母校であってこのシンポジウムが開催された早稲田は、久米邦武、津田左右吉、福井康順と続いて、太子の事績を疑う研究の拠点であったことを述べました。

 それが変わったのは、太子礼賛の立場の研究拠点であった東京大学のうち、印度哲学科で学んで後にその教授となり、高楠順次郎や花山信勝のような熱心な太子信奉者ではなかったものの、三経義疏を太子作としてその意義を認めていた平川彰教授が、定年になって早稲田に移ってきて、大学院で『勝鬘経義疏』を読んでからです。

 私は早くから津田左右吉を尊敬しつつも、国文学や聖徳太子に関する津田説については反対していました。

 そうしたことを述べた後、文献や金石資料に基づいて太子の人間像を明らかにしていきました。たとえば、三経義疏では、種本である南朝の注釈の解釈に反対する際は、「少し~だ」と述べたところが多く、謙虚な面もあるものの、実際にはかなり自信を持っていることが分かると説きました。

 この点は以前から指摘されていたことですが、これまでは単に承認しているとされてきた表現、たとえば「好則好矣(好きことは則ち好し)」についても、中国の用例を示して、「これもまあ悪くはないが」といった上から目線で批判していることを明らかにしています。

 また、『法華義疏』が「愚心、及びがたし」と述べ、「いわゆる『明らかならざる所を闕[か]く』なり」と記していることについては、謙虚さの現れとされていましたが、「良く知らないことは記さないでおく」というのは、『春秋』における孔子の態度を示す言い回しとして当時知られていたようであって、自分も同様に、不案内なまま不十分な解釈はしないのだという見識を誇った表現と見られることを指摘しました。

 三経義疏には、解釈にあたって「私~」という形で自分の意見を述べていることが多く、学団による共同製作とは考えがたいことは早くから指摘されていました。今回は、「(それは奥深い解釈でしょうが)私が考えるところでは」と謙虚気味に言う際、「私意」などでなく、中国の注釈ではそうした意味では用いられない「私懐」という表現を使ったりしており、しかも、三経義疏の中で一つだけ異質とされる『維摩経義疏』にもそうした用例が見えることを指摘してあります。

 こうした点に注意して読むと、教理を説いた堅苦しそうな漢文から、著者の性格が見えてくるのです。三経義疏については、原文でそのまま読む人は稀であって、花山信勝の書き下し文で読む人がほとんどと思いますが、太子信奉者である花山は、できるだけ自然に読めるように強引な訓読をしており、これで読んだのでは原文の文章の特徴はわかりません。

 「私は東京に行きます」「おいら、東京なら行くぜ」「あたし、東京も行ったことあるのよ」という文章は大違いであって、書いた人の立場や性格が出ています。この場合、大事なのは、「東京なら」の「なら」や「東京も」の「も」ですが、「東京」「行」という漢字だけ拾って読む人、あるいは「我、東京に行かん」と「私、東京、行くです」の文体の違いが分からないと、少し前の記事で触れた吉田一彦氏の概論のようなことになるのです(こちら)。

 なお、戦前は『日本書紀』の記述通りに、「天皇家(を代表する聖徳太子)vs横暴な蘇我氏」といいう対立の図式が強調されていました。今回の拙論では、かつては天皇後継争いは「物部氏←→蘇我氏」という対立だったものが、蘇我氏が強大になった結果、蘇我氏内部の「本宗家←→本宗家以外(境部摩理勢など)」という対立が天皇後継争いの要因となり、上宮王家はその争いに巻き込まれたのではないか、と推測してあります。

 自民党もそうですが、ある勢力が他の勢力との抗争に打ち勝って一極支配となると、今度は内部抗争が始まるものですからね。上宮王家もその図式に乗って自立しようとした面はなかったのか。ともかく、戦前の図式とその変型は疑ってかかる必要があります。