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裴世清は煬帝が喜ぶような嘘の報告をした?:苗壮「裴世清の派遣と『隋書・倭国伝』の偽造」

2021年08月01日 | 論文・研究書紹介
 前々回の記事で遣隋使の小野妹子をとりあげましたので、その答使として日本に派遣された裴世清に関して中国側の視点から論じた最近の論文を紹介しましょう。

苗壮「裴世清の派遣と『隋書・倭国伝』の偽造」
(『東京大学中国語中国文学研究室紀要』23号、 2020年11月)

です。

 苗壮氏は、北京語言大で学位を得て母校である遼寧大学の教員となり、その日本研究所でも指導している若手研究者です。中国の古典文学や日本の中国学その他を専門としており、東京大学人文社会系の外国人研究員として来日していました。早稲田のシンポジウムで「海外の中国学からみた津田左右吉研究」という発表をしたこともありますが、日本古代史の専門家ではありません。

 この論文については、概要が付されていますので、それを掲げておきましょう。

裴世清が倭国に使者として派遣されたことは、中日文化交流史における重大な事件であるが、『隋書・倭国伝』の中には、相当奇怪かつ長期にわたり合理的に解釈できないでいる問題が存在している。日本史上では、当時の倭王は推古天皇である。推古天皇は女帝であり、裴世清は倭王と面会しているが、倭王が女性であるなら、非常に重要な外交情報であるにも関わらず、『倭国伝』には、一切言及がない。本論では、裴世清出使の具体的な儀礼の考察から始め、推古朝の礼制改革によって倭王の絶対的権威が強化され、裴世清の出使において、倭王との会見の機会はまったくなかったことを提示する。とするならば、『倭国伝』の裴世清と倭王の面会の場面は、裴世清が捏造した可能性がある。

以上です。

 「相当奇怪」というのは、女帝問題などだけでなく、『日本書紀』推古紀によれば、裴世清は宮殿の庭で国書を持って「両度再拝」したと記されていることなどです。中国の場合、隋の典礼に基づいて初唐に定められた『貞観礼』と『顕慶礼』を改訂して732年に作成された『開元礼』によれば、外国の使者は朝廷において国書を持って皇帝を礼拝する必要はなく、また唐代以前に「両度再拝」つまり、四拝はおこなわれていないことを理由としています。

 また、推古18年に来訪した新羅使の場合、大臣の馬子に国書を奉呈したという違いはあるもの、新羅使は再拝するにとどまっていることも注目されるとします。そもそも、『日本書紀』の記述を見る限り、裴世清は常に「庭中」におり、倭王と直接会見することはありませんでした。

 ところが、『隋書』の倭国伝では、良く知られているように、倭王は斐世清と会見し、「自分は夷人であって海の端におり、礼儀を聞いていない」と述べ、礼儀の国である大国隋の「維新の化」を聞きたいと語ったため、斐世清は「皇帝の徳は天地を合わせたほどであり、その恩沢は四海に満ち流れている。倭王がその化を慕ったため、使節を送って宣諭させるのである」と答えたことになっています。

 これだと、倭王は男性であって裴世清と話していることになるため、諸説があるわけです。

 苗氏は、裴世清は四拝はしていないだろうが、貞観5年(631)に唐使としてやってきたものの、倭国の王子と礼を争い「朝命を宣べずして還」った高表仁と違い、若くて官位も低く如才がないため、中国の使者としては屈辱的な倭国の礼儀にしたがって国書を奉呈し、役目を果たしたと見ます。

 ただ、倭王と直接会って宣諭することはできなかったため、それを隠して煬帝が喜ぶような朝貢国からの応対を受けたと報告したと推定するのです。

 さて、いかがなものでしょうかね。遣使は裴世清だけでなく、ともに来た副使も宮中に同道したでしょうし、隋の側の通訳もいたかもしれません。隋の使節である自分がいかに尊重されて歓待されたか、倭国王がいかに大国の隋とその皇帝である煬帝を尊重していたかなどについて、中国流に誇張した形で報告したり、あるいはまずい面は曖昧に書くことはできても、まったくデタラメの会見記を捏造するというのは無理そうに思われます。

 裴世清の身分は低いですし、そもそも倭国王は外国の使節と対面する伝統がないことが知られていますが、隋としては遣隋使に対する答礼というより訓戒するつもりで使節を送っているのですから、裴世清は倭国王の代行者ないし倭国側の外交責任者と会見するなどの形で倭国側に宣諭の意を伝え、何らかの形でそれなりの回答を引き出し、それを倭国王自身の対応として中国流に表現したことも考えられないことではありません。

 長い滞在期間のうち、国書奉呈の場以外に隋使と倭国側とのやりとりがまったくなされないというのは考えにくいでしょう。慰労の宴などでは、外交担当者から倭国の建て前より柔軟な発言がなされる可能性もあります。裴世清がそうした内容を盛り込んだうえで誇張した訪倭報告をまとめ、それが間接的に(年代などについて多少の混乱をともないつつ)『隋書』で利用されたという方が、全くの捏造説よりはありえそうに思われます。

 ただ、中国における皇帝と外国の使者の対面儀礼を調査し、それを日本側の記述と比較するというのは、有意義な検討法です。

 なお、『隋書』の信頼性については、以前、このブログで榎本淳一氏の論文をとりあげて紹介したことがあります(こちら)が、外交における君主号という視点から遣隋使問題を詳細に検討した河内春人氏の研究に触れていなかっため、次回はその本にしましょう。