聖徳太子研究の最前線

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乳母に抱かれた太子、風景の中の太子: 太田昌子「法隆寺旧絵殿本聖徳太子絵伝の二つのメディア」

2011年05月17日 | 論文・研究書紹介
 今回は、美術作品はどのような場において、どのように機能していたかに注目してこられた太田昌子先生の聖徳太子絵伝論文、

太田昌子「法隆寺旧絵殿本聖徳太子絵伝の二つのメディア--「絵」と「銘文」が絡み合ってどのように働きかけてくるか--」
(『文学』10巻5号、岩波書店、2009年10月)

です。某研究会でご一緒させて頂いてますが、以下、「太田氏」という形で失礼します。

 南無仏太子像と言えば、普通は上半身が裸で坊主頭の幼児が合掌して立っている姿が思い浮かびます。ところが、太田氏が注目した法隆寺旧絵殿の「聖徳太子絵伝」の南無太子像は、そうした定型とは異なっています。

 延久元年(一○六九)に制作された、縦2メートル、横15メートルに及ぶ綾本着色のこの壁画では、太子は坐っている女性に抱えられた状態で合掌しているのです(石井注:絵では、祖母が孫を膝の上に乗せて抱えているような姿で描かれてます)。女性が乳母であることは、天明模本では短冊に「太子被{女爾}母抱、向東合掌、唱南無仏」とあることから明らかです。

 この変わった南無仏太子の図は、巨大な壁画では早い時期の事績をまとめた最初の部分にあり、入胎画面の左隣、誕生場面の右側、産養の上という位置で中央やや右に描かれています。こうした配置については、時間の流れを無視して事柄を自由に配置しているように見えますが、背景に描かれている景観を分析した太田氏は、この壁画のそれぞれの場面は、それらの事績が実際に起こったとされる場所にまとめて描かれていると指摘します。

 飛鳥や斑鳩の地に馴染みがある人であれば、どこが初瀬川か、どこが二上山なのか、どこが太子の葬られた磯長なのか、「指さすように確認できるように描かれている」のであって、そうした背景に関連する事柄が描かれているというのです。この論文では、歴史地図上に記した絵殿本の視座図とともに、斑鳩からの視座図斑鳩上空3千メーターの位置から見た画面のCG鳥瞰図を載せられています。

 また、そのような地形が壁画に描かれた絵殿自体、まさにその重要箇所の一つである斑鳩の法隆寺東院伽藍の北側に位置しており、「入れ子」になっていたことが重要とされます。つまり、現在のように、東京国立博物館の法隆寺宝物館ギャラリーに置かれたいたのでは、この絵は参拝者への本来の「働きかけ」の力を発揮できないのです。

 さて、飛鳥や斑鳩といった「場所の論理」に加え、廐での誕生、黒駒の献上その他、馬に関連する場面がまとめられている「馬のテーマ」のような内容上のまとまりもあるとされます。そして、その「馬のテーマ」のうちの黒駒献上の場面は「献上・奉拝のテーマ」ともなっており、百済の阿佐太子による太子奉拝の場面と接続する、といったように、「テーマの論理」も働いているとされます。そうした区画が、「霞分け」「山分け」など七つの形で区切られ、様々な場面の切り分けと関係づけが巧みになされているというのが、太田氏の見解です。

 南無仏の場面に戻れば、乳母に抱えられて合掌し、「南無仏」と言う程度であれば、さほど不思議はありません。太田氏は、『上宮太子補闕記』では、南無仏と称したのは「三歳之後」とし、奇跡を強調する『聖徳太子伝暦』では、「生後僅期有二月矣」となっていることに指摘します。そして、『三宝絵』は『伝暦』より後の成立でありながら、太子は生まれた翌年の「二月十五日の朝より心づから(=自から)掌を合わせて東に向きて南無仏と云ひておがみ給ふ」という素朴な書き方になっており、この壁画の絵はむしろ『三宝絵』に近いことに注意します。

 ただ、氏は、神秘化の過程を検討するのではなく、テキストとイメージの「共振効果」の方に注目します。それぞれの場面に添えられた短冊に書かれた銘文が、いわば言葉を発し、イメージを指し示すことよって場面の分節において重要な役割を果たしている点に着目するのです。これ以外にも新撰な視点が次々に提示であるため、あとは実際に読んでいただくしかありません。

 そこで、この論文の結論部分だけ紹介しておくと、そこでは、百済の阿佐太子の合掌礼拝姿の横に「敬礼救世大慈観音菩薩」云々と記してあり、また、同様に日羅の合掌跪拝姿の傍らに「救世観世音菩薩」云々と書いてあることが注意されています。

 この二人の奉拝の絵はとりわけ大きく描かれているのですが、しかも左右の側に描かれたこの2枚の絵は、絵殿を訪れた参拝者を「ちょうど左右から挟むように身体ごと囲みこむことになる」のです。そして、そうした参拝者の背後には、太子が生きた「その斑鳩の地が広がっていたわけである」というのが、本論文の締めくくりの言葉です。

 こうした視点は、文献を読む場合も必要でしょう。太田氏が読み解いたこの絵は、あくまでも平安期の人びとが作り出した太子の伝記世界ですが、どの時期の文献でも彫刻・絵画でも、現代人の常識に基づいて眺め解釈するのではなく、制作当時の人々の視点、そしてそれを享受した人々の視点で見るよう努めるということが、まず第一の作業としていかに重要であるかを痛感させられる論考でした。