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津田左右吉を不敬罪で告発した蓑田胸喜とその仲間たち:中島岳志「『原理日本』と聖徳太子」

2022年06月29日 | 津田左右吉を攻撃した聖徳太子礼讃者たち

 7月9日に早稲田大学で開催される聖徳太子シンポジウム(こちら)では、太子の事績を疑った津田左右吉の誤りと慧眼について語る予定です。

 それはともかく、津田左右吉を不敬罪で告発した連中については、論文を何本か書きましたが(最初の論文は、こちら)、考えてみたら、私が監修した論文集でも、売れっ子の中島岳志さんがこの問題を論じており、紹介していないままでした。

中島岳志「『原理日本』と聖徳太子ー井上右近・黒上正一郎・蓑田胸喜を中心としてー」

(石井公成監修、近藤俊太郎・名和達宣編『近代の仏教思想と日本主義』、法藏館、2020年)

です。

 中島さんは、『親鸞と日本主義』(新潮社、2017年)で、親鸞崇拝の超国家主義者が登場したのは、親鸞の思想自体にそうした主張を生み出す余地があったからだと論じて衝撃を与えました。その影響は極めて大きく、上記の論文集のうちの多くの論文が、この本に触れています。新たな視点を提示した意義を認めたうえで同書の問題点を指摘した斎藤公太「本居宣長の日本主義ー曉烏敏による思想解釈を通してー」も、この論文集に収録されています。

 さて、中島さんは上記の論文では、三井甲之が一高時代に神経衰弱となり、真宗の近角常観が説教していた求道学舎に通い、親鸞の思想に傾倒していったことから話を始めます。東大国文を出た歌人であった三井は、正岡子規の後継となる和歌の雑誌を編纂するうちに国家主義に染まり、また親鸞と聖徳太子への崇拝を強めるようになり、和歌雑誌でありながら国家主義的な主張を打ち出す『人生と表現』を刊行したのです。

 ここに集まってきた1人が、『人生と表現』に寄稿していた木村卯之の言葉に感動した真宗大谷派の僧、井上右近(1891-?)でした。京都で出逢って木村と交流するようになった井上は、木村が東京勤務となったのを追いかけるように東大に入って宗教学を学びます。木村卯之は、南無阿弥陀仏に代えて「南無日本」と唱えるべきだと説いた人物であることは、私が以前紹介しました(こちら)。

 井上は、東大法学部から文学部に移ってきていた蓑田に影響を与え、蓑田は強烈な超国家主義者となっていきます。

 井上は、1919年に京都に戻って真宗大谷大学で教えるようになりますが、大谷大学が『仏教研究』を刊行すると、日本精神から逸脱していると思われた者たちを激しく攻撃する文章を、同誌に載せるようになります。ただ、大学はまもまく辞職し、枝葉村塾という私塾を開いて若者の指導を始めました。

 この井上に出逢い、三井や蓑田の影響も受けつつ聖徳太子研究に打ち込むようになったのが、黒上正一郎(1900-1930)です。黒上は、聖徳太子が物部氏から仏教を守ろうとしたことを踏まえ、国民精神をそこなう敵たちに対する「永久思想戦」の必要を説き、親鸞はこの太子の立場を継いだと論じるようなりました。

 黒上は若くして亡くなりますが、三経義疏に関する熱烈な解釈は、没後に『聖徳太子の信仰思想と日本文化創業』として刊行され、この仲間たちに大きな影響を与えます(この点については、このブログでも紹介しました。こちら)。

 井上はこれらの人々をつなぐ重要な役割を果たしていたのですが、これまで詳しい研究はなされておらず、中島さんのこの論文がその取り組みの最初です。

 さて、井上は、太子の「世間虚仮、唯仏是真」を「国際世間虚仮、唯日本是真」と言い換えた木村卯之の路線に従い、「社会虚仮、唯真是祖国」と称して次々に太子関連の著作を刊行してゆきます。「祖国」という点を強調するのは、三井の影響ですね。

 井上によれば、太子の仏教のみが大地に根付いた仏教なのであって、インドや中国の仏教は大地を忘れて空ばかり見上げる「亡国的思想」だとし、その日本の正しい仏教とは、天皇への「随順」であるとします。国民を貴賎に関係なく平等に結びつけ、国体そのものである「同一宗教的生命に融会」せしめるのが天皇の「大御心」であるとして、それを妨げる者たちを攻撃する「戦闘的人生観」を説くのです。

 現実の天皇はそうした仏教信仰は持っていませんが、国体尊重、「南無日本」の彼らにとっては、現実の天皇の考えなどどうでもよく、自分たちの理想を体現する存在とみなされるだけなのですね。

 こうした思想を背景として、原理日本社の中心となって『原理日本』を編纂刊行し、思想的な敵とみなした者たちを罵倒攻撃するばかりか、時には告発までして大学などから追放していったのが、蓑田胸喜(1894-1946)でした。蓑田は他の仲間たちと同様、「自力のはからい」を捨て、現実の社会に生きた親鸞を釈尊よりも上位に置き、その先駆が聖徳太子だとするのです。

 中島さんは、「蓑田にとって、民主主義とは国民の平等な合一化である。それは皇化による融合によって成し遂げられる」とし、これこそが親鸞の説く「自然法爾」の世界だったと説きます。彼らは、「民族共同体の中に「融合」することで、疎外感を克服しようとした」とするのです。

 つまり、原理日本社は民主主義者や自由主義者を激しく攻撃したものの、自分たちこそが天皇のもとでの民の真の平等を目指す者だと考えていたとするのですね。また、中島さんは、そうした蓑田は、しばしばスピノザを引用するとし、「神即自然」を説いて一元的汎神論を説いたスピノザと蓑田との意外な共通点に注目します。

 これは重要な指摘ですね。三井は、民族心理を探求したドイツのヴントを高く評価していましたし、「ドイツ国民に告ぐ」を著してドイツ語の意義を強調したフィヒテも尊重していました。ナショナリズムは、実は海外の影響を受けている場合が多いのです。

 この中島論文のもう一つの特徴は、上記の人々が手紙と和歌雑誌への投稿を通じて一体感を得ていたことに注意している点です。不安な世相の中で、人とのつながりを得て同志として共感しあうという点が彼らの結びつきを強め、思想の敵たちに対する一体となっての攻撃に駆り立てたのです。

 それにしても、聖徳太子は本当に「自分の願望を投影しやすい存在」であるということを、改めて痛感させられますね。

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