聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

法隆寺の歴史の集大成:法隆寺編『法隆寺史 上ー古代・中世ー』(1)

2022年06月01日 | 論文・研究書紹介
 聖徳太子関連の研究書や論文については、刊行されたらなるべく早くこのブログで紹介したいと思っているのですが、意外な本や論文が脱けていたりします。今回、気がついたのは、このブログを3年ほど休んでいた間に刊行されたこの本です。

法隆寺編『法隆寺史 上 ー古代・中世ー』
(思文閣出版、2018年)

 法隆寺に関する本や論文は山ほど出ているのですが、創建から現在に至るまでの歴史を詳細に記した本は、実はまだ出版されていませんでした。法隆寺史編纂委員長である鈴木嘉吉氏の「編纂にあたって」によれば、その企画が発足したのは、現在の法隆寺のすべてを調査して記録した『昭和資材帳 法隆寺の至宝』全15巻の刊行が最終段階になった平成9年(1997)だった由。

 一貫した詳細な寺史が書かれなかったのは、宝物の異様な多さに比べ、古代・中世の古文書が比較的少なかったほか、中世・近世には著名な僧侶が出ていないことも理由の一つであったようです。そこで、編纂委員会では、通史篇を上(古代・中世)、中(近世)、下(近代)の三巻にまとめることとし、年譜(3巻)、史料篇(3~4巻)で計画した由。

 そして長い経過を経て、ようやく上巻の刊行に至ったわけです。執筆者の顔ぶれを見ると、最先端の若手研究者ではなく、それぞれの分野の大物が多いうえ、刊行が遅れたため、最先端の成果ではなくなった章・節も目立ちます。

 そもそも、この本の性格上、個々の研究者の特色ある最新説を示すのではなく、執筆時における学界の研究成果を紹介するという方向で書かれていますので、それは無理もないことですが、これまで詳細に論じられていなかった面がとりあげられている章や節などもかなりあり、とにかく重要な基礎研究となっています。

 構成は、亡くなった大野玄妙管長の「序文」、鈴木氏の「編纂にあたって」に始まり、

 序章 斑鳩の地理的環境と歴史的環境
 第一章 聖徳太子と斑鳩宮
 第二章 法隆寺の創建
 第三章 西院伽藍と東院伽藍
 第四章 聖徳太子信仰と子院の成立
 第五章 南都の興隆と法隆寺
 第六章 法隆寺の「寺中」と「寺辺」
 第七章 法隆寺の中世的世界
 索引
 図表・略称一覧
 執筆者紹介

となっていて、それぞれの章がさらに細かい節に分かれています。第一章であれば、

 第一節 聖徳太子と太子をめぐる人々
  1 聖徳太子と上宮王家
  2 上宮王家を支えた人々
 第二節 斑鳩宮の造営
  1 聖徳太子の宮
  2 斑鳩宮跡の発見
  3 二時期に分かれる斑鳩宮跡
  4 飽波葦垣宮
 第三節 太子道と斑鳩の地割
  1 河内と斑鳩・飛鳥を結ぶ古道
  2 斑鳩の方格地割と斑鳩寺の立地

といった調子です。こうした節が全部で26もあり、このブログでそれぞれの節の内容を紹介すると26回を要するという、濃密な内容になっています。

 それは無理なので、以後、特定の章、ないし節の内容を紹介していくこととし、今回は序章と第一章前半の内容を簡単にまとめておきます。執筆者は、序章と第一章の第三節は岩本次郎氏、第一章第一節は渡辺晃宏氏、第二節は考古学の森郁夫氏です。

 序章では、岩本氏は、斑鳩は東は富雄川、西は竜田川、南は大和川と馬見丘陵、北は矢田丘陵に囲まれているものの、古くから河内街道と呼ばれる交通路が斜めに走っており、閉ざされた地域ではなかったとします。斑鳩町には60基の古墳と10カ所の古墳時代の遺物散布地がある由。

 このように、近くに川が流れているものの、川から田畑へ水が引かれておらず、中央部は主に溜め池によって灌漑してきたそうです。確かに、このあたりは溜め池が多いですね。

 古墳のうち、法隆寺の背後の寺山の北に延びた小丘陵の先端に位置する仏塚古墳からは、仏教関連の遺物が大量に出土しています。近くには法隆寺別院と称された極楽寺があり、それとの関連が説かれているほか、被葬者としては太子の妃である菩岐岐美郎女を出した膳氏の可能性が指摘されています。

 法隆寺の西南に位置する直径50メートルの大型円墳である藤ノ木古墳は有名ですが、被葬者は馬子に殺された穴穂部皇子と宅部皇子とする説があります。

 法隆寺の東南に位置する東福寺遺跡は、飛鳥時代の掘建柱建物その他の遺構が発見されており、その南の上宮(かみや)遺跡は弥生時代から鎌倉時代にかけての複合遺跡ですが、主要な遺物は飛鳥時代から奈良時代のもので、菩岐岐美郎女がいた宮であって太子が亡くなった飽波葦垣宮とする見方が有力です。

 この近辺については、鎌倉時代の資料には「カシワテ」「カシハテ」「膳手」という表記が見られるため、岩本氏は、膳氏の本拠がこのあたりであって、太子に宮と妃を献上したと推測します。

 第一章第一節では、渡辺氏は、「聖徳」の語は慶雲3年(706)作とされる「法起寺塔露盤銘」に「上宮太子聖徳皇」とあるのが初見で、養老4年(720)の『日本書紀』に「東宮聖徳」とあるのが古い例であることから話を始めます。

 そして、天平10年(738)頃に成立した古記が「一云」として、天皇の諱とは「上宮太子、聖徳王と称する類」と述べているとし、天平10年頃には「聖徳」という呼称が実際におこなわれていたことに注意します。ただ、この段階では「聖徳王」「聖徳皇」が一般的であって、「聖徳太子」という呼称は天平勝宝3年(751)の『懐風藻』序が最古とされていると述べます。

 『懐風藻』は、歴代天皇の漢字諡号を定めた淡海三船の編集のようであり、「聖徳太子」という呼称は、三船が南岳慧思後身説と結びつけた形で用いて広まったらしいことは、私が「聖徳太子といかに向き合うかー小倉豊文の太子研究を手がかりとしてー」と題する講演録(『教化研究』166号、2020年8月)で明らかにし(こちら)、このブログでも紹介した通りです(こちら)。

 第一節で興味深いのは、年輪測定法によって現在の法隆寺五重塔の心柱が594年と判明したことを取り上げていることでしょう。蘇我氏の法興寺は、『日本書紀』によれば推古元年(593)に刹柱を立てており、法隆寺五重塔の伐採年代と近いのです。このため、渡辺氏は、斑鳩寺の建立計画は斑鳩宮造営より前からあったのであって、実際は斑鳩寺の方が斑鳩宮の造営より少し遅れたものの、斑鳩宮と斑鳩寺は一体のものとして進められた可能性があるとします。

 上宮王家を支えた人々という部分では、上宮王家は、他の王臣たちと同様、多数の舎人を従者として抱え、人格的な隷属関係をむすんでいたとし、上宮王家については、その経営に膳氏が深く関わっていたと説いています。

 太子の所領とされた土地の豪族たちが、私的なつながりによって舎人として奉仕し、馬の飼育や水田の管理などの仕事に携わったのです。そして、この人たちが、そのまま官僚として律令制下の王臣の家政機関に組み込まれていったとします。

 この指摘は、大化以後の官司制を反映しているという理由で「憲法十七条」が疑われたことと関連しますね。実際には「憲法十七条」は、私的な従属関係をそのまま官職と呼び換え、官司制整備の方向に移ろうとした移行期の様子を示しているように思われるのですが。

 上宮王家には、舎人のほかに「奴」と呼ばれる人々もおり、律令制では「家人」とか「奴婢」とか呼ばれるが、舎人と明確な違いはなかったろうと推測します。

 『日本書紀』の守屋合戦記事では、物部守屋大連との戦いに勝った後、「大連の奴の半ばと宅とを分け、大寺(四天王寺)の奴と田荘と為す」とありますし、『続日本紀』神護景雲元年(767)4月26日条によれば、太子の飽波宮の地が後に天皇家の行宮とされたようで、称徳天皇が飽波宮に行幸した際、法隆寺の奴婢27人に爵を賜ったとあるため、法隆寺にも奴婢がいたことが分かります。寺に田畑を寄進する場合は、人も一緒に寄進するのが普通ですし。
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