聖徳太子研究の最前線

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法隆寺の歴史の集大成:法隆寺編『法隆寺史 上-古代・中世-』(5) 『法華経』講経の岡本宮の後身が法起寺

2022年06月20日 | 論文・研究書紹介

 今回も森郁夫氏の執筆分であって、

「第二章第三節 中宮寺・法起寺・法輪寺と法隆寺」

です。内容を紹介していきます。

 中宮寺・法起寺・法輪寺はいずれも法隆寺と関係が深く、軒丸瓦も軒平瓦も7世紀後半に再建された法隆寺の瓦、つまり、法隆寺式軒瓦が出土している寺ですね。

 このうち、中宮寺は『法隆寺資材帳』では「中宮尼寺」と記されています。これが正式名称であったかどうかは不明ですが、早い時期の太子伝である『七代記』では「鵤(いかるが)尼寺」と記されています。僧寺である飛鳥寺と尼寺の豊浦寺のように、僧寺である法隆寺と対になるように計画されたとしたら、聖徳太子の生前に造営が始まった可能性が出てきます。

 ただ、森氏は、『聖徳太子伝暦』では、太子の母である間人皇后の宮を皇后の没後に寺としたとしていると述べるに止まっています。中宮寺からは創建時の若草伽藍と同じ瓦も少しだけ出ていますので、考えられるのは、間人皇后が住んでいた宮に、小さな仏堂を作って若草伽藍と同じ瓦を葺いて仏を安置しており、間人皇后と太子が続いて亡くなった後に、皇后の宮を改めて本格伽藍である中宮寺を造営したという流れですね。

 当初の中宮寺は、現在の場所の東方約500メートルあたりの地にあり、昭和38年度の調査で、南北の建物の跡が発見されて南が塔、北が金堂であって四天王寺式の配置であったことが判明しています。基壇周辺に凝灰岩の粉が発見されたため、壇上積み基壇であったことが判明しました。

 塔は二重基壇であって、面から2.5メートルの深さに心礎上面があり、金環、金の延べ板、ガラス玉、水晶角材などが発見されています。

 創建時の軒丸瓦は、先端が角ばり幅広の蓮弁を8弁置いた百済式のものと、中央に一条の凸線を持つ細長い蓮弁をおき、蓮弁の間に珠点をひとつづつ置いたものです。後者は豊浦寺創建時の瓦の系統のものであって、かつては高句麗系と呼ばれていたものですが、森氏は古新羅系とします。豊浦寺は尼寺ですので、その瓦が使われるのは自然ですね。

 面白いことに、この二種の瓦は、中宮寺跡の西4キロあたりに造営された四天王寺式伽藍配置の寺である平隆寺でも用いられており、その平隆寺の北方丘陵に作られた今池瓦窯でこれらの軒丸瓦が発見されています。平隆寺は平群寺とも称することが示すように、この地に居住していた平群氏の寺ですね。

 中宮寺の創建時に続く第二期(630年代)の軒瓦は、六弁の蓮弁の中にパルメットを置いた軒丸瓦と、均整忍冬唐草文の軒片瓦であって、これらは塔の屋根に葺かれたと森氏は推測します。しかも、軒平瓦の同笵品が斑鳩宮跡からも発見されていますので、斑鳩宮が皇極2年(643)に焼き討ちにされる前の時期の建立ということになります。

 次に斑鳩町岡本字池尻にある法起寺は、岡本寺とも呼ばれ、池尻寺とも呼ばれており、森氏は二つの名の寺は多いが三つの名の寺は珍しいとします。法起寺は、「法起寺塔露盤銘」によれば、亡くなる直前の太子が山背大兄に「山本宮」の建物を寺にするよう託し、大和や近江に水田を入れ、舒明10年(638)に福亮僧正が弥勒像を造って金堂を建立し、それから40年を経た天武14年(685)に恵施僧正「堂塔」を建て、慶雲3年(706)に露盤をあげたとされています。

 いろいろ議論のある資料ですが、「山本宮」は太子が『法華経』を講じたとされる岡本宮、「堂塔」は「宝塔」の誤りとする説が有力となっており、これほど間隔が開いたことについては、やはり斑鳩宮が焼かれて山背大兄一族が亡んだことが原因とする説に森氏も賛同します。

 法起寺境内から出土した軒瓦には、外縁に圏線をめぐらしてあるものがあり、皇極2年(643)と推定されている山田寺の軒丸瓦と共通であって、しかも山田寺より素朴であるため、法起寺金堂が舒明10年に造営されたという伝承が認めて良いとします。

 法起寺については、下層の発掘がおこなわれており、金堂推定地の西では、方位が真北から20度西に振れた玉石組の溝が検出されており、この方位の振れは、若草伽藍や太子道と同じですね。周辺地域では、この振れた方位と同じ方位で掘立柱遺構が発見されており、岡本宮の遺構である可能性があるとします。

 現在の法起寺における古代の建物は三重塔だけです。三重塔としては我が国最古であって、その初重、二重、三重は、法隆寺五重塔の初重、三重、五重とほとんど同じであって、法隆寺の五重塔にならって制作されたことが知られています。

 斑鳩町三井(みい)にある法輪寺については、創立の事情は明確ではありません。『太子伝私記』では、太子の病気平癒を祈って山背大兄とその子である「弓義(弓削)王」が発願したとされていますが、弓削王は当時は10歳以下ほどでしかありません。

 また『補闕記』『聖徳太子伝暦』などでは、斑鳩寺が天智9年(670)に火災にあい、再建のための寺地が定まらなかった際、百済の聞法師(一説では開法師)、円明法師、下氷雑物の三人が衆人を率いて太秦の蜂岡寺(広隆寺)、川内の高井寺を造り、三井の地に寺を建てたとする記述が見えますが、広隆寺は七世紀の第1四半期(601-625)に造営が始められており、高井寺は第2四半期に造営が始まったことが明らかになっています。

 一方、法輪寺に関して昭和19年(1944)に雷で焼失した三重塔を復興するため、昭和47年(1972)に調査がおこなわれた際、基壇の周辺からは再建した法隆寺式軒瓦が出土したのに反し、塔基壇の版築土の中からは、それより古式の軒瓦が出土しています。

 つまり、基壇を築成する際、先行する建物で使用されていた軒瓦が埋め込まれていたのです。その軒瓦は、単弁蓮華文のものと重弧文のものがあり、これらが創建時の金堂に用いられていたのであって、これに近いのは山田寺のものですので、森氏は、650年年代前後に造営が始められていたことが分かるとしています。