聖徳太子研究の最前線

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中宮寺の半跏思惟像は聖徳太子の面影?:片岡直樹「中宮寺菩薩半跏思惟像と聖徳太子」

2021年08月23日 | 論文・研究書紹介
 物思いにふける中宮寺の半跏思惟像は、古代の仏像の中でもきわだって優美なことで知られています。現在は黒漆の面が出ていて真っ黒ですが、当初は、肉身部は肌色、着衣は朱・緑青・群青・丹などで彩色されており、截金も僅かに残っているため、現在のイメージとは全く異なる華やかな像であったようです。

 この半跏思惟像について、寺伝では如意輪観音としていますが、これは後代の聖徳太子信仰の中で生まれた伝承ですので、弥勒像、それも聖徳太子の面影をしのばせる像であったとする立場で検討し直した最新の論文が、

片岡直樹「中宮寺菩薩半跏思惟像と聖徳太子」
(『奈良美術研究』22号、2021年3月)

です。片岡氏は、大山誠一氏が「長谷寺銅板法華説相図」を長屋王と結びつけたのを批判して氏と論争となり(こちら)、後に研究書を出しています。大山氏が美術史の成果を無視するようになったのは、これが一因でしょう。

 さて、片岡氏は、現在は法隆寺の東隣にある中宮寺の場所から東400メートルほどのところにあって、四天王寺式伽藍配置になっていた元々の中宮寺跡から、斑鳩寺(若草伽藍)の瓦のうち、金堂の瓦と塔の瓦の中間時期の同笵品が出土していることを重視します。

 つまり、中宮寺は、聖徳太子が亡くなるふた月前に亡くなった母后のために遺族が建てた寺ではなく、おそらく太子の存命中に法隆寺と平行して造営が進められた寺と見るのです。

 太子造営の寺とされるのは時代とともに増えていきますが、『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』『上宮聖徳太子法王帝説』では、太子建立の七寺として、法隆寺(斑鳩寺)、広隆寺(蜂丘寺)、法起寺(池後寺、尼寺)、四天王寺、中宮寺(尼寺)、橘寺、葛木寺(尼寺)の七寺があげられており、太子没後に太子の菩提を祈る為に建立された寺もあると考えられていますが、片岡氏は、中宮寺は太子生前に造営が始まっていた可能性が高いとするのですね。

 これが正しい場合は、飛鳥で僧寺である飛鳥寺と尼寺である豊浦寺が間近い距離で建立されたように、斑鳩でも僧寺である斑鳩寺と尼寺である中宮寺をセットとして建立したということになります。尼は僧の管轄下に置かれるため、セットとなる尼寺は僧寺から鍾が聞こえる程度のほどほどの距離に建立されるのが通例であり、奈良時代の国分尼寺も国分僧寺から500メートルほどのところに立てられています。

 ただ、稲垣晋也「聖徳太子建立七箇寺院の創建と成立に関する考古学的考察」(田村圓澄・黄壽永編『半跏思惟像の研究』吉川弘文館、1985年)などは、間人皇后が亡くなった後、皇后の宮を改めて寺としたという『太子伝暦』の記述が最も史実に近いと見ており、私もその説です。この場合、間人皇后がいた宮に瓦を用いた小さな仏殿などが設けられていて、没後に宮全体が寺に改められた可能性が出てきます。

 さて、その中宮寺の半跏思惟像は髮を双髻の形にするのは、玉虫厨子の薩埵太子など法隆寺関係の像に限られています。「尺寸王身」で造られた法隆寺金堂の釈迦三尊像の場合、顔の長さが18.8センチであるのに対し、中宮寺の半跏思惟像では19.2センチでほぼ羡一致することから、松浦正昭氏はこの半跏思惟像は「面長の数値を聖徳太子に合わせて造立された、尺寸王身の弥勒菩薩像」としており、また金子啓明氏は、釈迦像の座高は87.5センチ、半跏思惟像は87.9センチとほぼ等しいため、太子等身の聖像と見ています。

 こうした見方については、太子と釈迦を同一視するのは後代のものとする反論もありますが、片岡氏は、上記の立場で制作年代について検討してゆきます。

 中尊寺像が飛鳥寺の釈迦像や法隆寺金堂の釈迦像に比べて、技術的にすぐれていて後の作であることは明らかですが、片岡氏はこれらの像の目が古代的な杏仁形であるのに対し、中尊寺像のふっくらした目は新羅などの朝鮮仏の影響とし、さらに660年から680年頃の制作と推定される法隆寺の百済観音との類似に注意します。

 そして、木材を組み合わせて釘でとめる作成法などから見て、中尊寺像は持統朝の686年から690年初頭と見るのです。

 髮を双髻に結う例は、中国では東魏(6世紀)の弥勒菩薩の交脚像などが知られているものの、双髻の半跏思惟像は外国では見られないようですが、片岡氏は、双髻は「人間」の姿をあらわす記号であるとして、中尊寺像が金色などでなく肌色で着色されていたことに着目します。

 ただ、中尊寺像は「人間」太子という点を意識してはいるものの、同時に弥勒像なのであって、写実的な肖像としてすぐれている唐招提寺の鑑真和上像や法隆寺夢殿の行信像とは性質が異なるとしています。

 この指摘は重要ですね。聖徳太子を一人の人間とみなすのは、近代になってのことであることは、以前、「「人間聖徳太子」の誕生-戦中から戦後にかけての聖徳太子観の変遷ー 」(こちら)という論文で論じておいた通りです。