聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

奈良時代に書かれた「憲法十七条」の最古の注釈を検討:金沢英之「『聖徳太子十七憲章并序註』について」

2023年04月27日 | 論文・研究書紹介

 少し前の記事で、聖徳太子は日本の国体を守ろうとしたのだと論ずる国体論者の相澤宏明氏の近刊書を紹介しました(こちら)。「憲法十七条」を自説に都合良く解釈しており、まったくの時代錯誤の主張であって誤りなのですが、この本とは反対に、着実に文献を検討したのが、

金沢英之「『聖徳太子十七憲章并序註』について」
(『北大文学研究院紀要』169号、2023年3月。PDFは、こちら

です。金沢氏は、「天寿国繍帳銘」に見える年月日の記述は後代の儀鳳暦に基づくことを論じ、後代制作説の根拠とされるようになった論文で有名ですが、これに対する北康宏氏の批判は、ここで紹介しました(こちら)。

 この『聖徳太子十七憲章并序註』は、現存最古の「憲法十七条」注釈であり、聖徳太子の伝記および関連資料をまとめた『異本上宮太子伝』と合わせて一冊とした形で伝えられてきたものです。

 こ本については、江戸末の国学者、黒川春村(1799-1867)が書写したものをさらに書写したものが2部残っており、一つは戦後になって「厩戸王」という呼び方を仮定した小倉豊文(こちら)が入手し、現在は広島大学図書館に所蔵されているものです。これについては、昨年、申請して撮影してきました。

 もう一つは、明治45年に転写され、現在は日本大学総合学術情報センター所蔵となっているものであって、これがさらに転写されたものが東京国立博物館に所蔵されており、デジタルライブラリーで閲覧できます(こちら)。

 このうち『憲章序註』は、11世紀の法隆寺僧千夏の所持本と推定されており、書写自体も平安中期頃と考えられています。

 金沢氏は、この『憲章序註』は、第二条の「三宝者仏法僧也」の部分の注釈が、在家も含めた菩薩戒である三聚浄戒を強調し、しかも牽強附会としか言えない強引な注釈をほどこしている点、また第二条以外では仏教に触れていない点から見て、この注釈者は仏教を専門とする者でなかったと推定します。

 そして制作時期については、「国造」に対する注釈の仕方、また「序」の部分に見える律令に関する文から考えて、「大宝律令」を念頭に置いたものであって天平勝宝9年(757)に「養老律令」が定められる前の作と見ます。つまり、天平年間(729-749)後半から天平宝字元年(757)の間のどこかの時期に書かれたとするのです(なお、氏が「天平宝字九年に至る」と記しているのは、誤記)。

 金沢氏は、「序」が語る太子像を検討していますが、それによると、「序」は、太子以前は未開の状態であって、火の使い方、親子の秩序や文化も知らず、文字も無かったところに、天地の理を体現した聖人、聖徳太子が現れ、守屋を打倒し、中国に文書を送り、外典(中国思想の文献)と内典である仏教を用いて、政治と信仰の両面で活動し、謙虚な姿勢で国を繁栄させたのであって、「憲法十七条」は律令の淵源だ、ということになります。

 これは、百済から仏教を入れることによって文字を知ったなどと説く中国の史書の倭国の記述に基づくものですね。

 金沢氏は、光明皇后、母の県犬養三千代、阿部内親王(孝謙天皇)、橘古那可智(聖武天皇夫人)、無漏王(光明皇后の異母妹)などの『法華経』信仰が、天平期以後の太子信仰の普及の基盤となったとする若井敏明氏の説を引き、これが天台大師の師である南岳慧思が日本に聖徳太子として生まれ代わったとする説と結びついたことに注意しています。だから、『異本上宮太子伝』では、南岳慧思に関わる伝承が説かれているとするのですね。

 金沢氏は、末尾で、後代の『太子伝玉林抄』が「明一伝」の名で引く『憲法序註』、文永9年(1272)年に法隆寺宝光院で学僧たちが作成した成簣堂文庫所蔵の『聖徳太子十七ケ条之憲法并註』、広島大学本の『憲章序註』のテキストを簡単に対比し、検討しています。

 氏は書いていませんが、これらに共通して見えることは、仏教の立場の解釈が意外に少ないことですね。確かに、儒教の古典からの引用が目立つため無理もないのですが、実際には『優婆塞戒経』を用いるなどしていることは、私が発見しており、このブログでも紹介してあります(こちら)。

 

 

 

 


考古学者が厩戸皇子の斑鳩移転を画期的な「斑鳩京」をめざしたものと推定:前園美知雄『律令国家前夜』

2023年04月27日 | 論文・研究書紹介

 斑鳩宮の評価については、馬子との権力闘争に敗れて隠遁したように見る説も一時はかなり説かれており、逆に、宮や若草伽藍の周辺には独特の方格地割が見られることを理由に都として整備しようとする計画があったとする説もあります。そこで、この問題について考古学者が論じた最近の本を取り上げましょう。

前園美知雄『律令国家前夜-遺跡から探る飛鳥時代の大変革-』
(新泉社、2022年)

です。

 前園氏は、奈良県立橿原考古学研究所に勤務し、太安万侶墓、藤ノ木古墳、法隆寺、唐招提寺などの発掘調査をおこなった研究者であり、この本は、王宮の遺跡、寺院、古墳などを通して飛鳥時代について考察したものです。その構成は以下の通り。

 【飛鳥】
  三輪山との別離
  新しい信仰:飛鳥の寺院
  王たちの奥津城
 【斑鳩】
  律令制国家前夜:厩戸皇子の斑鳩宮
  上宮王家の奥津城
  大王家の系譜   

 この構成が示すように、前園氏が重視するのは、宗教的権威としての三輪山です。『古事記』『日本書紀』に記されたヤマト政権の大王の宮の多くは、三輪山の麓か、三輪山を眺めることができる地域、つまり、磯城・磐余の地に置かれていました。

 物部守屋を打倒した蘇我馬子が、蘇我氏の血を引く崇峻を天皇に擁立します。倉梯にあったとされる崇峻の宮は、遺跡は発見されていないものの、桜井市の倉橋付近にあったと考えられています。

 ところが、その崇峻が殺され、同じく蘇我氏の血を引く推古が天皇になると、豊浦宮で即位しており、政権の地が、磯城・磐余から飛鳥に移ります。以後、宮は長く飛鳥に置かれました。

 前園氏はこれに続いて、「予想だにしていなかったと思われることも起きている」と述べ、それは、蘇我系である「厩戸皇子が皇太子になって摂政になり、理想の政治を追いはじめたことだ」と述べます。そして、厩戸皇子の活躍に触れた後、「飛鳥を離れ、斑鳩に居を移して次世代の王としての地歩を固めつつあった」と述べるのです。

 以下、諸天皇の宮の概説が続きますが、舒明天皇(田村皇子)の即位については、蘇我蝦夷の妹である法提郎女と結婚し、古人大兄皇子を設けていたことが大きく、「山背大兄王に政権が渡ってしまうと、厩戸皇子に基礎が築かれつつあった大王家を中心とした政権となってしまうおそれがあった」と述べます。

 大丈夫でしょうかね。前園氏は考古学では実績のある方ですが、歴史学の成果はあまり読んでいないのか、『日本書紀』の「皇太子」や「摂政」という言葉をそのまま用い、厩戸皇子は、蘇我氏の意向にさからう天皇家中心の理想的な政治をめざしたような書きぶりです。

 これって、昔の「蘇我氏逆臣説」の図式じゃないですか? 末尾の「参考文献」を見ても、考古学関連の文献が多く、歴史学の吉村武彦『聖徳太子』、東野治之『聖徳太子-ほんとうの姿を求めて』、そして仏教史系である私の『聖徳太子-実像と伝説の間-』などは挙げられていません。

 中国の北朝や新羅の例を見ても分かるように、豪族の連合政権のような形であったもののが、国王の中央集権が強まっていく際、それを補佐する有力な臣下が外戚として力を振るうのは良くあるパターンです。この場合、国王の権力が増せばその臣下の権勢も増し、逆にその臣下の権勢が増せば国王も他の豪族たちより隔絶した立場になるのであって、国王と有力な臣下は共益関係にあるのです。

 厩戸皇子は、大伯父であって義父でもあった大臣馬子の支援により、斑鳩に宮を建て寺も建て、都の飛鳥と斑鳩を斜め一直線でつなく幅広い太子道を造ったはずですし、太子の後を継ぐべき長男で「大兄」となった山背大兄は、馬子の娘から生まれてますよ。

 遣隋使を派遣し、百済宮と百済大寺を並んで造営した舒明天皇について、厩戸皇子の考えを継ごうとしたという指摘は良いですが、その考えはその皇子たちや義弟の孝徳にも伝わっていたのであり、「彼らの脳裏には未完に終わった斑鳩京があったのではなかろうか」というのは行きすぎのように思われます。
 
 この本のうち、古墳などに関する説明、宮や寺院の跡の発掘に関する記述は有益です。たとえば、現在、各地の発掘現場で見られる、四角く区切られた場所を一定の深さで堀り、そこに丸や四角の柱の跡が並んでいると光景は、斑鳩宮跡が発見された90年前の法隆寺東院の調査が最初であって、それを主導したのは法隆寺国宝保存工事事務所の技師であった浅野清氏だったとし、そうした発掘法について語ったところなどは、飛鳥・斑鳩で多くの調査に携わった人ならではの記述です。

 (瓦については、吉田一彦氏の概説紹介の中で触れた栗田薫「ドクターかおるの考古学ワールド」(季刊『大阪春秋』)の連載(こちら)が、最先端の研究法にたどり着いた経緯を記しており、非常に面白い読み物になってます)。

 しかし、「厩戸皇子は600年に派遣した遣隋使の報告を聞き、奈良盆地の奥まった一角で、蘇我氏の一強体制で進められている政治に危機感を抱いたと思われる。そこで斑鳩を中心とした新しい国づくりをめざしたのであろう」といった部分は、先に書いたように、「蘇我氏横暴説」の図式にひきずられすぎているように思われます。