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「日出処」を国書で用いた梁代の先例: 趙燦鵬「南朝梁元帝《職貢図》題記佚文的新発現」

2011年05月21日 | 論文・研究書紹介
 「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや」という煬帝あて国書は、長年、議論の的となってきましたが、『大智度論』などの仏典では、「日出処」は東、「日没処」は西を指す言葉として用いられていることは、東野治之氏が早くに指摘されたところです。

 つまり、この語は仏教の表現だったのです。ただ、この語を倭国より先に国書で用いていた国があったことが、明らかになりました。中国史上最も仏教熱心な皇帝であった梁の武帝に対して、西域の小国の王が送った国書の中に「日出処」の表現が見えることが中国の最近の論文で指摘されていると、東洋史の石見清裕さんから教えもらいました。

 趙燦鵬「南朝梁元帝《職貢図》題記佚文的新発現」
(『文史』2011年第1輯、中華書局、北京、2011年2月)

です。

 『梁職貢図』は、梁の武帝の子であって、後に侯景の乱を鎮めて即位する元帝が、荊州刺史をしていた際に作成したものです。梁に朝貢する諸国の使節を調査し、また荊州に来ない使節については都の建康に人を派遣して調べさせることにより、外国使節の風貌を絵に描き、またその国に関する情報を記述したものであって、貴重な資料となっています。

 現在は、唐の模本と南唐の模本(ともに台湾の故宮博物院)、北宋の模本(北京の中国国家博物館)という3本の模本が伝えられていますが、いずれも完本ではなく、使者の絵や国名だけでなく、その国の「歴史地理風俗的題記」が記してある北宋の模本にしても、絵は12国、題記は13国にすぎず、それも欠落があり、倭国の題記も途中で切れてます。

 ところが、清代の学者・画家であった張庚(1685-1760)が写したものは18国の題記を含んでおり、それが清末民国初の葛氏の『愛日吟廬書画続録』(『続修四庫全書』子部・芸術類、1088册)中に掲載されていて、現行諸本の欠落部分や文字の誤りをある程度補うことができることを、趙燦鵬氏は発見したのです。

 このブログにとって気になるのは、西域の胡蜜檀国の条です。北宋の模本では、「……来朝。其表曰、揚州天子、出処大国聖主……」となっている箇所が、今回発見されたテキストでは、「来朝貢。其表曰、揚州天子、日出処大国聖主……」となっていました。

 つまり、「来朝す」でなく「来りて朝貢す」、「出処」でなく「日出処」となっており、その上表文では、梁の武帝に対して、「揚州の天子、日出づる処の大国の聖主」と呼びかけていたのです。しかも、この「表」ではそれに続けて、胡蜜檀国王が「遙かに長跪合掌し、作礼すること千万なり」と述べており、おそらく仏教信者である国王が武帝に対して遠方から仏教風に何度も礼拝を重ね、非常に敬っていることが示されていました。

 梁代には東南アジア・南アジア・西域の諸国との交渉が増えており、それらの諸国が武帝あてに送った国書では、武帝を菩薩扱いして敬い、仏教用語を盛んに用いて武帝や梁を礼賛していたことは、河上麻由子さんの一連の論文で指摘されている通りですが、胡蜜檀国王のこの国書は、まさにそうした一つだったのです。梁こそが天下の中央であって、その天下の東端の国から日が上るのでなく、江南の梁は「日出づる処の大国」とされ、仏教信仰で有名な「天子」である武帝は「聖主」と呼ばれているのです。

 このことは、倭国の「日出づる処の天子」国書を考えるうえでも重要ですね。倭国の仏教の手本は百済であり、百済仏教の手本は梁代の仏教ですし。また、三経義疏はそれぞれ梁の三大法師の注釈に基づいていることの意味を、もう一度考えるべきでしょう。

 他にも、この論文では、『職貢図』における高句麗の題記は、『翰苑』が引用する高句麗条の記述とかなり一致しており、『翰苑』は『職貢図』を要略して引いていること、『職貢図』は『梁書』の諸夷伝の原史料となっていたらしい、といった重要な事柄がいくつも指摘されています。

 なお、北宋模写本に描かれている倭国の使者の姿がおかしく、実物を見ていないらしいことは、日本では早くから指摘されていました。実際、今回発見された倭国の題記の後半部分では、末尾は「斉の建元中(479-482)に、表を奉じて貢献す」とあるのみですので、梁の普通元年(520)に遣使してきたと記されている胡蜜檀国などとは状況が違います。