聖徳太子研究の最前線

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推古天皇は中継ぎでもお飾りでもない。聖徳太子の時代背景に関する最新の研究:義江明子『推古天皇』(2)

2021年08月09日 | 論文・研究書紹介
 前回の続きです。

 義江氏は、世襲王権を支えた要件の一つとして近親結婚を指摘するものの、それはこの時期の王権だけの現象ではないと説きます。大伴氏や藤原氏といった有力氏族でも、国家体制が整う七世紀から八世紀にかけて近親結婚が増えており、藤原氏の場合、権勢を振るった不比等の四人の子がそれぞれ上級官人になると、今度は四人それぞれの「家」内部での近親婚をおこない始めているからです。

 この指摘は、厩戸皇子の子として異母兄妹(姉弟?)同士で結婚した山背大兄一家滅亡の悲劇は、王権対蘇我氏の対立ではなく、王族内部の対立、および蘇我氏内部の対立を背景にしていたことを思い起こさせますね。

 さて、今回の記事では、即位前の推古については義江氏の呼び方にならって「額田部」、即位後については「推古天皇」「推古」と呼び、『日本書紀』の記事に触れる際は記事通りに「炊屋姫尊」などと呼ぶことにします。

 義江氏は、古代においては首長となるのは、卑弥呼が示すように男女様々であったものの、倭の五王の時代は戦争が続いたため、軍事指導者としての男性が大王となることが続いたと述べる一方で、倭国では大王の子を男女ともに「王(みこ)」などと呼ぶ時代が長く続いていたことに注意します。

 そして、大后としての推古の位置については、敏達6年に推古のために「私部(きさいべ)」が設置されたことを重視します。大后以外のキサキについても「私部」は設置されたようですが、それまでは、額田部氏が養育したため額田部と呼ばれたことが示すように、特定の氏族が大王の子たちの養育を担当しました。しかし、国家の公的な養育制度が確立することによってキサキの地位が高まり、王権と密着した氏族の勢力も安定して増大していったと見るのです。

 そして、推古15年に「壬生部(みぶべ、乳部)」が厩戸のために設置され、厩戸の没後は娘の舂米(上宮大娘姫王)が管理していたらしいことが示すように、有力な皇子にも家産が与えられ、男女に関係なく子に受け継がれたことに注意します。こうしたことが、前回の記事で紹介したような近親婚の背景です。

 さて、『日本書紀』によれば、敏達天皇が亡くなると、欽明天皇と蘇我稲目の娘の小姉君との間に生まれ、敏達の後継となろうとした穴穂部皇子が、敏達天皇の殯宮に侵入して殯宮に奉仕していた額田部を「姧」そうとし、欽明の寵臣である三輪君逆が拒んで入れなかったため、騒動となります。これについて義江氏は、額田部の合意があれば近親婚となり、穴穂部が蘇我氏系の皇子たちを率いる立場に立った可能性があるとします。

 実際には、穴穂部ではなく、穴穂部の兄である用明が即位しますが、その用明天皇は即位1年半ほどで病没すると、磐余に葬られ、推古元年に磯長の方墳に改葬されます。注目すべきは、どこかに仮葬されていた敏達天皇も、「炊屋姫尊と群臣」の推挙によって穴穂部が即位して崇峻天皇となった後の崇峻4年に、磯長谷最古の前方後円墳である石姫の墓に追葬されていることです。
 
 義江氏は、非蘇我氏系である石姫の磯長の墓に非蘇我氏系の敏達天皇を追葬し、その磯長の地に、蘇我氏系である用明の墓を造ったこと、それも馬子以後の蘇我氏長と共通する方墳で造ったのは、額田部と馬子の明確な方針に基づくことを示すものとします。こうした動きは、非蘇我氏系を婚姻によって蘇我氏に取り込んでいく方針と一致していると見るのです。

 その額田部は次第に発言力を増していきます。穴穂部の誅殺は敏達の皇后である「炊屋姫尊」の「詔」を奉じたものですし、崇峻天皇の即位は「炊屋姫尊と群臣」の推挙によるものとされています。

 義江氏は、穴穂部誅滅を命じることができた額田部が即位せず、穴穂部の弟である崇峻を即位させたのは、女帝の即位をはばむ要因があったためであって、それは倭の五王以来の軍事王の伝統だったと見ます。

 推古以後は、8紀後半まで8代6人の女帝が断続的に即位しており、男帝は6人であって男女は半々です。それが可能になったのは、家産としての「ヤケ(宮)」を持ち、そこに仕える中小豪族たちと密接な関係を結び、統率者としての能力を発揮し、大兄ないしキサキの立場を活用して有力豪族と連携を固めることができた者が大王になることができたためであり、額田部は女性の身でまさにそうした一人となったと義江氏は説きます。

 そして、崇峻天皇殺害は、馬子の横暴ではなく、足かけ5年にわたる治世を見て来た群臣たちが見放した結果であり、この時点でようやく額田部が上記の諸条件を満たすと認められ、推挙されて即位したのだと説きます。

 こうした説き方を見てくると、義江氏が推古を皇女・皇后としての身分、蘇我氏などの氏族とのつながり、豊かな資産などを背景とし、判断力・決断力を備えたしたたかな政治家としてとらえ、また推古がそうした資質を生かせる時代状況となったと見ていることが良くわかります。