聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

法隆寺釈迦三尊像銘と野中寺弥勒像銘: 鈴木勉「上代金石文の刻銘技法に関する二三の問題」

2011年05月28日 | 論文・研究書紹介
 釈迦三尊像銘については関心を抱いている人が多いため、前回の続きです。

鈴木勉「上代金石文の刻銘技法に関する二三の問題」
(『風土と文化』第5号、2004年3月)

 中国の金文・石文には、筆画に明らかに肥痩や曲直が見られます。ただ、それより前の時代に亀甲や獣骨に彫られた文字は線彫り、と見るのが通説でしたが、鈴木氏はそれを否定します。精密調査をしたところ、筆画の溝底部は単純なV字型でなく、文字の輪郭をまず彫って、その後で輪郭の中をさらう「浚い彫り」の技法が用いられていることが確認できたためです。

 つまり、中国では早い時期から表現力のある彫り方がなされていたのですが、氏は、辺境ではもっと素朴な彫り方が採用されることがあり、中央でも、売地劵、金銅仏の造像銘、一部の印章などでは、三次元性・四次元性を捨てた刻銘が見られることに注意します。

 さて、日本では、前回の記事で紹介した第一期、すなわち、初期の仏像銘や墓誌などは、文様を刻むのと同じ線彫り(毛彫り)の技法で彫られています。このため、縦画と横画で太さを変えるようなこともありません。

 第二期には、筆文字に近い表現をめざすようになります。たとえば、船王後墓誌では、横画に最初にたがねを入れる際、左上約30度から45度くらいの角度で入れ、ついで横方向にたがねの進路を変えるといったことをしているのです。ただ、それでも全体は直線的であって、抑揚もありません。

 第三期になると、毛彫りでありながら、筆文字に近い形態で彫れるようになったうえ、たがねならではの鋭ささえ表現し、筆の動きを見事に表現するに至ります。

 ところが、その日本に刻銘の技法を伝えた朝鮮では、毛彫りの技術は発展しなかった、と氏は説きます。つまり、金銅仏への毛彫り刻銘技法は早い時期に中国から伝えられたものの、初期の段階の技法がそのまま長く用いられ、後になって、新たに伝わった技術、つまり、金石文で用いられていた浅い「浚い彫り」に移行したと推定するのです。

 これに対して、日本では毛彫り刻銘の技術が継承され、極度に発展したところで急に消えたと見ます。例外は、毛彫り法によっていない「長谷寺法華説相図銘」(686、698、710年説有り)と、僧道薬墓誌(714年)です。

 まず、「長谷寺法華説相図版銘」は、中国由来の浚い彫り技法によって初唐の書風を表現しているため、「朝鮮半島を経由している可能性を含めて中国系の工人と僧が関わったことは容易に想像がつく」ものの、我が国では継承されなかったとします。

 もう一つの僧道薬墓誌は、「たがねの打ち込み」による刻銘であり、やわらかい銀板とはいえ、「横画を3回のたがねの打ち込みで表現してしまう」もので、他に例がない由。

 氏は、山代真作墓誌の復元研究にあたって、五條市立五條文化博物館と共同研究し、数十回の試作を経て、現代の鋭角的な毛彫りたがねと違い、飛鳥・奈良時代の刻銘のような柔らかな線を出せる「飛鳥様毛彫りたがね」を復元制作しています。

 では、問題の釈迦三尊像光背銘と薬師仏光背銘はどうか。氏は、1997年8月に調査する機会を得たものの、法隆寺側の突発的な事情で至近距離からの観察ができなくなったため、床からミュージアムスコープ(単眼望遠鏡)によって観察したそうです。

 それによれば、釈迦像光背の場合は、縦横約33センチの領域に、14字14行の字が彫られており、銘文の外側の天地左右10センチくらいを境にして、表面の状態が異なっており、外側は荒い鋳肌のままであるのに対し、刻銘の領域は平滑に仕上げられており、しかも光背の他の部分とは段差があるように見えたそうで、同行の彫金師、松林正徳氏にも確認してもらった由。

 銘文の面周辺に段差があるように見える理由は、(1)拓本採りを繰り返したことによる黒光り、(2)刻銘の前か後で研磨した結果、(3)鋳造工程の必然でそうなった、という三種の可能性が考えられるとします。そして、鋳造上の理由に基づくものであって、実際に銘文周囲に凹凸があるなら、「ろう製原型を使った埋け込み型」が考えられると述べます。

 というのは、氏は、興福寺銅灯台銘(816年)、西光寺鐘銘(839年)、栄山寺鐘銘(917年)など、上代の陽鋳銘のいくつかが、蜜ろうを使って文字の原型を作る「埋け込み」型の技法で作られたことを指摘したことがあるためです(鈴木「栄山寺鐘銘「ろう製文字型陽鋳銘」とその撰・筆者について」、『橿原考古学研究所紀要 考古学論攷』22冊、1998年)。この方式だと、ろう製原型に粘土をかぶせて作った文字部分だけの鋳型を焼成した後、本体の鋳型に「埋け込む」ため、多少の凹凸が生まれることになります。

 氏はさらに、「ろう製原型を使った埋け込み型」で鋳造した場合、鋳造後に仕上げ加工として浚い彫りをすれば、たがねの切れ味の鋭さが現れる可能性もあるとしています。

 ただ、氏の釈迦三尊像光背銘調査は、遠くからの観察にとどまっていた以上、そうした複数の可能性が考えられるとしておくほかないだろう、というのがこの論文の結論です。

 なお、同論文では、野中寺弥勒菩薩半跏増銘の問題の箇所についても、論じています。年代を決めるうえできわめて重要な要素であり、「天皇」の語の登場時期にも関わる「丙寅年四月八日大■癸卯開」という部分のうち、■の字については、「旧」と読む説と「朔」と読む説とがあって論争が続いており、「旧」説の方が有力なようですが、鈴木氏は、「朔」を正しいとします。

 その理由は、この銘文では「日」「口」「目」「百」など四角く囲む形の字には「はね」を持つものは無いのに対し、この字だけ、わざわざたがねを入れ直して字の右下に「はね」が付いた「月」の形になっているためです。これは、「月」であることを意図的に示そうとしたものだ、と氏は説きます。結論としては、藪田嘉一郎、堀井純二氏などの説と同じですが、美術史や日本史の研究者ではなく、刻銘技術そのものの研究者の見解ということで、紹介しておきます。