聖徳太子研究の最前線

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推古天皇は中継ぎでもお飾りでもない。聖徳太子の時代背景に関する最新の研究:義江明子『推古天皇』(1)

2021年08月07日 | 論文・研究書紹介
 日本初の女帝である推古天皇については、欽明天皇の皇子たちが次々亡くなった状況下で、敏達天皇と推古皇后の子であって推古が愛していた竹田皇子が即位するまでの中継ぎと見る説や、即位したものの宗教的な祭祀などが主であって、政治・外交の実務は大臣の蘇我馬子や厩戸皇子が主導したとする見方もありました。

 そのような見解を批判してこの時代に女帝が誕生した理由を探り、社会状況そのものの変化と推古個人の資質に着目したのが、昨年出たばかりの、

義江明子『推古天皇:遺命に従うのみ 群言を待つべからず』
(ミネルヴァ書房、2020年)

です。

 推古天皇を題名とした本としては、中村修也『女帝推古と聖徳太子』 (光文社新書、2004年)などが僅かに出ているだけです、しかも中村氏のこの新書本は想像の部分が多く、古代小説に近い面があるため、推古だけを題名とした学術的な単著が刊行されるのは、今回の義江氏の本が初めてですね。

 父方母方の双系系譜を初めとする古代の女性の地位や女帝の研究などで知られる義江氏ですが、同書の「あとがき」によれば、推古天皇に親しみを覚えたのは、山岸涼子の漫画『日出処の天子』であった由。

 主人公の厩戸にはあまり興味を惹かれず、「貫禄たっぷりの中年の推古が、練達の政治家として叔父馬子とやりあい駆け引きをめぐらす姿」に惹きつけられたそうです。実は、今回の本もそうなっており、厩戸の影は薄いです……。

 義江氏は、倭王は世襲制になったものの、継承順位が明確に定まっていたわけではなく、「血統的条件を備え、群臣(倭政権を構成する有力豪族たち)の支持を得た皇子」が倭王となることができたこと、即位の平均年齢は40歳以上だったらしいこと、そして蘇我氏の血を引く推古は、大臣となる蘇我馬子とともに近い環境で仏教尊重の状況下で育ったらしく、馬子は叔父ではあるもの年齢は近かったのであって、むしろ同志のような関係であったことなどに注意します。

 つまり、「王権の強化と蘇我氏の繁栄は、何ら矛盾するものではなかった」のです。この点は、私も30年近く強調してきたことですので同感です。

 義江氏は、以上のような観点から、これまで大臣馬子と厩戸皇子の働きとされてきた事績を見直し、推古の意義を見直そうとします。

 まず、七世紀以前の倭国については、実力で有力首長たちに認められた者が首長連合の盟主、すなわち「治天下大王」の座につき、中国に遣使して「倭王(倭国王)」の称号を得て立場を確立したとします。ところが、継体天皇以後は王の世襲化が進み、特に推古が36年もその位置にあったため、王権が確立されたと見るのであって、推古を画期的な存在とするのです。

 その世襲化が進んだ原因は、継体天皇の皇子である欽明天皇の系統の皇族たちの近親結婚であり、蘇我氏も大伴氏も自らの氏の血を引く皇子を大王に擁立することによって勢力を拡大させようとしたのであって、とりわけ蘇我氏の婚姻政策が顕著であり、推古はまさにその例であるとします。

 欽明天皇と先帝の皇女とされる石姫との間に生まれたのが敏達天皇、欽明天皇と蘇我稲目の娘である堅塩媛との間に生まれたのが用明と推古、欽明天皇と同じく稲目の娘である小姉君との間に生まれたのが間人、穴穂部、崇峻であって、崇峻は稲目の長子である馬子の娘、河上娘と結婚しています。

 このうち、異母兄弟同士であるものの蘇我氏系でない敏達と蘇我氏系の推古が結婚して竹田皇子が生まれ、同じく異母兄弟、しかもともに稲目の娘たちと欽明の間に生まれた子であって蘇我氏との結びつきが強い用明と間人が結婚し、母方だけではなく、父方母方とも蘇我氏の血を引く最初の皇子である厩戸が生まれます。

 敏達と皇族である広姫との間に生まれた彦人皇子は非蘇我系ですが、蘇我氏と非蘇我氏系をつなぐ重要な位置にあった推古は、自分と敏達天皇との間に生まれた皇女たちのうち二人もこの非蘇我系の彦人皇子と結婚させます。そして、長女であった貝蛸については、父方・母方とも蘇我系である甥の厩戸と結婚させ、貝蛸が子を生まずに亡くなると(推定です)、孫娘を晩年に近い厩戸と結婚させます。

 つまり、自らの出身母体である蘇我氏を重視しながら、非蘇我系の有力な皇子であった彦人皇子のことも充分配慮しつつ、次世代以降に蘇我氏系である自らの血脈をつなげようとしたと義江氏は見るのであって、推古をそのような判断・行動をする人物としてとらえるのです。

 蘇我氏の血筋という点では、厩戸の母である間人は、異母兄である夫の用明が亡くなると、用明と蘇我稲目の娘である石寸名の間に生まれた田目と結婚しています。つまり、厩戸の異母兄となる義理の息子と結婚していることに驚かされがちであるものの、間人と田目は、稲目の孫という点では「同世代のイトコ」ということになります。つまり、間人は蘇我氏内部を固める近親婚をしたことになると、義江氏は指摘するのです。そういう見方はこれまで気づきませんでした。

 その間人は、推古のような政治的な動きをしていません。蘇我氏の血を引く皇女という点は同じでも、推古は間人とはまったくタイプが違う点に、義江氏は注目するのです。
 
 このように、従来の研究には見られなかった視点からの意外な指摘が多いため、次回も同書の紹介を続けます。