聖徳太子の墓所とされる磯長墓は、大阪府南河内郡太子町太子にあり、バスや車が行き来する道路沿いに位置しているため、その道を少し歩くと、「太子土地開発」とか「太子運送」といった会社の看板が目につきます。「太子学習教室」という塾もありました。太子廟の地としては似つかわしくないようでもあり、またいずれも太子伝承からすればぴったりでもあるようなのが、面白いところです。さすがに、「太子乗馬学校」とかは無かったですが……(片岡山付近に、「片岡山着付け教室」とかあるだろうか)。
磯長廟が本当に聖徳太子の墓かどうかに関する諸説は、既に紹介しました。では、磯長廟を管理している宮内庁の見解はどうなのか。その宮内庁の書陵部陵墓課陵墓調査室が最近行った調査の報告が出ていますので、紹介します。
陵墓調査室「聖徳太子 磯長墓の墳丘・結界石および御霊屋打調査報告」
(『書陵部紀要』第60号、2009年3月)
冒頭には、こうあります。
「径52~54m、高さ約7mの円墳と見なされることが多いが、近年、二段築成で下段を多角形、上段を径35mの円形と見る見解や八角墳の可能性も指摘されている。明治時代初期まで横穴式石室が南に開口していたことが知られている。現在は石室は閉塞され、唐破風の屋根を持つ御霊屋が入口部を覆っている」
宮内庁の部署としていろいろな制約を受けながらも、可能な範囲で「近来」の諸説に答えようとした、ということでしょうか。浄土経典を刻した結界石や御霊屋内の石灯籠などに関する調査報告が詳しいものの、それらは江戸時代のものなので、ここでは省かせてもらいます。
従来は等高線1m間隔の地形図がありましたが、平成17年以降の調査では、「スケール 1/100、等高線間隔25cmとして原図を作成した」由。それによれば、各段とも西側の残存状態が良く、3段築成の円墳となっていて、中でも第三段の等高線は「極めて精美な円形」となっていたそうで、詳しい図が付されています。
三つの棺をおさめた石室そのものは閉鎖されており、今回も内部の調査は行っていません。ただし、玄室前の羨門部については実測しており、明治12年に宮内省がこの墓を修理した際の「聖徳太子磯長墓実検記」や、それに基づく研究との照合がなされています。その結果、「実検記」の精度の高さが再確認されたとのこと。
ここで注目されるのは、
(1)壁面は丁寧に磨かれた花崗岩の切石
(2)石室入り口に向かって側壁がゆるやかに開いている
(3)天井石の先端部斷面が、屋根状に加工されている
(4)東壁は、天井石を支える側壁が1段でなく2段で築かれている
という特徴があり、これらはいずれも「岩屋山式石室、中でも指標となった岩屋山古墳や同一規格とされるムネサカ第1号墳の石室と一致する」という点です。「推測の域を出るものではないが、あと1~2石分南に延びると、推定される全長は16mを超えてくると考えられ、岩屋山古墳の石室全長とされる16.8mに近い規模になる可能性のあることに注意しておきたい」と記されています。
墳丘は、岡の斜面を切り開いて造成しているため完全な円形ではなく、南北が約43m、東西が約53m、高さ約11mであって最高所は北側に寄っており、南北は非対称。3段築成の円墳であって、墳丘の南半部の裾は精美な円形を呈していた可能性があり、玄室奧壁はほぼ墳丘頂部の直下に位置すると推定されるとされます。そして、石室の特徴は、岩屋山式石室の特徴と一致する、というのが結論です。
岩屋山式石室の一つであることは、白石太一郎氏の着実な論文、「岩屋山式の横穴式石室について」(『ヒストリア』第49号、1967年12月)などにより知られていましたが、今回の調査で再確認されたことになります。となると、7世紀第Ⅱ四半紀頃が中心であって第Ⅰ四半紀にさかのぼる可能性もあるとされる一連の岩屋山式石室、とりわけ、このタイプの基準とされ、皇極(斉明)天皇・孝徳天皇の母である吉備姫王(-643)の墓所とも言われる岩屋山古墳との先後関係が問題になりますね。
磯長廟が本当に聖徳太子の墓かどうかに関する諸説は、既に紹介しました。では、磯長廟を管理している宮内庁の見解はどうなのか。その宮内庁の書陵部陵墓課陵墓調査室が最近行った調査の報告が出ていますので、紹介します。
陵墓調査室「聖徳太子 磯長墓の墳丘・結界石および御霊屋打調査報告」
(『書陵部紀要』第60号、2009年3月)
冒頭には、こうあります。
「径52~54m、高さ約7mの円墳と見なされることが多いが、近年、二段築成で下段を多角形、上段を径35mの円形と見る見解や八角墳の可能性も指摘されている。明治時代初期まで横穴式石室が南に開口していたことが知られている。現在は石室は閉塞され、唐破風の屋根を持つ御霊屋が入口部を覆っている」
宮内庁の部署としていろいろな制約を受けながらも、可能な範囲で「近来」の諸説に答えようとした、ということでしょうか。浄土経典を刻した結界石や御霊屋内の石灯籠などに関する調査報告が詳しいものの、それらは江戸時代のものなので、ここでは省かせてもらいます。
従来は等高線1m間隔の地形図がありましたが、平成17年以降の調査では、「スケール 1/100、等高線間隔25cmとして原図を作成した」由。それによれば、各段とも西側の残存状態が良く、3段築成の円墳となっていて、中でも第三段の等高線は「極めて精美な円形」となっていたそうで、詳しい図が付されています。
三つの棺をおさめた石室そのものは閉鎖されており、今回も内部の調査は行っていません。ただし、玄室前の羨門部については実測しており、明治12年に宮内省がこの墓を修理した際の「聖徳太子磯長墓実検記」や、それに基づく研究との照合がなされています。その結果、「実検記」の精度の高さが再確認されたとのこと。
ここで注目されるのは、
(1)壁面は丁寧に磨かれた花崗岩の切石
(2)石室入り口に向かって側壁がゆるやかに開いている
(3)天井石の先端部斷面が、屋根状に加工されている
(4)東壁は、天井石を支える側壁が1段でなく2段で築かれている
という特徴があり、これらはいずれも「岩屋山式石室、中でも指標となった岩屋山古墳や同一規格とされるムネサカ第1号墳の石室と一致する」という点です。「推測の域を出るものではないが、あと1~2石分南に延びると、推定される全長は16mを超えてくると考えられ、岩屋山古墳の石室全長とされる16.8mに近い規模になる可能性のあることに注意しておきたい」と記されています。
墳丘は、岡の斜面を切り開いて造成しているため完全な円形ではなく、南北が約43m、東西が約53m、高さ約11mであって最高所は北側に寄っており、南北は非対称。3段築成の円墳であって、墳丘の南半部の裾は精美な円形を呈していた可能性があり、玄室奧壁はほぼ墳丘頂部の直下に位置すると推定されるとされます。そして、石室の特徴は、岩屋山式石室の特徴と一致する、というのが結論です。
岩屋山式石室の一つであることは、白石太一郎氏の着実な論文、「岩屋山式の横穴式石室について」(『ヒストリア』第49号、1967年12月)などにより知られていましたが、今回の調査で再確認されたことになります。となると、7世紀第Ⅱ四半紀頃が中心であって第Ⅰ四半紀にさかのぼる可能性もあるとされる一連の岩屋山式石室、とりわけ、このタイプの基準とされ、皇極(斉明)天皇・孝徳天皇の母である吉備姫王(-643)の墓所とも言われる岩屋山古墳との先後関係が問題になりますね。