倭国について「世々中国と通ず」と述べておきながら、前王朝である隋と倭国の交渉に関しては何も伝えない『旧唐書』倭国伝・日本国伝と違い、隋の開皇年間(581~604)の末に在位していた「用明、亦た目多利思比孤と曰」う王が「始めて中国に通」じたと記す『新唐書』日本伝についても見ておきましょう。
日本伝を含む列伝部分は宋の嘉祐3年(1058)に完成し、全体はその2年後に完成した『新唐書』は、『旧唐書』とは異なる内容を持つために、盛んに利用されてきましたが、評判は昔から悪く、今回紹介する、
河内春人「『新唐書』日本伝の成立」
(『東方学報』86巻2号、2004年9月)
の冒頭では、「『新唐書』は原史料を意によって改め、もしくは省略することで知られている。そして、それゆえに原文の改変の際に誤読が発生し、原史料とは異なる内容を持つことがあり、その利用には慎重を要する。『新唐書』日本伝の史料的性質についてはすでに保科富士男氏による研究があり、『新唐書』日本伝の内容においてほとんどの記載が先行史料と対応しており、なおかつ誤読等によってその史料的価値は低いことが指摘されている」と評されています。
では、その『新唐書』日本伝を含め、正史の外国伝はどのような史料に基づき、どのような手順で書かれるのか。
河内氏は、唐代では、朝貢してきた外交使節に対して外交省庁である鴻臚寺が「土地・風俗・衣服・貢献・道里遠近ならびに其の主の名字」など情報聞き取りを行なうことは、『唐令』「公式令」に定められており、その情報は皇帝に奏上され、史料として史館に送られるのが正式であったと述べます。
そして、『日本書紀』が引く「伊吉博徳書」に見える高宗と日本の遣唐使とのやりとりは、『大唐開元礼』「受蕃国使表及幣」が規定するように、皇帝の引見の際に舎人が勅を受けて皇帝の面前で外国使節に国主の安否その他を問う儀礼であることは石見清裕さんの指摘があり、これは鴻臚寺の詳細な勘問とは別なものであることに注意します。
河内氏は、唐代の鴻臚寺による勘問の仕方は、1072年に入宋した成尋の『参天台五台山記』に見える詳細な勘問記録が示すように、基本的には宋代にも受け継がれており、中国側の史料としては、983年に入宋した奝然[ちょうねん]が筆談で勘問に答えたものも似た内容であると述べます。
そのようにして作成された資料は、修史の役所に保存されますが、1006年に修史の官となった宋の楊億は、かつて日本僧の奝然がその国の「職員令」「年代記」をもたらしたという記録があり、自分は史局で「禁書」中にあった『日本年代記』一巻と「奝然表啓」を閲覧できたため、詳しく記すことができたと述べています。「表啓」は鴻臚寺が外国使節とのやりとりを通じて作成したものを、外国使節が皇帝に謁見する際に奏上するのが通例のようですが、奝然の場合、「国書」については記されていません。
河内氏は、『日本年代紀』は奝然が勘問に備えて日本で準備して持参したものと推測します。国書となると朝貢かどうかが問題になるため、中国の冊封体制に組み込まれたくない日本の朝廷は、奝然が個人として入宋するのに便乗する形にし、国書は持たせなかった可能性が高いと見るのです。
『新唐書』日本伝が載せる天皇の系譜は、『新唐書』より後にできた『宋史』所引の『王年代紀』と類似しているのですが、これがおそらく奝然の『日本年代紀』であって、日本と中国の年号の対応を明記し、仏教に関する日中交流記事を中心としたものだったようです。
ただ、『宋史』所引の『王年代紀』が神名を列挙して「二十三世」とするのを、『新唐書』日本伝は神名を節略したうえで「三十二世」と誤り記しているのを初めとして、天皇名も間違いがきわめて多くなっています。また、『王年代紀』では天皇の系譜を一貫して「次に誰々」という形で示しているの対し、『新唐書』では孝徳から聖武までの系譜を「子の誰々立つ」という形で記しているため、日本側の史実と合わない記述が目立ちます。
『王年代紀』では、日本僧の渡航など仏教記事が多いのに対し、『新唐書』ではそれらを削除して遣唐使関連の記事に差し替えたと見られると、河内氏は説きます。その際、利用したのは、河内氏が「日本情報の史料系統」として掲げている以下の図に見える書物です。このうち、現存する本は、河内論文では下線になっていますが、ここでは『 』に入れて示しておきます。
起居注・実録
|
┌------┐
| (?)
唐書 |-----┐
| 『通典』 会要
┌----| | | 続会要
| | | |---┘
| 『旧唐書』 | 『唐会要』
| | |-----┤
『太平御覧』 | 『太平寰宇記』 |
| | |
└------------┘
|
『新唐書』
すなわち、『新唐書』日本伝は、日本製の『王年代紀』を利用する一方で、『旧唐書』を中心としつつ『唐会要』や『太平寰宇記』などを用いて補ったものであるとします。つまり、保科氏が言う「ほとんど」をさらに進め、『新唐書』日本伝の記事は「すべて」既知の書物によるものであって、『新唐書』独自の情報に見えるのは省略・誤読などの結果にすぎないというのです。
日本伝が立項される最初は、『旧唐書』や『新唐書』に先行する8世紀半ばすぎの柳芳『唐書』130巻(後に増補を経て146巻)であって、『旧唐書』倭国伝・日本伝は、その柳芳『唐書』の字句を少し変更して引き写した可能性があるとします。9世紀初めに編纂された『会要』も倭国条と日本条を別々に立てており、それが『会要』『続会要』の文言をそのまま引くと言われる『唐会要』に受け継がれますが、この場合、倭国と日本国は連続する主体とはみなされません。
しかし、9世紀初頭成立の『通典』やその系統である北宋の『太平寰宇記』では、『後漢書』や『三国志』の伝統を継いで倭国条を立てるのみであって、日本伝を別に立てることはしません。倭国条の中で、倭国の別名としての日本に触れるだけです。つまり、9世紀やそれ以後になっても、中国では倭国から日本国への国号変更という事態は受容されにくかったことになります。
国号変更をめぐって中国側にこうした混乱が生じたのは、国号の自主的な変更は中華的世界秩序から離脱して自らを中華と位置づけるものであり、唐への敵対行為とみなされる恐れがあるため、日本を名乗る大宝年間の遣唐使が、この件について「意図的にはぐらかした」ことによるものであって、それが『旧唐書』日本伝における三つ説の並記となったものと、河内氏は推測します。
確かに、『旧唐書』日本伝では、また『唐会要』日本伝でも、(1)日本国は倭国の別種であり、日辺にあるので日本と名乗った、(2)倭国が自ら「倭」という卑名を嫌って日本と改めた、(3)もと小国であった日本が倭国の地を併合した(『新唐書』は逆に、小国の日本が倭に併合され、倭はその国号を奪って日本と称するようになった、という不自然な記述)、という三説を並記したうえ、その国から入唐する者の多くは「自ら大を矜[ほこ]り、実を以て対えず。故に中国は焉[これ]を疑う」とまで書いており、三説のうちどれが正しいのかも示されていません。
河内氏が「意図的にはぐらかした」と言われるのは、遣唐使が「最近になって勝手に国号を変えたのでなく、我が国は日の出る所に近いので昔から日本と称しており、大国だったのです」などと主張し、あれこれ矛盾することを言い立てた、といったような状況を想定しているのでしょうか。
「"日向"から東征して大和に建国した神日本磐余彦尊(神武天皇)の頃から、日本が正式名称だったのですから、今後は日本と呼んでいただきたい」などと言えば、『三国志』などと年代が合わなくなりますし、「邪な勢力との戦いに勝って即位した天武天皇が、倭という呼称はやめて、本来の国号であった日本を正式名称としたのです」などと言ったのであれば、中国の常識としては新王朝とみなす可能性がありますが、三説から受ける感じとは異なります。遣唐使たちは、一体どのような矛盾する主張を並べ立てたのか。あるいは、三説には、新羅からの情報なども含んでいるのか。
いずれにせよ、中国では、8世紀半ばすぎの柳芳『唐書』や8世紀末から9世紀初めの成立である『会要』が倭国と日本国を別扱いしている一方、8世紀後半にほぼ完成し、9世紀初めに献上された『通典』(やその系統である北宋の『太平寰宇記』)などは、『後漢書』や『三国志』以来の伝統をついで倭伝だけを立て、日本は倭国の別名と記すのみだったのであって、そのような異なる日本観の併存という状況は、『旧唐書』や『唐会要』に見られるように、五代の時代になっても続いていたのです。
宋代の地図、「古今華夷区域総要図」などでも、倭と日本を大海中の別々の島として記しています(*石井注:地図ではこれらの島の形は示されておらず、半島の南端までを占める新羅の南の海中に「倭奴」の島があり、さらに南の海中に「毛人」の島があり、その「倭奴」の西南、「毛人」の西北の海中に、つまり「倭奴」よりもずっと中国江南に近い位置の海中に「日本」が置かれています)。
また、『会要』と『続会要』を承けた『唐会要』では、8世紀前半の記事が日本伝であるのに対して、8世紀後半から9世紀の記事が倭国条に含まれるという不自然な形になっています。それが、北宋の『新唐書』になって、日本僧が10世紀末にもたらした『日本書紀』風な『王年代記』を用いることにより倭国伝の内容を日本伝のうちに吸収し、日本伝だけが立てられるようになったのだ、と河内氏は説きますす。
ただ、その『新唐書』日本伝は、上で説明したような内容ですので、日本に関する中国側の史料を比較検討する際は、『新唐書』ではなく、それより「先行する諸史料に依拠しなければならない」というのが、河内氏の結論です。
ということで、「目多利思比孤」とも呼ばれる「用明」という王が隋の開皇の末に始めて中国と通じた、などと記す『新唐書』日本伝については、倭国と隋の交渉について考える際はまったく考慮する必要がない、ということになりました。
なお、『新唐書』が援用していた楽史『太平寰宇記』は、陳寿『三国志』の典拠と推定されている魚豢『魏略』・王沈『魏書』などを引用していますが、
満田剛「『太平寰宇記』所引王沈『魏書』について--附論:『太平寰宇記』所引『魏志』『魏略』魏収『魏書』--」
(『創価大学人文論集』22号、2010年3月)
は、結論で次のように述べています。
『太平寰宇記』所引『魏志』・『魏略』・魏収『魏書』について分析した結果、『太平寰宇記』に引用された文章は原文のままであることが極めて少なく、必要な部分だけを引用するために意図的に「加工」されているものや、書籍の注も本文に組み込んでしまっている場合や全く異なる書籍の文章である場合も存在する。ただ、これは楽史によるものか、それとも楽史が参照した類書などの書籍の時点ですでに発生していたことなのかははっきりとしない。(193頁)
まあ、中国でも日本でもこうしたやり方で作成された文献は多く、それが写本・版本として伝わっていく過程でさらに誤写・改変・注の紛れ込みなどが重なっていくのですから、恐いですね。
【付記:2021年11月23日】
当時は表記されなかったため、奝然の「奝」を {大/周} という合字表記で示していましたが、現在は表記できるので、正しい文字に訂正しました。
日本伝を含む列伝部分は宋の嘉祐3年(1058)に完成し、全体はその2年後に完成した『新唐書』は、『旧唐書』とは異なる内容を持つために、盛んに利用されてきましたが、評判は昔から悪く、今回紹介する、
河内春人「『新唐書』日本伝の成立」
(『東方学報』86巻2号、2004年9月)
の冒頭では、「『新唐書』は原史料を意によって改め、もしくは省略することで知られている。そして、それゆえに原文の改変の際に誤読が発生し、原史料とは異なる内容を持つことがあり、その利用には慎重を要する。『新唐書』日本伝の史料的性質についてはすでに保科富士男氏による研究があり、『新唐書』日本伝の内容においてほとんどの記載が先行史料と対応しており、なおかつ誤読等によってその史料的価値は低いことが指摘されている」と評されています。
では、その『新唐書』日本伝を含め、正史の外国伝はどのような史料に基づき、どのような手順で書かれるのか。
河内氏は、唐代では、朝貢してきた外交使節に対して外交省庁である鴻臚寺が「土地・風俗・衣服・貢献・道里遠近ならびに其の主の名字」など情報聞き取りを行なうことは、『唐令』「公式令」に定められており、その情報は皇帝に奏上され、史料として史館に送られるのが正式であったと述べます。
そして、『日本書紀』が引く「伊吉博徳書」に見える高宗と日本の遣唐使とのやりとりは、『大唐開元礼』「受蕃国使表及幣」が規定するように、皇帝の引見の際に舎人が勅を受けて皇帝の面前で外国使節に国主の安否その他を問う儀礼であることは石見清裕さんの指摘があり、これは鴻臚寺の詳細な勘問とは別なものであることに注意します。
河内氏は、唐代の鴻臚寺による勘問の仕方は、1072年に入宋した成尋の『参天台五台山記』に見える詳細な勘問記録が示すように、基本的には宋代にも受け継がれており、中国側の史料としては、983年に入宋した奝然[ちょうねん]が筆談で勘問に答えたものも似た内容であると述べます。
そのようにして作成された資料は、修史の役所に保存されますが、1006年に修史の官となった宋の楊億は、かつて日本僧の奝然がその国の「職員令」「年代記」をもたらしたという記録があり、自分は史局で「禁書」中にあった『日本年代記』一巻と「奝然表啓」を閲覧できたため、詳しく記すことができたと述べています。「表啓」は鴻臚寺が外国使節とのやりとりを通じて作成したものを、外国使節が皇帝に謁見する際に奏上するのが通例のようですが、奝然の場合、「国書」については記されていません。
河内氏は、『日本年代紀』は奝然が勘問に備えて日本で準備して持参したものと推測します。国書となると朝貢かどうかが問題になるため、中国の冊封体制に組み込まれたくない日本の朝廷は、奝然が個人として入宋するのに便乗する形にし、国書は持たせなかった可能性が高いと見るのです。
『新唐書』日本伝が載せる天皇の系譜は、『新唐書』より後にできた『宋史』所引の『王年代紀』と類似しているのですが、これがおそらく奝然の『日本年代紀』であって、日本と中国の年号の対応を明記し、仏教に関する日中交流記事を中心としたものだったようです。
ただ、『宋史』所引の『王年代紀』が神名を列挙して「二十三世」とするのを、『新唐書』日本伝は神名を節略したうえで「三十二世」と誤り記しているのを初めとして、天皇名も間違いがきわめて多くなっています。また、『王年代紀』では天皇の系譜を一貫して「次に誰々」という形で示しているの対し、『新唐書』では孝徳から聖武までの系譜を「子の誰々立つ」という形で記しているため、日本側の史実と合わない記述が目立ちます。
『王年代紀』では、日本僧の渡航など仏教記事が多いのに対し、『新唐書』ではそれらを削除して遣唐使関連の記事に差し替えたと見られると、河内氏は説きます。その際、利用したのは、河内氏が「日本情報の史料系統」として掲げている以下の図に見える書物です。このうち、現存する本は、河内論文では下線になっていますが、ここでは『 』に入れて示しておきます。
起居注・実録
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唐書 |-----┐
| 『通典』 会要
┌----| | | 続会要
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| 『旧唐書』 | 『唐会要』
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『太平御覧』 | 『太平寰宇記』 |
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└------------┘
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『新唐書』
すなわち、『新唐書』日本伝は、日本製の『王年代紀』を利用する一方で、『旧唐書』を中心としつつ『唐会要』や『太平寰宇記』などを用いて補ったものであるとします。つまり、保科氏が言う「ほとんど」をさらに進め、『新唐書』日本伝の記事は「すべて」既知の書物によるものであって、『新唐書』独自の情報に見えるのは省略・誤読などの結果にすぎないというのです。
日本伝が立項される最初は、『旧唐書』や『新唐書』に先行する8世紀半ばすぎの柳芳『唐書』130巻(後に増補を経て146巻)であって、『旧唐書』倭国伝・日本伝は、その柳芳『唐書』の字句を少し変更して引き写した可能性があるとします。9世紀初めに編纂された『会要』も倭国条と日本条を別々に立てており、それが『会要』『続会要』の文言をそのまま引くと言われる『唐会要』に受け継がれますが、この場合、倭国と日本国は連続する主体とはみなされません。
しかし、9世紀初頭成立の『通典』やその系統である北宋の『太平寰宇記』では、『後漢書』や『三国志』の伝統を継いで倭国条を立てるのみであって、日本伝を別に立てることはしません。倭国条の中で、倭国の別名としての日本に触れるだけです。つまり、9世紀やそれ以後になっても、中国では倭国から日本国への国号変更という事態は受容されにくかったことになります。
国号変更をめぐって中国側にこうした混乱が生じたのは、国号の自主的な変更は中華的世界秩序から離脱して自らを中華と位置づけるものであり、唐への敵対行為とみなされる恐れがあるため、日本を名乗る大宝年間の遣唐使が、この件について「意図的にはぐらかした」ことによるものであって、それが『旧唐書』日本伝における三つ説の並記となったものと、河内氏は推測します。
確かに、『旧唐書』日本伝では、また『唐会要』日本伝でも、(1)日本国は倭国の別種であり、日辺にあるので日本と名乗った、(2)倭国が自ら「倭」という卑名を嫌って日本と改めた、(3)もと小国であった日本が倭国の地を併合した(『新唐書』は逆に、小国の日本が倭に併合され、倭はその国号を奪って日本と称するようになった、という不自然な記述)、という三説を並記したうえ、その国から入唐する者の多くは「自ら大を矜[ほこ]り、実を以て対えず。故に中国は焉[これ]を疑う」とまで書いており、三説のうちどれが正しいのかも示されていません。
河内氏が「意図的にはぐらかした」と言われるのは、遣唐使が「最近になって勝手に国号を変えたのでなく、我が国は日の出る所に近いので昔から日本と称しており、大国だったのです」などと主張し、あれこれ矛盾することを言い立てた、といったような状況を想定しているのでしょうか。
「"日向"から東征して大和に建国した神日本磐余彦尊(神武天皇)の頃から、日本が正式名称だったのですから、今後は日本と呼んでいただきたい」などと言えば、『三国志』などと年代が合わなくなりますし、「邪な勢力との戦いに勝って即位した天武天皇が、倭という呼称はやめて、本来の国号であった日本を正式名称としたのです」などと言ったのであれば、中国の常識としては新王朝とみなす可能性がありますが、三説から受ける感じとは異なります。遣唐使たちは、一体どのような矛盾する主張を並べ立てたのか。あるいは、三説には、新羅からの情報なども含んでいるのか。
いずれにせよ、中国では、8世紀半ばすぎの柳芳『唐書』や8世紀末から9世紀初めの成立である『会要』が倭国と日本国を別扱いしている一方、8世紀後半にほぼ完成し、9世紀初めに献上された『通典』(やその系統である北宋の『太平寰宇記』)などは、『後漢書』や『三国志』以来の伝統をついで倭伝だけを立て、日本は倭国の別名と記すのみだったのであって、そのような異なる日本観の併存という状況は、『旧唐書』や『唐会要』に見られるように、五代の時代になっても続いていたのです。
宋代の地図、「古今華夷区域総要図」などでも、倭と日本を大海中の別々の島として記しています(*石井注:地図ではこれらの島の形は示されておらず、半島の南端までを占める新羅の南の海中に「倭奴」の島があり、さらに南の海中に「毛人」の島があり、その「倭奴」の西南、「毛人」の西北の海中に、つまり「倭奴」よりもずっと中国江南に近い位置の海中に「日本」が置かれています)。
また、『会要』と『続会要』を承けた『唐会要』では、8世紀前半の記事が日本伝であるのに対して、8世紀後半から9世紀の記事が倭国条に含まれるという不自然な形になっています。それが、北宋の『新唐書』になって、日本僧が10世紀末にもたらした『日本書紀』風な『王年代記』を用いることにより倭国伝の内容を日本伝のうちに吸収し、日本伝だけが立てられるようになったのだ、と河内氏は説きますす。
ただ、その『新唐書』日本伝は、上で説明したような内容ですので、日本に関する中国側の史料を比較検討する際は、『新唐書』ではなく、それより「先行する諸史料に依拠しなければならない」というのが、河内氏の結論です。
ということで、「目多利思比孤」とも呼ばれる「用明」という王が隋の開皇の末に始めて中国と通じた、などと記す『新唐書』日本伝については、倭国と隋の交渉について考える際はまったく考慮する必要がない、ということになりました。
なお、『新唐書』が援用していた楽史『太平寰宇記』は、陳寿『三国志』の典拠と推定されている魚豢『魏略』・王沈『魏書』などを引用していますが、
満田剛「『太平寰宇記』所引王沈『魏書』について--附論:『太平寰宇記』所引『魏志』『魏略』魏収『魏書』--」
(『創価大学人文論集』22号、2010年3月)
は、結論で次のように述べています。
『太平寰宇記』所引『魏志』・『魏略』・魏収『魏書』について分析した結果、『太平寰宇記』に引用された文章は原文のままであることが極めて少なく、必要な部分だけを引用するために意図的に「加工」されているものや、書籍の注も本文に組み込んでしまっている場合や全く異なる書籍の文章である場合も存在する。ただ、これは楽史によるものか、それとも楽史が参照した類書などの書籍の時点ですでに発生していたことなのかははっきりとしない。(193頁)
まあ、中国でも日本でもこうしたやり方で作成された文献は多く、それが写本・版本として伝わっていく過程でさらに誤写・改変・注の紛れ込みなどが重なっていくのですから、恐いですね。
【付記:2021年11月23日】
当時は表記されなかったため、奝然の「奝」を {大/周} という合字表記で示していましたが、現在は表記できるので、正しい文字に訂正しました。