聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

7月9日に早稲田で「聖徳太子の実像と伝承」シンポジウム

2022年06月04日 | 聖徳太子・法隆寺研究の関連情報

 7月に早稲田で聖徳太子シンポジウムが開催されます。人数制限のある対面参加は事前申込が必要ですが、ネットでの視聴は自由である由(こちら)。



 発表者と司会者は、私以外は、

阿部泰郎・吉原浩人編『南岳衡山と聖徳太子信仰』(勉誠出版、2018年)

のメンバーですね。この本も、前回から紹介し始めた法隆寺編『法隆寺史 上 ー古代・中世ー』(思文閣出版、2018年)と同様、私がブログを休んでいた時期に出ており、紹介し忘れていた本の一つです。

 河野さんは、古代の日本文学に与えた中国の影響などについて研究しており、私とは『日本霊異記』の研究仲間です(と私は勝手に考えてます)。太子信仰の代表的な研究者で中世の宗教テキスト全般について精力的に研究している阿部さんとも古いつきあいであって、東方学会の「願文」パネルやパリで開催された「論義」シンポジウムその他でご一緒しており、駒大にお招きして講演してもらったこともあります。

 大学院の後輩である吉原さんについては、古田史学の会のメンバーたちが「九州年号を用いているため、九州王朝の王である多利思北孤の太子、利歌彌多弗利が重病になった際、善光寺如来にすがろうとして出した手紙だ」と力説している善光寺如来あての「斑鳩厩戸勝鬘」の手紙(むろん、中世の偽文献)に関する吉原論文をこのブログで紹介しました(こちら)。

 吉原さんに、このブログでもとりあげた(こちらと、こちら)聖徳太子関連の論文もどきがいくつも掲載されている古田史学の会編『古代に真実を求めて:古田史学論集』第二十五集について尋ねたら、「抱腹絶倒もの」との返事でした。

 私の発表内容は、主催者である吉原さんの要望によるものです。聖徳太子は、謙虚な面があるものの実はかなりの自信家であり、民衆のために身を投げ出すべきだと確信しているものの、やや上から目線であって「ノブレス・オブリージュ」の性格が強い、といったことを話す予定です。

 7月は早稲田のエクステンションセンターでも聖徳太子について4回講義する予定ですし(こちら)、27日の法隆寺夏期大学でも講義する予定なので、内容が重ならないようにするのがひと苦労です。新しいネタを入れないといけないし。

 「憲法十七条」の現存最古の注釈は、小倉豊文が発見したものですが、これについては、5月に京都の国際日本文化研究センターでインドと中国と日本の「無常」の違いについて講演した際、その前日に広島大学図書館に寄って撮影させていただきました。

 無常講演で sabbe saṅkhārā aniccāを「諸行無常」と漢訳したのは五行思想の影響だと論じた点については、9月にパリで開催される翻訳シンポジウムで詳細な補足をつけて発表する予定です。初期の漢訳の原典は、むろん梵語でもパーリ語でもなく、インド西北部のガンダーラあたりの言葉であるガンダーリーかその西域訛りの言葉だったわけですが。

 国際日本文化研究センターでの講演は、対面参加者は数人だけであってリモート併用でやり、コロナ禍がまだ続いているため終了後の懇親会もありませんでした。その日はゲストハウスに泊まったところ、コロナ禍中なのにセンターのレストランは某学会が貸し切りにしており、山のふもとであって近くには飲食店もないため、スーパーマーケットまでとことこ歩いていってウーロン茶と弁当を買って帰り、殺風景なゲストハウスの部屋で一人わびしく食べたことでした。

 考えてみると、京都学派が中曽根首相に要望して創設されたこの国際日本文化研究センターの初代所長は、法隆寺は聖徳太子の怨霊封じの寺と論じた『隠された十字架』の梅原猛であって、私はこの怨霊説についてこのブログの「珍説奇説」コーナーで3回にわたって強烈に批判しているため(こちら)、多分、大先生の怨霊の祟りだったのでしょう。