聖徳太子研究の最前線

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聖徳太子の事績を疑う見方は今後も必要:谷中信一「新出土資料の発見と疑古主義の行方」

2021年08月27日 | 論文・研究書紹介
 私は大山誠一氏の聖徳太子虚構説を批判してきましたが、それは太子の事績を疑う研究を否定するものではありません。実際、このブログでは「憲法十七条」と『三経義疏』を疑った津田左右吉に関するコーナーと、その津田の影響を受け、『三経義疏』を疑った小倉豊文のコーナーを設け、その研究者としての姿勢を尊重しているほどです。

 逆に太子礼賛派の花山信勝などについては、三経義疏に関する文献的な研究は高く評価するものの、戦前・戦時中は文部省に依頼されて国家主義的な太子礼賛本を次々に出し、終戦の詔勅を聞いた途端に、近代日本は武に走りすぎた、これからは武でなく文の時代であってその手本は聖徳太子だ、としてその立場で『勝鬘経義疏』注釈を書き始めるなど、常に時流に乗った太子礼賛をする点について、論文で批判的に扱っています。

 私が大山説を批判したのは、先行研究を尊重せず、事実誤認や空想に基づく強引な主張が目立ち、批判も多かったにもかかわらず、説得力のある批判すらまったく無視し、「学問的な批判は一切ない」などと断言し続け、新奇な話題を好むマスコミにとりあげられて社会的に影響を与えるに至ったためです。

 私は、典拠と語法の調査に基づく厳密な文献研究の結果、「憲法十七条」と『勝鬘経義疏』(『勝鬘経』講経)は同一人物の作であって、聖徳太子の作と見てよく、それと連動する遣隋使も太子の主導と見てよいという結論に至りました(こちら)。

 その点では、『日本書紀』や『法王帝説』の記述の重要部分を史実と認めることになりますし、聖徳太子の神格化は生前からあって次第に強まっていったと考えていますが、太子関連文献の様々な記述をすべて信じ、無暗に礼賛を、それも国家主義的な立場からの礼賛をつらねると、戦前の国家主義体制下における状況と同じになってしまいます。

 下の写真は、「承詔必謹」「背私向公」という「憲法十七条」の「御精神」を戦時下の「(東京)市民の指導教材」とするため、大政翼賛会東京支部が昭和18年2月に作成したものです。むろん、花山信勝も訓読に協力しています。



 そこで想起されるのが、中国における疑古派と信古派の対立です。中国では近代になって古代に関する批判的な研究が進むにつれ、多くの伝説が否定され、著名な文献の成立年代を引き下げるようになりました。こうした立場の研究者は疑古派と呼ばれます。これに反対し、伝承をそのまま事実と認める立場の研究者たちが信古派です。

 ところが、20世紀後半からは、疑古派の見解が否定され、文献に書かれたことを史実と受け止めて思想史研究をする動きが盛んになってきました。行きすぎと思われるような主張も目立ってきています。中国のそうした傾向を現地で見聞きし、違和感を感じたことについて述べた論文が、かなり前になりますが出ています。こちらです。

谷中信一「新出土資料の発見と擬古主義の行方」
(『中国出土資料研究』第2号、1998年3月。PDFは、こちら

 谷中さんは、津田左右吉を祖と仰ぐ早稲田の東洋哲学研究室の出身の古代中国思想研究者であって、私のちょっと上になる登山好きの先輩です。

 谷中さんは、疑古的な津田の学風で鍛えられてきたため、上の論文では、近年の中国の学者が、これまで後代の作とされてきた文献や偽書とされてきた文献をそのまま信用して使うことが増えた傾向に対し、「厳密な文献考証の伝統はどこにへいったのかという苦々しい思いもある」としたうえで、このようになった風潮について検討していきます。

 その第一の要因は、古代の有力者の墓などの発掘が進み、出てきた竹簡や木簡などに記されていた事柄が、予想外に伝承に一致する場合が多かったことです。このため、疑古派の旗色が悪くなり、信古派の研究者が増えていきました。

 その傾向を促進したのが、中国の文化ナショナリズムの台頭です。どこの国でも、自国の物事の起源を古い時代にもっていって誇りがちですが、中華意識が強く、実際に悠久の歴史を誇る中国の場合、西洋列強や日本に押さえつけられいた屈辱的な時期から脱し、国力が増してくるにつれて、それが行き過ぎがちになるのは当然でしょう。

 谷中さんは、伝説とされていた古代の夏王朝などが実在したことを解明する国家プロジェクトが1996年に発足したことを紹介し、その基本理念である「走出疑古時代(疑古の時代からの脱却)」が国家的スローガンになりつつあると述べています。中国の史書の元祖である司馬遷の『史記』では、紀元前841年から始めていますが、それをなんと、紀元前2000年までに遡らせて中国の歴史の始原としようというのです。

 谷中さんは、「疑古」というのは「信ずべき合理的根拠がない限り疑うべきである」ということだと考えてきたが、「走出疑古時代」の場合は、「疑うべき合理的根拠が現れない限り信ずべきである」とするようだと説きます。

 そして、中国の近代的な史学は、顧頡剛などが雑誌『古史弁』を1926年に創刊したことがきっかけですが、日本の中国学の重鎮だった金谷治先生は「疑古の歴史」(『武内義雄全集』月報連載)において、疑古の系譜はもっと古いのであって、司馬遷の「実証的事実主義」に基づくと説いていることを紹介します。
 
 私は助手時代に中国学会理事長だった金谷先生の指示のもとで学会大会を補佐する機会があり、その明快な判断ぶりに感心しましたが、谷中さんの引用によれば、金谷先生は上の考察において、中国の学界の疑古離れを批判し、

疑古で疑いすぎたからといって、すっかりそれを無視して伝説の世界に戻るのでは、その成果は別としても、科学的な態度とはいえないであろう。新しい思想史的研究あるいは哲学研究は、実証的な疑古の成果をふまえて、疑古とあわせて進められなければならない。

と説いており、まったく同感です。

 谷中さんは、疑古派の研究を否定する中国の学者から、「あなたは極めて深刻な疑古中毒にかかっている」から『走出疑古新時代』をぜひ読みなさいと勧められたそうですが、疑古派は考古学や社会科学を無視したように述べているのは誤りであると批判します。

 そして、新出の出土資料から見て、これまでの疑古派の説が否定され、その時代が終わったことを認めつつ、「行きすぎた疑古派を否定した後、新たに現れたのが、かつて一度否定された信古であったなどいうことがあってはならない」とする金谷先生の見解に賛同します。

 それは、実物を前にして詳細に検討すれば、疑古主義と信古主義の対立など入り込む余地はないはずだ、という理由からです。聖徳太子研究も同じですね。私は信古派ではなく、疑古派をさらに進めた「疑『擬古派』派」なのであって、その立場での研究の結果、たまたま信古派の主張と一致した部分があっただけと考えています。