聖徳太子研究の最前線

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推古天皇は中継ぎでもお飾りでもない。聖徳太子の時代背景に関する最新の研究:義江明子『推古天皇』(3)

2021年08月11日 | 論文・研究書紹介
 連載の最後です。

 義江氏は触れていませんが、推古が即位できた要因は、即位後の政策と関連しているはずと考えると、仏教もその要因の一つと見て良いかもしれません。推古以後の例となりますが、則天武后が男尊女卑の伝統を破り、歴史上初めて女帝として即位できたのは、弥勒の化身だと宣伝するなど、仏教を利用してのことでした。

 また、新羅初の女性国王となった善徳女王は、後継候補の王子たちが次々亡くなった後に即位したとはいえ、熱心な仏教信者であって、仏教保護に努めていました。

 その仏教について、義江氏は、仏教を導入しようとした蘇我稲目の周辺で推古も馬子も育ったことに注目します。これは推古の兄である用明天皇も同じでしょう。推古は豊浦宮から小墾田宮に移ると、豊浦宮を改め、馬子が建立する僧寺である飛鳥寺と一対となる尼寺、豊浦寺として造営していきます。

 義江氏は、飛鳥寺→豊浦寺→若草伽藍という瓦の系譜から見て、これは「仏法興隆をめぐる馬子・推古・厩戸の密接な協力関係の、物的証しともいえよう」と説き、推古が「朕は蘇何(蘇我氏)より出たり」と述べているのは当然とします。

 推古は即位すると、その蘇我氏の馬子大臣との協調のもとで、まず三宝興隆を打ち出します。諸臣は「各の君父の恩の為に、競いて仏舎を作る」とあるように、寺を建てるのは大王のためでした。補足すると、「恩の為」というのは、いわゆる報恩に加え、造寺造像の功徳によって「君父」のパワーが増大してこちらに及ぶよう願うことを意味します。

 さらに補足すると、上の「競いて仏舎を作る」という記事については、ありえないと考える研究者もいますが、史書というものはこういう書き方をするのが通例であり、一斉に瓦葺きの寺を建立したわけではありません。最初期に瓦ぶきの本格寺院を建立できたのは蘇我本宗家およびその血縁である王族のみであり、ついで蘇我氏の傍系氏族や守屋合戦の際に馬子側で戦った有力氏族と蘇我氏配下の渡来系有力氏族でした。

 これらの氏族や他の豪族たちは、自邸に小さな堂を立てて小さな仏像を祀るくらいのところからスタートし、後になって蘇我氏や国家の技術支援を得て本格的な寺を建立していったものと思われます。

 さて、推古の讃え名である「トヨミケカシケヤヒメ」は、神への奉仕と解釈されていますが、義江氏は、「御食奉献」に象徴される仏法外護者としての推古を称えるものと見ます。これはどうでしょうかね。

 また、受戒のために百済に派遣された3人の尼については、「国家のために奉仕する官人としての側面が濃厚」だとします。これは、『元興寺縁起』では、この件うぃ主導した馬子を「大臣」とか「馬子宿禰」と称さず、「官(つかさ)」と呼んでおり、これは部門の管理者/責任者を「官」と呼ぶ7世紀初め~8世紀初めの用法だと説いているとする田中史生氏の研究を踏まえたものです(「官」に関する田中氏のこの論文は、そのうち紹介します)。

 義江氏は、特定の氏族が個々のそれぞれの役割を担当していた倭国では、蘇我氏が仏教という部門を担当していたのであって、それが推古即位によって仏教尊重は全氏族の義務となり、蘇我氏が主導したと見るのでしょう。

 『隋書』では倭国王は男性とされていることについては、義江氏は「王妻」などの記述は、中国の王権の構造に合わせて倭国の情報を記したものであり、当時の倭国の王が男性だったことを意味しないとします。王もキサキも「キミ」と呼ばれ、王の御子たちが男女を区別せず「ワカミタフリ」と呼ばれていたのは、嫡妻としての「キサキ」や唯一の皇位継承者としての「太子」も未成立だったことを示すと見るのです。

 義江氏のこの本では、仏教に関する記述は全般に簡単であって、『勝鬘経』講経も厩戸皇子の事績であって推古は重要な役割を果たしていないとみなされたのか取り上げられていませんが、私が先日発表して秋に刊行されるように(こちら)、推古は、『勝鬘経』で大乗の法を説いた勝鬘夫人(推古同様、国王夫妻の娘で[隣国の]国王の夫人!)のような女性の在家菩薩とみなされていた可能性がある点は見逃せないでしょう。

 紹介すべきことは多いのですが、ここらでしめくくるに当たり、重要なのは、推古が馬子の葛城割譲を拒んだことが強調されがちであるものの、この本では、推古の蘇我氏意識の強さを強調していることです。

 在位20年となる正月の宴では、蘇我氏の大王奉仕の伝統を強調する馬子と歌を歌いかわしているうえ、翌月には、推古の母で馬子の妹である堅塩媛を、父天皇である欽明の桧隅大陵に合葬して大がかりな儀礼をやり、堅塩媛こそが欽明のキサキの第一位であることを天下に示しているのもその一例とされています。

 これは馬子との共同作業であることを強調する義江氏は、欽明と蘇我稲目を始祖とする推古から見て、稲目の墓を「陵」と称することはありえたとまで説くのです。

 この改葬の意義はその通りでしょうが、この件に関する『日本書紀』の記述では、馬子の弟と推定され、山背大兄を後援して殺されることになる境部摩理勢が蘇我氏の「氏姓の本」を述べるなど、多くの者が誄を言上するなどしているのに、厩戸皇子の名がまったく見られないのが、私には気になります。

 推古中心で厩戸については敢えてあまり触れないという方針は分かりますが、当時の権力順位や山背大兄の後継者問題にも関わりますので、もう少し厩戸についても触れておいてほしかったところです。

 それはともかく、最後の部分で、義江氏は推古の遺詔とされるものを検討します。本書の副題となっているほど重視している問題ですね。まず、法隆寺金堂の釈迦三尊像銘が記す「王后王子等」は、上宮王の後継者たる舂米(上宮大娘)とその夫の山背大兄を指すとします。

 これは無理ですしょう。銘文では、太子と母后と「干食王后」を「三主」として来世でもその来世でもお仕えして仏教紹隆に努めることを誓っているのですから、その母后の娘であってプライドの高い舂米、また蘇我馬子大臣の娘を母としていた山背大兄が、自分の母をさしおいて、斑鳩地方の豪族の娘にすぎない「干食王后」を「主」として仕えることは考えにくい。

 義江氏は、推古と馬子の王位継承プランが次第に別方向になっていったとし、また大王にせよ氏族長にせよ嫡子相続ではなく、兄弟が年齢順に相続していくことが多かった時代において、蘇我氏については、稲目→馬子→蝦夷→入鹿と長子相続が続き、蘇我氏内部での不満が高まっていたことに注意します。これは重要な指摘ですね。

 そうした状況のもとで、死を間近にした推古の後継者問題が起きるわけですが、それまでは群臣が推挙して決定していたのに、この場合は、候補であった田村皇子(舒明天皇)と山背大兄に対する推古の遺詔、それも曖昧な遺詔が後継者決定の根拠とされ、「遺命に従うのみ。群言を待つべからず」という発言までなされたことに『日本書紀』ではなっています。

 蝦夷が支持する田村皇子を推して蘇我系王権が存続することを願いつつ、蘇我の血が濃い山背にもその後のチャンスがあるから自制せよ、というのが推古の思いであったろうと義江氏は推測します。いずれにしても、即位して36年間、実績を積み重ねてきた推古の言葉は、そうした重みを持つに至っていたと義江氏は説くのです。

 ただ、この件に関する推古の言葉は怪しいものですし、『日本書紀』でも、推古が後継者に関して群臣相手に公的に発言した言葉とはされていないのですから、「遺詔」と呼んで良いかどうか。

 ただ、いずれにせよ、群臣の協議で決めるのが通例であった王の後継者推挙にまで、女性の推古の発言が影響を及ぼすようになったこと、少なくとも『日本書紀』はそうみなしていることは重要でしょう。

 義江氏は、推古を単なる中継ぎ・お飾りと見るのではなく、大王としてふさわしい存在と認められて即位し、長い期間統治して実績をあげ、その発言が従来の大王に認められていた以外の事柄にまで影響を及ぼすようになった存在、王権の確立者として描くのです。

 義江氏のこの本の内容は豊富であるため、その一部しか紹介できませんでした。この連載記事でも、いくつかの点については疑問を示しましたが、他の研究者からも様々な異論が出てくるでしょう。ただ、本書は、推古の背景と実態を検討し、推古朝のあり方をこれまで以上に明らかにしていますので、聖徳太子研究にとっては有益かつ必読の本であることは疑いありません。

 最後に要望も記しておきましょう。義江氏のこの力作によって、推古のイメージはかなり変わりました。単なる中継ぎでもお飾りでもなかったことは確かでしょう。ただ、重要なのは、隋の動向などをどの程度理解していたか、その前提となる漢文の文献を読む能力はどの程度のものだったか、という点です。

 父方・母方とも蘇我氏の血を引いている初めての大王候補者であり、百済の文化の導入に力をい入れていた馬子大臣の娘婿ともなる厩戸は、若い頃から百済や高句麗から来た学者や学僧に習うことができましたが、推古のそうした教養はどの程度のものだったか。

 『楽毅論』を書写している光明皇后のような教育を受けていたのでしょうか。仏教経典をどの程度読むことができたのか。これは、推古天皇について考える際、重要な問題です。