「厩戸王」という呼称は、古代の文献に見えないことがようやく知られるようになってきたため、おそらく教科書から消えるでしょう。また、「憲法十七条」と『勝鬘経義疏』がきわめて類似しており、同じ人物が書いたとしか思われないことは先の発表報告で述べた通りです(こちら)。
先日開催された古事記学会の関西例会では、大阪市立大学の若手研究者、岡田高志氏が、「憲法十七条」と『勝鬘経義疏』には、作者が好んでいるらしい共通の語法がそれぞれ複数回見えることを指摘されました。この言い回しは、『日本書紀』では「憲法十七条」以外の部分には見えないものの、三経義疏では『法華義疏』と『維摩経義疏』にも見えているのです。
いずれ学会誌の『古事記年報』に掲載されるでしょうが、これによって、「憲法十七条」と『勝鬘経義疏』(を含む三経義疏)の作者が同一人物らしいことが、いよいよ確実になってきました。
こうなると、気になるのは、教科書における「憲法十七条」や三経義疏の扱いです。古代史学界の動向では、またそれを反映した教科書では、推古天皇の時代を聖徳太子に重点を置いて説く黒板勝美・坂本太郎の図式が疑われ、聖徳太子は影が薄くなってきていましたが、今後はどうなるか。
「歴史はくりかえす」傾向にありますので、今後の変化を予測するには、過去における聖徳太子評価の変動を見ていく必要があります。その点、興味深いのは、かなり前の論文ですが、
寿福隆人「明治20年代中期の古代史教材の転換ー聖徳太子教材の成立を通してー」
(『日本の教育史学』28号、1985年。PDFは、こちら)
です。
日本大学第一高等学校の教諭であった寿福氏は、江戸末期に「読物」として読まれ、また藩校などで「歴史の教科書」として用いられた岩垣松苗『国史略』(1826年刊)の影響に注意します。この書は、国学者や儒者の太子非難の影響を受けているため、太子は「憲法十七条」では「悪を見たら必ず正せ」と命じておきながら、崇峻天皇を殺害した蘇我馬子を太子は討伐せず、寵愛して用いている、これでは「憲法十七条」は「虚文」にすぎない、といった調子の否定的な論述が目立つのです。寿福氏は、この点について、「悪意にも似た感情」が見られると述べています。
ところが、明治10年(1877)の木村正辞『日本略史』あたりから記述のし方が少し変わり、明治20年(1887)頃の歴史教科書から太子の業績に関する記述が増える由。特に注目されるのは、明治25年(1892)の山県悌三郎編『帝国小史』では、6世紀後半から7世紀前半を太子中心で記述しようとしていることだそうです。
つまり、天皇の事績を中心に年代ごとの事件を並べていくのでなく、「人物史」を基本とするのであって、これが以後の国定教科書につながると説くのです。
一方、明治20年に出された文部省の「小学校用歴史編纂旨意書」(今日の指導要領ですね)に基づいて翌年刊行された神谷由道『高等小学歴史』では、太子を中心とせず、推古朝の事柄を列記しているにとどまるそうです。つまり、この時期までの文部省は、太子重視ではなかったのです。
これが太子重視となるのは、明治21年(1888)の明治憲法、そして明治25年(1892)の「教育勅語」などに見られる天皇観、皇室に対する忠義の強調が影響を与えたものと、寿福氏は説きます。また、明治21年に文部省が出した「修身」と「愛国ノ精神」を強調する「小学校教則大綱」以降、歴史教育が次第に「修身化」しており、こうした要素がからんだ結果、臣民道徳育成に役立つ「聖徳太子教材」が成立していったと見るのです。
ただ、「憲法十七条」は「承詔必謹」を説いているものの、これを国体教育に用いようとする場合、ネックになるのは、「憲法十七条」には「神」が出てこないことでしょう。この点については、太子を国家主義の元祖として礼賛していた戦前・戦中も、苦しい説明がなされていました。
今後の指導要領では、聖徳太子の役割が現在よりは強調されるようになるでしょうが、天照大神の命令による天孫降臨・瑞穂国統治を説く建国神話は、太子よりかなり後になってから、仏教の影響を受けて形成されたことをどう説明するのか。気になるところです。
先日開催された古事記学会の関西例会では、大阪市立大学の若手研究者、岡田高志氏が、「憲法十七条」と『勝鬘経義疏』には、作者が好んでいるらしい共通の語法がそれぞれ複数回見えることを指摘されました。この言い回しは、『日本書紀』では「憲法十七条」以外の部分には見えないものの、三経義疏では『法華義疏』と『維摩経義疏』にも見えているのです。
いずれ学会誌の『古事記年報』に掲載されるでしょうが、これによって、「憲法十七条」と『勝鬘経義疏』(を含む三経義疏)の作者が同一人物らしいことが、いよいよ確実になってきました。
こうなると、気になるのは、教科書における「憲法十七条」や三経義疏の扱いです。古代史学界の動向では、またそれを反映した教科書では、推古天皇の時代を聖徳太子に重点を置いて説く黒板勝美・坂本太郎の図式が疑われ、聖徳太子は影が薄くなってきていましたが、今後はどうなるか。
「歴史はくりかえす」傾向にありますので、今後の変化を予測するには、過去における聖徳太子評価の変動を見ていく必要があります。その点、興味深いのは、かなり前の論文ですが、
寿福隆人「明治20年代中期の古代史教材の転換ー聖徳太子教材の成立を通してー」
(『日本の教育史学』28号、1985年。PDFは、こちら)
です。
日本大学第一高等学校の教諭であった寿福氏は、江戸末期に「読物」として読まれ、また藩校などで「歴史の教科書」として用いられた岩垣松苗『国史略』(1826年刊)の影響に注意します。この書は、国学者や儒者の太子非難の影響を受けているため、太子は「憲法十七条」では「悪を見たら必ず正せ」と命じておきながら、崇峻天皇を殺害した蘇我馬子を太子は討伐せず、寵愛して用いている、これでは「憲法十七条」は「虚文」にすぎない、といった調子の否定的な論述が目立つのです。寿福氏は、この点について、「悪意にも似た感情」が見られると述べています。
ところが、明治10年(1877)の木村正辞『日本略史』あたりから記述のし方が少し変わり、明治20年(1887)頃の歴史教科書から太子の業績に関する記述が増える由。特に注目されるのは、明治25年(1892)の山県悌三郎編『帝国小史』では、6世紀後半から7世紀前半を太子中心で記述しようとしていることだそうです。
つまり、天皇の事績を中心に年代ごとの事件を並べていくのでなく、「人物史」を基本とするのであって、これが以後の国定教科書につながると説くのです。
一方、明治20年に出された文部省の「小学校用歴史編纂旨意書」(今日の指導要領ですね)に基づいて翌年刊行された神谷由道『高等小学歴史』では、太子を中心とせず、推古朝の事柄を列記しているにとどまるそうです。つまり、この時期までの文部省は、太子重視ではなかったのです。
これが太子重視となるのは、明治21年(1888)の明治憲法、そして明治25年(1892)の「教育勅語」などに見られる天皇観、皇室に対する忠義の強調が影響を与えたものと、寿福氏は説きます。また、明治21年に文部省が出した「修身」と「愛国ノ精神」を強調する「小学校教則大綱」以降、歴史教育が次第に「修身化」しており、こうした要素がからんだ結果、臣民道徳育成に役立つ「聖徳太子教材」が成立していったと見るのです。
ただ、「憲法十七条」は「承詔必謹」を説いているものの、これを国体教育に用いようとする場合、ネックになるのは、「憲法十七条」には「神」が出てこないことでしょう。この点については、太子を国家主義の元祖として礼賛していた戦前・戦中も、苦しい説明がなされていました。
今後の指導要領では、聖徳太子の役割が現在よりは強調されるようになるでしょうが、天照大神の命令による天孫降臨・瑞穂国統治を説く建国神話は、太子よりかなり後になってから、仏教の影響を受けて形成されたことをどう説明するのか。気になるところです。