聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

釈迦三尊像・薬師像の刻銘の疑問: 鈴木勉「上代金石文の毛彫り刻銘技法から見る我が国の『流れ』の文化」

2011年05月24日 | 論文・研究書紹介
 法隆寺金堂の釈迦三尊像とその銘文については、論文が山のようにあり、諸説様々です。ただ、間近で観察した東野治之氏が「ほんとうの聖徳太子」(『ものがたり 日本列島に生きた人たち〈3〉文書と記録 上』、岩波書店、2000年)などにおいて、光背裏には銘文を入れるための平滑な面があらかじめ準備されており、そこに鍍金が残っていることから見て、造像と刻銘は同時、と論じて以来、この銘文は信頼できるとする研究者が増えました。

 これに対して異論を唱え、筆文字の筆致を再現した釈迦三尊像銘の巧みな「流れ」の表現は、この銘がたがねによる毛彫りで刻されたとしたら、小治田安万侶墓誌(七二九)や山代真作墓誌(七二八)、行基骨蔵器銘(七四九)など、「神技に近いほどの技のさえを見せ」、技術が頂点に達した時期の作に近いと主張しているのが、

鈴木勉「上代金石文の毛彫り刻銘技法から見る我が国の『流れ』の文化
--法隆寺金堂釈迦三尊・薬師座像両光背銘の刻銘時期をめぐって--」
(『書論』第35号、2006年10月)

です。

 刻銘の技法の研究者である鈴木氏は、この問題について、「江田船山古墳出土大刀銀象嵌銘「三寸」と古墳時代中期の鉄の加工技術<付説:法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘の「尺寸」と「ろう製原型鋳造法」について>」(『橿原考古学研究所紀要』第24冊、2003年)や「上代金石文の刻銘技法に関する二三の問題」(『風土と文化』第5号、2004年)その他数本の論文で論じています。

 毛彫り刻銘は線彫りとも呼ばれ、一度の加工で一本の文字線を形成するのに対し、さらい彫り刻銘は、一本の文字線の輪郭を細く線彫りしたうえで、その内側をさらい取るものです。このため、毛彫りでは「流れ」を、つまり、字の勢い・動きを表現できるものの、元の文字の形に似せるのは限界があります。さらい彫りはその反対で、元の文字の形は忠実に再現できる一方、筆文字の勢いや動きを表現するのは困難となるそうです。そこで、氏は次の三期に分類します。

第一期(導入期):文字線の肥痩を意識しない「二次元性文字の時代」

第二期(進化期):筆文字に似せて彫るよう努力した「三次元性文字の時代」

第三期(完成期):線彫り刻銘技法の「三、四次元性文字の時代」

 そして、第一期は、6世紀後半から7世紀半ばとし、法隆寺甲寅年(594)釈迦像光背銘、同辛亥年(591)観音菩薩立像銘、野中寺弥勒菩薩半跏増銘をあげます。直線的で素朴な字ですね。

 第二期は、7世紀後半から8世紀初めであって、小野毛人墓誌、船王後墓誌、長谷寺観音菩薩立像銘などを例とします。「たがねの方向を強引に変えて、墨だまりを表現しようと」した字です。

 第三期は、8世紀初めから8世紀後半であり、興福寺禅院鐘銘、山代真作墓誌(728年)、小治田安万侶墓誌(729年)、石川年足墓誌などがあげられます。この時期に至ると、筆文字にも負けないほどのすぐれた表現がなされ、以後、これほど高度な刻銘は見られなくなるとされます。

 鈴木氏は、こうした変遷から見て、薬師像銘は、第二期であって、船王後墓誌に近いとします。そして、釈迦像銘は、早くても第二期から第三期にかかる頃とし、最も近いのは小治田安万侶墓誌(729年)だと主張します。

 ただ、氏は最初の論文の時から毛彫り以外の可能性も示唆しています。というより、東野氏は2000年から釈迦像銘は「ろう型鋳造」の技法で作られた可能性の指摘を始めているが、自分は1997年に橿原考古学研究所と共同調査した際、事情で不十分な観察しか出来なかったが、「ろう型原型を使った埋け込み型」の技法で作られたのではないかと考え、同行した所員と法隆寺に説明し、再調査のお願いをしたという点を強調するのです。

 そして、鍍金は何度もやり直しができるうえ、「鍍金の痕跡」を見たのは東野氏一人だけであって写真が示されていない以上、客観的な証明にはならないと主張しています。

 この問題については、双方に言い分があるでしょうが、いずれにせよ、鈴木氏は、釈迦像銘の精密調査の実施と検証のための復元実験の必要性を、複数の論文で再三訴えていますので、そうした調査がなされるまでは、この議論は続くことでしょう。