今回は、岩本次郎氏の執筆になる
「第二章 第五節 法隆寺と播磨国」
です。
岩本氏は、『日本書紀』推古14年(606)7月条では、聖徳太子が『勝鬘経』を3日で説き終えたとしており、続く是歳条では、『法華経』を岡本宮で講義したため、播磨国の水田百丁がに布施され、太子はこれを斑鳩寺に納めたとということから話を始めます。『日本書紀』のこの部分での呼称は「皇太子」ですが。
そして、『法隆寺伽藍縁起并流記資材帳』の冒頭部分では、戊午年(推古6年:598)4月15日に、推古天皇が太子に依頼して『法華経』と『勝鬘経』を講義させたところ、その講義は僧侶のように立派であり、一堂の者皆な喜ぶという状況であったため、天皇は播磨国佐西地五十万代を太子に布施したため、太子はこれを斑鳩本寺(法隆寺)、中宮尼寺、片岡僧寺の三寺に分けて施入したとします。
岩本氏は、これらはあくまでも『資材帳』作成当時の認識であることに注意したうえで、この地は16世紀まで法隆寺の根本莊園となっていたと述べます。ただ、『資材帳』は有名であるものの、作成当時の認識と述べておりながら、その作成年代に触れていないのは不親切ですね。むろん、天平18年(746)に大安寺、法隆寺、西大寺などの大寺に出された資材報告命令に基づき、翌年、提出されたものです。また推古6年には中宮寺も片岡僧寺も造営されていないことにも触れておいてほしかったところです。
それはともかく、「五十万代」という記述については、大宝令(701)以前の単位である「代(しろ)」を用いているところが、寺側の誇張ないし作為が見られるという説があるとしたうえで、五十万代だと1000町となりますので無理があるとします。
ただ、冒頭部分のこの記述と違い、所有する水田を示した箇所では、播磨国揖保郡のところで、「二一九町一段」があると記している点は事実と理解されていると説きます。というのは、1000町より大幅に少ないものの、かなりの量であることは事実であるうえ、嘉暦4年(1329)に作成された鵤荘絵図では、鵤荘とともに片岡僧寺に関わると思われる片岡荘の範囲が描かれており、現在も小字に「中宮寺」があることが注目されるためです。いつからかは明確でないものの、この播磨の地が中宮寺・片岡王僧寺を支えていたのは事実でしょう。
なお、平安初期の『日本霊異記』では273町5段、『法王帝説』では300町としており、これはその時期の開墾面積として理解できるとします。
この鵤の地は、『資材帳』が記載する寺領の水田のうち、ここの水田が全体の48%も占めているだけでなく、山や池も含め、様ざまな寺領があることが注目されます。つまり、土地の開発をやっているのです。
播磨国に次いで寺領が多いのは、平群郡です。法隆寺は夜摩郡にあり、夜摩郡は元は山部郡ですが、桓武天皇の諱である山部を避けて改正させられたものです。
法隆寺が所蔵する命過幡には、山部氏が献納したのものがいくつも見られることが知られており、関係の深さが知られます。この山部連は、地元の山部を統括するだけでなく、地方の伴造である山部直や山君(山公)らを通して山部を統括していたのであって、播磨国でも、平群郡斑鳩を本拠とする山部連が山部直→山部という形で押さえていただろうと、岩本氏は推測します。
このように、推古朝時の詳細な状況は把握できないものの、上宮王家が亡んだ後になってから、再建された法隆寺だけの力で地方に寺領を伸ばしていくことは考えにくいことです。聖徳太子・山背大兄の時代において、既にかなり播磨その他の地を法隆寺が自らおよび関連する寺々の所領として確保しており、それに基づいて、各地の豪族と結びつく形で勢力を伸ばしていったと見るべきなんでしょう。