聖徳太子研究の最前線

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系図・系譜学者が蘇我氏は本宗家滅亡後も勢力を保った様子を跡づけ:宝賀寿男『蘇我氏』

2023年04月23日 | 論文・研究書紹介

 前回の記事では、国体論者の相澤宏明氏の近著は、皇室を代表とする聖徳太子vs横暴な蘇我氏という図式に縛られていることを指摘しました。

 また、少し前に、蘇我氏をユダヤ系のキリスト教徒とする田中英道氏のトンデモ本を批判しておきました(こちら)。田中氏のこの本によれば、聖徳太子は邪悪な蘇我氏の陰謀から日本を守ろうとして暗殺されたものの、以後、蘇我氏は打破され、天智・天武天皇らによって日本の正しい道が確立された由。

 しかし、その批判記事で指摘したように、聖徳太子は父方母方とも蘇我氏の血を引いていた最初の天皇候補者ですし、天智天皇も、また天武天皇の事業を受け継いだ持統天皇も蘇我氏の血を引いています。

 他にも蘇我氏の血を引いている天皇やその妃はいたうえ、それどころか、蘇我氏に代わって長らく天皇の外戚として日本の政治を担当することになる藤原氏さえ蘇我氏の血を引いていることを示し、蘇我氏の息長さを跡づけた本が、

宝賀寿男『蘇我氏ー権勢を誇った謎多き古代大族』
(青垣出版、2019年)

です。

 宝賀氏は、東大法学部を出て大蔵省官僚となり、国税局勤務中に詳細な『古代氏族系譜集成』を出版して評価され、弁護士に転じてからは系図・系譜に関する本を続々と刊行しています。原史料や研究成果を博捜し、新たな事実を明らかにされていますが、時にやや強引な推測や断定がまじることもあるようです。

 この本では、蘇我氏の遠祖の探求に始まり、奈良時代以後の蘇我氏系の氏族の活動までを扱っていますが、ここでは聖徳太子関連の部分だけをとりあげます。なお、冒頭では、蘇我氏に関するこれまでの膨大な研究状況をまとめており、有益です。

 まず、祖とされる武内宿祢については、長寿とされた点や史料の混乱などを除けば、実在したと見てさしつかえないが、その後裔と称する氏族の伝承の成立は遅く、事実ではないとします。

 ここの詳しい紹介は省きますが、先祖伝承は信用できないものが多い以上、他の氏族との通婚の様子や関連する事柄を調べることによってその氏族の性格が分かるとする指摘は重要でしょう。

 蘇我氏を渡来系と説く説については、その形跡が見られないとし、石川宿祢以後の系図は、命名・通称はともかく、実在人物の系図と見て良いとし、河内の石川という地の重要性を強調します。

 大和国高市郡の式内社に宗我坐宗我都比古神社があるうえ、河内には「ソガ」という地名はないため、蘇我氏は初期にはこの神社の地あたり、つまり曽我に居住していたと推定されると説きます。

 畝傍山の北にあたる曽我あたりを根拠地とし、飛鳥時代に曽我川に沿って南方で軽・飛鳥方面に勢力を伸ばしていったと見るのです。飛鳥には、百済から渡来した東漢氏が多く住み着いており、彼らを配下として活動したため、曽我の地から飛鳥へと本拠地を移したと見ます。

 曽我でなく、稻目の邸宅があった軽あたりを本来の居住地とする説もありますが、これについては別の観点からその可能性を認め、軽、ないし軽から曽我にかけての地に当初は本拠地を置いた可能性があると説きます。馬子の弟、境部摩理勢が軽あたりにいて曽我にも田家を持っていた以上、それが摩理勢が重きをなした一因だった可能性があるとするのです。

 ただ、本拠は大王に妃を送り込んだ葛城氏の地であったとか、稻目は葛城氏出身かといった説については、根拠なしとして否定します。

 そして、蘇我氏の仏教受容などに話を進めますが、「この頃の出来事を記す当時の紀年、暦法には何種か並行して」いたことに注意します。また、仏教受容と氏族としての祖先神祭祀の保持とは別問題と説きます。これは、このブログでも何度かとりあげた平林章仁氏も同意見だったものです。

 馬子については、大臣としての手腕を発揮した最初は高句麗外交の開始とし、これについては物部守屋らの反対を受けたが、遣隋使を派遣しており、その必要上、難波津を重視したとします。

 また馬子は、稻目の娘であって欽明天皇の妃となり推古天皇を生んだ堅塩媛を欽明天皇陵に合葬したうえ、娘の刀自古の郎女を蘇我系である廐戸皇子の妃とするとともに、田村皇子(後の舒明天皇)にも娘の法堤郎女を妃として配して血縁関係を深めたことから見て、推古15年には大和・山背・河内に池が作られ、国ごとに屯倉が設置されたことなどは、馬子の主導と見ます。

 つまり、「推古朝の事業活動に関し、聖徳太子の果たした役割は多少割り引いて考えることも必要か」と延べるのです。これは妥当ですね。ただ、内容によって馬子と太子が担当をある程度分担したことは考えられますが。

 宝賀氏の記述で気になるのは、飛鳥寺の初代の寺司とされた蘇我善徳臣の件です。蝦夷は『日本書紀』では推古18年(610)に新羅・任那の使者を迎える場面で初めて登場しますが、『扶桑略記』ではこの時、25才としており、推古4年(596)の飛鳥寺完成時に寺司となるのは無理です。

 ただ、中田憲信編『皇胤志』では善徳の子として志慈(御炊朝臣の祖)をあげ、宝賀氏が見いだした鈴木真年の『史略名称訓義』では、壬申の乱の近江方の御史大夫蘇我果安が「善徳の子」と帰されています。

 基づいた史料は不明ですが、果安という名は『皇胤志』では馬子の二男である倉麻呂の子として、赤兄の弟として置かれ、その弟として大炊という者が置かれています。このため、宝賀氏は、善徳は僧名であって、後に還俗して子をもうけたと推定します。

 そして注目するのは、推古31年(623)に大徳の冠位で見えており、数万の軍勢を率いて新羅出世したとされる境部雄摩侶です。雄摩侶については、境部摩理勢の近親ないし子とする説が有力ですが、摩理勢は蝦夷に滅ぼされており、その際、長男の毛津、二男の阿椰も死んでいますので、雄摩侶は摩理勢の子ではないとします。

 そこで宝賀氏は、雄摩侶とは還俗した善徳の名であって、「蘇我一族の中では、倉麻呂(一名雄正、又雄當)の名で知られる者と同人であった」と断定します。推古天皇没後に後継者問題でもめた際、雄摩侶はただちには名をあげられないとして、どっちつかずの態度をとっているため、山背大兄を押す摩理勢とは立場が異なるとするのです。

 さてどうでしょうか。宝賀氏も、御炊朝臣の系譜は『姓氏録』に馬背宿祢の後とだけ見えており、蘇我本宗家からの分岐過程は史料には見えないとしていて、状況証拠だけですので、断定するのは無理でないでしょうか。記紀には同人異名の例が多く、逆に異人同名の例も若干見られるため、その点に注意しないと系譜記事は理解できないとする主張は妥当だと思われますが。

 宝賀氏は、系図・系譜の素養を発揮し、御炊朝臣が後の史料にどう見えているかなどを検討しています。その倉麻呂の長子である倉山田石川麻呂は、乙巳の変で協力し、改新政府では右大臣となり、娘の遠媛と姪娘を中大兄(天智天皇)の妃としており、遠媛が生んだ皇女が天武天皇の皇后となった持統天皇、姪娘が生んだ皇女が元明天皇です。

 さらに、倉麻呂の子である連子の長女である娼子は、藤原不比等の妻であって、武智麻呂、房前、宇合(異説あり)を生んでいます。つまり、藤原氏の主流となった北家は、蘇我氏の女性に発しているのです。

 馬子の妻、つまり、蝦夷の母は、物部守屋の妹であったことは有名ですが、『紀氏家牒』では、蝦夷は守屋の弟の娘である鎌姫刀自を妻として入鹿と畝傍を生んだとしています。ここら辺は、有力者同士の入り組んだ婚姻関係になっているのです。

 『先代旧事本紀』の「天孫本紀」には混乱があるものの、物部鎌姫大刀自が推古朝に石上神宮に奉斎し、「宗我嶋大臣(馬子)の子、豊浦大臣(蝦夷)の妻となりて、入鹿連(臣の誤記か)を生む」と読むのが妥当だと、宝賀氏は説きます。

 蘇我本宗家は亡びたものの、支流の石上家は存続し、奈良時代に石上朝臣と名乗り、左大臣麻呂、中納言乙麻呂、大納言宅嗣という三代の議政官を出していることに宝賀氏は注意します。

 聖徳太子にしても、滅ぼされたのは山背大兄の家族であってその妹とみられる片岡女王などは法隆寺再建まで生きていた有力な者は天皇家や藤原家に妃を送り込み、長く重要な官職に就いて活躍したのです。

 宝賀氏のこの本では、蘇我の祖とされる武内宿祢の実在について論じ、また蘇我本宗家滅亡後の一族の活動について詳しく論じていますので、興味のある方はどうぞ。

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