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外交交渉で用いた「天子」号こそが画期的だった:河内春人『日本古代君主号の研究』

2021年08月04日 | 論文・研究書紹介
 『日本書紀』の推古紀については議論百出状態が続いていますが、中でも厄介な問題の一つが、「天子」「天皇」を初めとする君主号の問題です。この問題に取り組み、研究史を整理したうえでいろいろな面から考察を加え、評価されたのが、

河内春人『日本古代君主号の研究ー倭国王・天子・天皇ー』
(八木書店、2015年)

です。

 河内氏は、「あとがき」では、自分が認識する「正しい」名前と他人が考える名前は違うとし、対外関係においてどう名乗るか、どう呼ばれるか、相手国向けと国内向けでどう異なるのかなどについて本書で検討したと述べています。

 これは、氏の名である「河内春人」は「こうち・はるひと」であるものの、そう呼ばれることは極めて稀であって、「かわち」「はると」と呼ぶ人がほとんどであり、面倒くさいので「かわちさん」と呼ばれても返事するようにしているという状況が研究のきっかけとなっている由。

 これは分かります。我々が中国と共同で国際シンポジウムを開く場合、国内では「日中国際シンポジウム」、中国では「中日国際シンポジウム」と称するなどと事前に取り決めておいても、報告をコピーしたりするうちに、国内でも「中日~」の形の表現が流れたりします。

 また、日本の研究者がそのシンポジウムについて報告した文章を中国の学者が紹介する際、「日中~」となっているその日本人研究者の報告の題名を「中日~」と変えて訳したり、逆に、日本側の題名にひっぱられて自分の本文でもつい「日中~」などと書いたりすることがあるほか、参加したいずれの国の研究者にしても、かなり後になって記憶で書いたりすると、微妙に違った表現になったりします。また聞きであれば、なおのことです。こうした状況は、推古朝期でも『日本書紀』編纂期でも同様でしょう。

 さて、本書のうち、聖徳太子に直接関わるのは、「第二部 古代天皇制への道程」のうち「第四章 推古朝における君主号の定立」です。本章では、遣隋使の研究史を検討することから始めます。

 遣隋使については、3回説から6回説まであります。3回とする説には、文帝に呆れられて訓戒された開皇20年(600)の遣隋使については大和朝廷ではなく、「西の辺なるもののしわざ」とする本居宣長の説も影響を及ぼしており、これは『隋書』よりも『日本書紀』を重視する姿勢と結びついています。

 戦後になると、『隋書』の記述を重視する研究が増してくるのですが、それでも、開皇20年の遣使は聖徳太子による国情視察のための非公式の派遣と見る坂本太郎説なども出されています(坂本氏は、後に九州・山陽あたりの豪族の私的な派遣と説を改めました)。そうした状況が変わっていくのは、『隋書』以外の中国文献が注目されるようになったためです。

 唐の貞元17年(801年)に完成した『通典』では、大業3年(607)の「日出処天子」の国書を開皇20年のこととするなど、中国側の資料にも年代にずれがあるほか、『隋書』倭国伝には見えないものの『通典』と顕慶5年(660)成立の類書である『翰苑』では、倭国の君主号について「華には天児と言う(華言天児)」と述べていることなども注目されるようになってきました。

 こうして議論が深まった結果、『通典』は参照した諸資料間の調整が不十分であるとされたのですが、河内氏は、『隋書』についても同様のことが言えるとします。また、このブログでもとりあげた榎本淳一氏が、斐世清に関する箇所は、当事者である斐世清の主観や作為の可能性を考慮すべきだとしている点に賛同します。この見方を極端にしたのが、前回紹介した苗壮氏の斐世清捏造説ですね。

 細かい論証の紹介は省きますが、そうした状況である以上、史料上の矛盾について、「この年の記述とこの年の記述は同一の遣使」などと無理に解釈するのは危険であるため、遣隋使の回数はとりあえず5回とし、消極的には6回もありうるという形で検討するとします。

 そこで取り上げられるのが、「東天皇」国書です。大業3年の「日出処天子」国書が煬帝の不興をまねいたため、翌年の倭国の国書では「天子」の号は避けて「天皇」を用いたと見る研究者が増えていますが、こうした見方は推古朝の対外交渉の過程で「天皇」の語が生まれたと見るものです。

 ところが、河内氏は、対外的には臣従、国内向けは対等というダブルスタンダードを用いたという解釈もありうるとしつつも、斐世清が役目を果たしたとしている以上、それに応えた倭国の国書は「倭王」ないしそれに類した君主号を用いたはずとします。つまり、「東大王敬問西皇帝」か、それに近い表記であったのであって、『日本書紀』がそれを潤色して「東天皇」と記したのではないかと見るのです。

 河内氏の主張で重要なのは、「天皇」以前では「大王」が倭国の君主号であったとされることが多いものの、「大王(おおきみ)」という呼称は古代にあっては国王以外の貴人にも用いられており、それが国王を意味するのは、「治天下大王」と限定される場合だとしている点です。「天下」がつけば、中国の皇帝に近いものとなるのです。

 つまり、倭国には一語で統一的な国王を意味する漢語表現はなかったのであって、煬帝の怒りを招いた「天子」の語こそが、初めて漢字でそうした立場を示したものであり、推古朝期に外交交渉の場面で用いられた点が重要だというのが、河内氏の主張です。

 河内氏はこの章では参照しているだけですが、同氏の「遣隋使の「致書」国書と仏教」(気賀澤保規編『遣隋使がみた風景』、八木書店、2012年)では、この「天子」は中国皇帝と同じ意味ではなく、数ある仏教的君主の一人という意味で使ったとも述べていました。

 すると問題になるのは、「天皇」の語が用いられている「天寿国繍帳銘」です。これについては、河内氏は、推古朝に原形があったとしても、現在の繍帳銘は後代のものであって、「王」を「皇」に変えるような変更をこうむっていると見ます。

 また、河内氏の指摘で興味深いのは、倭国の国書では実名を名乗った形跡がないという点です。これは、『隋書』巻84に見える突厥の国書、つまり、「天子」と名乗って「致書」形式で隋に送った国書とも違う点です。

 ただ、河内氏は、「東天皇」国書では「敬白」という仏教関連文献で良く用いられる表現を使っていることに注意し、結論では推古朝は最新文化である仏教をイデオロギーとしたと述べ、仏教外交の実状を明らかにした河上麻由子さんの著書も注であげているのですから、もう少し仏教を考慮してもらいたかったですね。

 このブログで何度も触れているように、森田悌氏は『天皇号と須彌山』(岩田書店、1999年)や『推古朝と聖徳太子』(同、2005年)などにおいて、「天皇」は仏教で用いられる呉音で「てんのう(てんわう)」と発音されているのに対し、律令制下で規定された「皇后・皇太子」などは漢音で「こうごう・こうたいし」と発音されてきたことに注意し、天皇の語は推古朝期における仏教重視の状況の中で考えるべきことを強調しています。