聖徳太子研究の最前線

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法隆寺の歴史の集大成:法隆寺編『法隆寺史 上ー古代・中世ー』(3)初期の法隆寺資料と「干食王后」

2022年06月10日 | 論文・研究書紹介
 本書のすべての内容を紹介することはできませんので、聖徳太子の時代やその少し後の時代を扱った節を中心に見ていくことにします。今回取り上げるのは、金堂の薬師如来像銘・釈迦三尊像銘・命過幡など、重要な初期の資料を扱った節、

「第三章第六節 初期の法隆寺関係史料」

です。担当は精密・着実な文献考証で知られる東野治之氏。

 まず、いろいろと議論がある薬師如来像の光背銘については、整った楷書であるものの、各行の字数は16~19字と不揃いであり、字画の端々にタガネで刻んだ際のメクレが残ると述べ、文章については、和文を漢字に置き換えた形と評します。

 この銘文は、津田左右吉が本物と見て「天皇」の語の最古の例としたものの、福山敏男が批判した結果、現在は7世紀後半の作と見るのが通説になっています(銘文はともかく、像自体はもう少し早く、7世紀半ばではないかとする三田覚之氏の新説については、このブログで紹介しました。こちら)。

 東野氏は、重病となった用明天皇の遺命を受けて推古天皇と聖徳太子が建立したというのは、7世紀後半の追刻であろうが、丁卯の年、つまり推古15年(607)に造ったという点は、創建に関わる重要な年として伝えられてきたものとして認めて良いとします。これだと、推古9年に斑鳩宮の建設を始め、13年に移住したとする『日本書紀』の記述とも合いますしね。

 銘文が推古天皇を指して「大王天皇」と呼んでいることについては、大王から天皇に移る過渡期の表現とする竹内理三の説もあるものの、東野氏は、宣命では天皇のことを「我皇天皇(わがおおきみすめらみこと)」と称しているため、この「大王天皇」はその別表記と見ればよいと説きます。

 次に釈迦三尊像銘については、14字で14行となっており、しかも例を見ない名筆で行書まじりの楷書で書かれていることに注意します。1行の字数と行数を同じに揃えるのは中国南北朝時代のの墓誌にも例が多いが、日本の古代の金石文でその通りの構成で刻まれたのはこの銘だけであり、しかも四字・六字を基本とする漢文となっており、和文色が濃い薬師像銘とは好対照だと説くのです。

 重要な人物のうち、間人皇女は「鬼前太后」、聖徳太子は「上宮法皇」、膳菩岐岐美郎女は「干食王后」とあって4字で表記されており、太子については「上宮法皇」以外では、「王身」などとすべて「王」で統一して呼ばれていると指摘します。

 膳菩岐岐美郎女(かしわでのほききみのいらつめ)を指す「干食王后」については、伝染病にかかり、「野干(ジャッカル)」に「食」われる地獄の亡者のように苦しんで死んだため、「干食」という諡号/法号がつけられたという九州王朝説信者のトンデモ妄想を前に紹介しました(こちら)。緻密な文献学者である東野氏はそうした悪い冗談は言わず、木簡に着目します。

 つまり、飛鳥の石神遺跡から

  大鳥連淡佐充干食

  □卩白干食

などの記載を持つ衛士ないし仕丁関係の木簡群が発見されており、人名は衛士か仕丁、「干食」はこれと組になって使役される廝(かしわで)を指すと考えられるため、「干食」は「カシワデ」を表記したものであることが明らかになったとするのです。膳氏の「カシワデ」ですね。

 正倉院文書では、廝のことを「干」と記すことが多く、謎だったが、「干食」の省略形であったとすれば納得できるとします。そして、8世紀以前のウジの名の表記には「青衣」と書いて「采女(うねめ)」と読ませるなど、難解なものが多く、しかも木簡に見えるため、実際に使われていたことが分かるが、「干食」は「食に干(かか)わる」ことに源があるかもしれないと推測します。

 「鬼前太后」の「鬼前」についても、これと同様に「ハシヒト」の特異な表記である可能性が高いとしています。

 そして、この銘については、実際に光背を間近で観察したところ、銘が刻まれている部分よりひと回り大きな範囲が他と違ってあらかじめ平坦に仕上げられており、しかも、光背に施された鍍金が裏側にまで飛んでいて銘の部分にまで及んでいるため、光背と一体のものとして作成されたと見るほかないとしています。これらは、以前の論文に基づく記述です。

 となると、「法皇」という記述も認めるほかなく、「王」と「皇」は古代には通じて用いられており、意味の違いはないため、「ノリノミコ」あるいは「ノリノオオキミ」と読まれていたとし、少なくとも晩年にはそのように呼ばれていたと見ます。

 「王」と「皇」は同音であり、「法皇」も「法王」も「ノリノオオキミ」と呼ばれただろうというのは、私も同意見です。ただ、私の場合は、『日本書紀』が掲げる異称の「法主王」に注目し、「法主」は中国では講経に巧みで寺の講経を担当する僧、ないし責任者の僧を指すため、「法王」「法皇」はそうした意味であって、「法王」は釈尊のイメージを投影した場合もあったろうと論じたのですが(こちら)、「法皇」で「皇」の字が使われたのは、やはり天皇に準ずる存在だったから、ということでしょうね。

 次に、三尊像の台座については、扉などの部材を転用したことが早くに知られていたうえ、裏側の墨書が発見され

  辛巳歳八月九月作□□□□

  留保分七段
   書屋一段
   尻官三段 ツ支与三段

と記されていたことで話題になりました。律令制における官司の前段階となる官が成立していたことになりますので。なお、「書屋」というのは、本を作る工房のことです。奈良時代にかけて、寺の内部や外部には「瓦屋」のように、「~屋」と呼ばれる建物が設置されており、それらを造る場所でした。「酒屋」の場合も同様であることは、毎月連載しているお気楽エッセイで触れておきました(こちら)。何しろ私は、酒と仏教の関係の専門家なので。

三尊像と同じ頃の制作であることが明らかになっているため、辛巳は太子が亡くなる前年の推古30年ということになり、これも矛盾しません。東野氏は、三尊像は膳氏が主導したため、この部材を用いた建物は膳氏の建物であったと推測し、三尊像についても、法輪寺など膳氏ゆかりの寺に安置されていた可能性が高いとします。これは、火災の時に持ち出せたか、という問題を解決しうる推測ですね。

 その斑鳩寺の天智9年(670)の火災については、『日本書紀』では天智八年と九年に記されていることが知られています。別の寺の火事、あるいは火災が2度起きたと見る説もありますが、この時期は干支の計算法によって一年のずれがあるのは良くあることであって、東野氏は、同じ事件だとします。壬申の乱の前は、前徴として災異や異常現象の記事が多く記されているため、そうした例として二つの記事があげられたという考えです。

 なお、『補闕記』では火災の後で奴婢の身分の確定が行われたとしていますが、東野氏は、これは天智9年に始めて戸籍作成が行われた庚午年籍に登録するためであろうから、火災の年は天智9年で間違いないとします。

 最後に、法隆寺に寄贈されている命過幡については、『灌頂経』に基づく死者儀礼と関連するものと見る説に賛同し、飽波・山部・大窪など、中小の氏族によって献呈されていることに注意し、女性の供養のためのものが多いのは元は尼寺に寄進されたかとします。

 以上、東野氏の着実な考察を紹介しました。

追記