聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

法隆寺の歴史の集大成:法隆寺編『法隆寺史 上ー古代・中世ー』(4) 若草伽藍は飛鳥寺より多様な系統の技術で造営

2022年06月13日 | 論文・研究書紹介
 順序が前後しますが、今回紹介するのは、考古学者の森郁夫氏が担当した、

「第二章 法隆寺の創建」のうちの「第一節 法隆寺の創建」

です。編纂委員長の鈴木嘉吉氏の「編纂にあたって」によれば、『法隆寺史』の編纂は、百済観音堂新宝藏が完成したことを機に平成11年(1999)に管長交代となり、新管長に就任した大野玄妙師が寺史編纂に熱心に取り組んだ結果、各巻の執筆者も確定し、資料整理の進行状況を相互に確認できる体制が整えられ、企画が進んだ由。

 鈴木氏は、「刊行が大幅に遅れてその間に早くに念校まで目を通した森郁夫氏が逝去される非運も生じた」と(4頁)と述べています。森氏は2013年に75歳で亡くなっておらるため、この第二章第一節は、考古学の大家が晩年に書いた今から10数年以前の原稿であって、新進気鋭の若手研究者による最新の論稿でなないことになりますが、その当時の研究成果を反映したまとまりの良い内容になっていて有益です。

 「1 法隆寺再建・非再建論争」については、良く知られているため、略します。「2 若草伽藍の発掘」では、昭和14年の調査について、建物の基壇部分である掘込地業が南北2箇所で確認されたと述べます。瓦葺きの寺は相当な重量となるため、地面の不均等な沈下を防ぐため、建物の基盤とほぼ同じ範囲を掘り下げ、よく締まる土と入れ替え、少しづつ入れては棒で突いて固めていくのです。

 これを版築と呼びますが、こうした作業により、土層の断面が縞状になります。この掘込地業の跡が南北2箇所で発見され、基壇の大きさが確認されたうえ、金堂のための整地がおこなわれた後に、塔のための整地がおこなわれたこと、つまり金堂を先に建ててから塔の建設を始めたことが明らかになったのです。

 さらに昭和53年度からの防災工事をした際、若草伽藍を造営するにあたっては旧地形を大幅に変え、大規模な整地作業がなされていたことが判明しました。斑鳩宮の西側の外堀と判断される幅3メートルほどの溝も発見されましたので、その西側に斑鳩寺の東側を限る施設があることになりますが、平成19年度におこなわれた東面大垣の解体修理工事で、大垣の下層から3時期にわたる柱穴が検出され、斑鳩寺の北を画する施設と推定されました。

 こうした調査によって、斑鳩寺の寺域は、南北170メートル、東西150メートルと判明したのです。壮大な規模ですね。

 また、平成16年度におこなわれた西院南大門前の発掘調査では、火災を受けたことが明らかな瓦が出土しています。その中には、金堂の屋根に葺かれた手彫り忍冬文軒平瓦、塔の屋根に葺かれた単弁蓮華文軒丸瓦があり、斑鳩寺が火災を受けたことは確実になりました。

 さらに話題になったのは、火災を受けた金堂の壁画(画甎)の断片が多数出土したことです(ちなみに、日本最古の飛鳥寺やその次に建立された豊浦寺では、壁画の破片は発見されておらず、若草伽藍が最初と思われます)。

 さて、先に触れた基壇の調査によって、金堂は東西約22メートル、南北約19メートルと判明したのですが、これは現在の西院伽藍金堂の、東西21.8メートル、南北18.7メートルとほぼ同じであり、同じ規模で再建したことがわかります。

 これは塔についても同様であり、塔の掘り込み基壇の1辺が15.85メーターという大きさは、現在の西院伽藍の五重塔の下成基壇の規模と一致します。

 その西院伽藍金堂は、上成基壇は凝灰岩を用いた壇正積みであり、石材は一枚岩だけでなく、継ぎ足しした石がかなり使われています。そうした石は、焼失した若草伽藍の金堂のものが再利用されたものであり、若草伽藍も基壇は壇正積であったことが推測されると森氏は述べます。

 現在の法隆寺は再建ですが、太子信仰の高まりの中で、できるだけ前身である若草伽藍を受け継ごうとしていたのですね。現在の法隆寺金堂には、年輪測定法によって若草伽藍が焼失するすこし前に伐採されたことがわかる木材が一部で使用された部分もあるのですが、これはそうした木材を利用したということであって、焼失前に造営が始まったことにはなりません。

 さて、森氏は、若草伽藍の瓦について、軒平丸瓦が13種、軒平瓦が22種出土しており、創建時の軒丸瓦は、飛鳥寺の瓦を作るのに用いた瓦当笵が豊浦寺の瓦を作るために用いられ、そこで多少作成された後に蓮子が彫り加えられ、その瓦当笵で若干の瓦が作られた後に、若草伽藍造営工房に移され、そこで創建時の瓦が作成されたと述べます。

 ただ、百済の王興寺を作った工人たちを招いて造営した飛鳥寺では、文様を施した軒平瓦は見つかっておらず、若草伽藍のそうした瓦は、別の系統によるとされています。従来は高句麗系とされてきたのですが、森氏は、七葉や三葉のパルメット(先端が扇状に開いた文様)唐草文は、高句麗の壁画にも、また中国南朝末期か初唐の墓室の画像磚にも見えると指摘します。

 日本では七葉の文様が若草伽藍で用いられ、三葉の文様が渡来系氏族であって仏像作成にも携わった鞍作氏の寺である坂田寺で用いられているとし、系統は不明ながら、若草伽藍には飛鳥寺の造営グループと異なる集団も来て活動したと推測します。

 そして、若草伽藍では手彫りから瓦当笵に変わり段階的に変化していくのに対し、坂田寺では、手彫り唐草文軒平瓦が作られて以後、重弧文軒平瓦が登場するまで軒平瓦は作られていないため、この種の軒平瓦は若草伽藍造営時に考案されたと見るのです。

 なお、飛鳥寺は、推古14年に鞍作止利が作成した本尊が安置された頃は、中心部はほぼ完成していたであろうし、推古17年(609)に百済から漂着した僧俗85人を送り返す際、日本逗留を希望する僧侶10人を飛鳥寺に住まわせているため、その時期には飛鳥寺は整っていただろうから、その数年前、つまり、法隆寺金堂の薬師如来像銘が造営の年とする607年に工事が始まったとしてもおかしくないとします。

 森氏は、蓮弁が六弁であって中央に一条の筋が入っている瓦当文様は、百済では用いられておらず、統一前の新羅の特徴であるため、それとよく似た文様が若草伽藍の瓦に見えるのは、古新羅の技術も入っていた証拠と説きます。

 これと同じ系統の瓦が見えるのは、中宮寺の創建時の瓦です。類例は豊浦寺の瓦にも見え、従来は高句麗系と言われていたのですが、森氏は、高句麗の影響を受けた古新羅の系統と見るのです。

 こうした点について、森氏は、「若草伽藍造営時に多様な技術が導入されていたことを示している」と説いてこの節をしめくくっています。

 以上のように、若草伽藍は壮大な規模の寺であって、百済の技術によって建立された飛鳥寺よりも多様な系統の技術を用いて造営されており、壁画も備えた最新の寺だったのです。

 ところが、虚構説の大山誠一氏は、厩戸王は国政に関わるほどの勢力はなく、斑鳩寺は推古朝に46もあった寺の一つを都から離れた地に建てたにすぎない、といった言い方をしていました。

 しかし、当時の倭国における瓦葺きの本格寺院については、(1)蘇我馬子大臣の飛鳥寺→(2)馬子の姪である推古天皇の宮を改めた豊浦寺→(3)馬子・推古の血縁かつ両者の娘婿であった厩戸皇子の斑鳩寺、という順序で建立されたうえ、斑鳩は都の飛鳥と斜め一直線に結んだ太子道でつながっていました。しかも、寺が46あったというのは、推古朝の最後の頃のことであって、それらの中には仏像を安置した草堂程度のものも含まれていたでしょう。

 大山氏が虚構説を唱え始めた頃は、森氏の上記の論稿の内容のうちの7割くらいは既に明らかになっていました。大山氏の主張は厳密な文献批判に基づくものではなく、考古学の成果を無視し、意図的に厩戸皇子と斑鳩寺の矮小化をねらったものだったのです。