現在の日本仏教史研究では、鎌倉新仏教の諸宗だけでなく、同時期の南都仏教も重視されるようになったほか、「鎌倉新仏教」という概念そのものが見直されつつあり、また、近世・近代仏教の研究も盛んになってきています。しかし、顕密体制論が出るまでは、鎌倉新仏教を日本仏教の精華とみなす傾向が強く、最澄・空海を除けば、日本仏教史を受容から鎌倉新仏教形成に至る過程とそれ以後の変容・堕落の過程と見て、それを跡づけるような研究が盛んでした。
それは、現在の日本の有力宗派の多くが鎌倉新仏教に由来し、またそうした宗派に属する仏教史研究者が多かったためでもありますが、明治期にヨーロッパに留学し、近代的な日本史学の開拓者の一人となった原勝郎が、キリスト教の「新教・旧教」の図式を日本に当てはめ、鎌倉時代に起こった諸宗を宗教改革を試みた新仏教として評価したことの影響が続いてきたためでもあります。そうした鎌倉新仏教重視の傾向について、また別な背景を探ってみたのが、
オリオン・クラウタウ「一五年戦争期における日本仏教論とその構造--花山信勝と家永三郎を題材として--」
(『仏教史学研究』53巻1号、2010年12月)
です。
クラウタウさんは、近世から近代の日本仏教について、新たな視点によるすぐれた研究を精力的に発表している若手研究者であって、この論文も仏教史学の常識を見直す試みの一つです。
クラウタウさんは、昭和12年に文部省が刊行した『国体の本義』が日本仏教の本質を聖徳太子に求めると同時に、その顕現を鎌倉仏教に見出していることに注意し、こうした国体的な仏教論を展開させた代表者として、東京帝大印度哲学科の花山信勝に着目します。
熱烈な聖徳太子讃仰者であった花山については、このブログでも何度か触れましたが、クラウタウさんは、花山が日本仏教の特質を「一乗平等の精神」に立った「真俗一貫」の姿勢に見出し、日本の「国体」を仏教解釈中に具現化した聖徳太子の精神を受け継ぎ、展開させた存在として親鸞を評価したと指摘します。花山は、平安仏教および鎌倉以降の仏教については、ごく簡単にしか取り上げようとしないのです。
花山のような国体論者ではなく、京都学派の哲学の影響なども受けて日本文化における「否定の論理」を重視した家永三郎も、「世間」を「虚仮」なるものとして否定した聖徳太子から親鸞へという道筋重視という点では同様であった、とクラウタウさんは指摘します。花山は「聖徳太子→親鸞」という流れを日本独自の国体的仏教の系譜として誇るの対し、家永は西洋哲学を含めた普遍的な思想を志向し、そうした普遍性が日本では「聖徳太子→親鸞」という系譜に見出されるとするのであって、その流れを日本仏教の優越性として強調する点は同じだとするのです。
戦後になると、「皇室」や「国体」という言説は表舞台から退くものの、鎌倉仏教こそが日本仏教の精華だとする図式は継承され、鎌倉新仏教を「民衆的」という側面から評価する傾向が盛んとなります。家永の研究成果は、戦後はそうした面からあとづけられて広く受容されるようになり、そのような日本仏教観は、日本のみならず外国の研究者にまで影響を与えるに至ったと、クラウタウさんは論じています。
なお、クラウタウさんは、権威の源泉とされていた「聖徳太子」が戦後になると「『国体論』とともに放棄され」(58頁)、キーワードが「民衆」に置き換えられた、という方向で書いていますが、これは少々説明不足です。「放棄され」たのは「承詔必謹」を強調して国体を示したとされる聖徳太子像であって、戦後は聖徳太子は「和」と民主主義の元祖に変容し、重視され続けたことにも触れてほしかったですね。
戦時中の皇道仏教を批判する立場で研究を進め、戦後の日本仏教史学界に大きな影響を与えた二葉憲香が、蘇我馬子の仏教は呪術的で土俗宗教色が強いのに対し、聖徳太子の仏教は現世否定の普遍的信仰だったとする図式を打ち出し、行基や私度僧などを反律令的な民衆仏教と評価して太子をそうした系統の仏教と結びつけようとしたのは、その一例でしょう。二葉憲香が、真宗系である龍谷大学の学長となったのは、当然かもしれません。
それは、現在の日本の有力宗派の多くが鎌倉新仏教に由来し、またそうした宗派に属する仏教史研究者が多かったためでもありますが、明治期にヨーロッパに留学し、近代的な日本史学の開拓者の一人となった原勝郎が、キリスト教の「新教・旧教」の図式を日本に当てはめ、鎌倉時代に起こった諸宗を宗教改革を試みた新仏教として評価したことの影響が続いてきたためでもあります。そうした鎌倉新仏教重視の傾向について、また別な背景を探ってみたのが、
オリオン・クラウタウ「一五年戦争期における日本仏教論とその構造--花山信勝と家永三郎を題材として--」
(『仏教史学研究』53巻1号、2010年12月)
です。
クラウタウさんは、近世から近代の日本仏教について、新たな視点によるすぐれた研究を精力的に発表している若手研究者であって、この論文も仏教史学の常識を見直す試みの一つです。
クラウタウさんは、昭和12年に文部省が刊行した『国体の本義』が日本仏教の本質を聖徳太子に求めると同時に、その顕現を鎌倉仏教に見出していることに注意し、こうした国体的な仏教論を展開させた代表者として、東京帝大印度哲学科の花山信勝に着目します。
熱烈な聖徳太子讃仰者であった花山については、このブログでも何度か触れましたが、クラウタウさんは、花山が日本仏教の特質を「一乗平等の精神」に立った「真俗一貫」の姿勢に見出し、日本の「国体」を仏教解釈中に具現化した聖徳太子の精神を受け継ぎ、展開させた存在として親鸞を評価したと指摘します。花山は、平安仏教および鎌倉以降の仏教については、ごく簡単にしか取り上げようとしないのです。
花山のような国体論者ではなく、京都学派の哲学の影響なども受けて日本文化における「否定の論理」を重視した家永三郎も、「世間」を「虚仮」なるものとして否定した聖徳太子から親鸞へという道筋重視という点では同様であった、とクラウタウさんは指摘します。花山は「聖徳太子→親鸞」という流れを日本独自の国体的仏教の系譜として誇るの対し、家永は西洋哲学を含めた普遍的な思想を志向し、そうした普遍性が日本では「聖徳太子→親鸞」という系譜に見出されるとするのであって、その流れを日本仏教の優越性として強調する点は同じだとするのです。
戦後になると、「皇室」や「国体」という言説は表舞台から退くものの、鎌倉仏教こそが日本仏教の精華だとする図式は継承され、鎌倉新仏教を「民衆的」という側面から評価する傾向が盛んとなります。家永の研究成果は、戦後はそうした面からあとづけられて広く受容されるようになり、そのような日本仏教観は、日本のみならず外国の研究者にまで影響を与えるに至ったと、クラウタウさんは論じています。
なお、クラウタウさんは、権威の源泉とされていた「聖徳太子」が戦後になると「『国体論』とともに放棄され」(58頁)、キーワードが「民衆」に置き換えられた、という方向で書いていますが、これは少々説明不足です。「放棄され」たのは「承詔必謹」を強調して国体を示したとされる聖徳太子像であって、戦後は聖徳太子は「和」と民主主義の元祖に変容し、重視され続けたことにも触れてほしかったですね。
戦時中の皇道仏教を批判する立場で研究を進め、戦後の日本仏教史学界に大きな影響を与えた二葉憲香が、蘇我馬子の仏教は呪術的で土俗宗教色が強いのに対し、聖徳太子の仏教は現世否定の普遍的信仰だったとする図式を打ち出し、行基や私度僧などを反律令的な民衆仏教と評価して太子をそうした系統の仏教と結びつけようとしたのは、その一例でしょう。二葉憲香が、真宗系である龍谷大学の学長となったのは、当然かもしれません。