聖徳太子研究の最前線

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「和習」の問題

2010年06月03日 | 聖徳太子・法隆寺研究の関連情報
「和習」の問題

 三経義疏にしても『日本書紀』の聖徳太子関連記述にしても、和習(倭習、和臭)の問題が関わってきます。和習というのは厄介な問題であり、日本風な間違った表現だと思ったら、中国でもある時代には使われていたとか、俗語であったとか、仏教漢文の用法であったなど、様々なケースがありますので、判定が難しいことは確かです。

 しかし、中国の古典や、それぞれの時代において標準となっていた漢文には出てこない語法や語彙が、日本・朝鮮・ベトナムの文献に見えていることも事実です。「判定基準が曖昧なのだから、和習によって三経義疏や『日本書紀』について何かを判断するのは無理だ」などと言うのは、「私は語法や語彙に注意して読んでいません」と宣言するに等しいため、避けた方が賢明でしょう。和習は全能の切り札ではないものの、きわめて有力な判断基準であることは間違いありません。

 また、『隋書』であれ何であれ、日本に関する情報を中国人が書きとどめる場合、どうしても中国流の書き方になりがちです。この場合、文章自体は標準的な漢文で書かれていても、その情報元となった文献はどのような日本風な書き方で書かれていたか、それをどのように改めたかを推測する必要がありますので、その意味でも和習の研究が必要となります。

 こうした点について考えるうえで有益なのが、

郭穎「『東瀛詩選』における兪樾[={木越}]の修改--「和習」について--」
(『中国学研究論集』20号、2008年4月)

です。

 清代末期のすぐれた学者であった兪樾[={木越}](1821-1907)は、岸田吟香の依頼によって送られてきた江戸時代の漢詩を編纂し、『東瀛詩選』を編集したことは有名ですが(私の大好きな亀田鵬斎の漢詩を評価してくれているので嬉しい……)、郭穎氏によれば、その際、かなり語句を改めているとのことです。郭穎氏は『東瀛詩選』のそうした修改に関する一連の論文を書くうちに、日本漢詩の特徴、和習と呼ばれるものの実態が明らかになってきた結果、「単なる語法上の問題ではなく、日本の独特な風習、感覚や美意識の産物」の場合も多いと考えるようになった、ということで、上記の論文を発表されるに至った由。

 たとえば、日本の漢詩が「茶」の「煙」という表現をお茶の湯気の意で用いているのに対し、中国では「茶煙」は茶を煮る時の煙りを指すとか、中国では「東西」の語が普通であるのに、日本では「西東(にしひがし、にしひんがし)」も用いるとか、中国では「何々しよう」と誘いかける「勧」と、何かを進上する意の「進」を区別しているのに、両方とも「すすめる」と訓む日本ではそれを混同していることがある、などという場合は、『東瀛詩選』が日本の漢詩の表現を直すのは自然です。

 ところが、そうしたものとは異なる修改があります。たとえば、日本では『古今集』の序が示すように、蛙は歌を唱うものとされていたため、江戸前期のある儒者は、「グワァックグワァック」と鳴く春の「蛙」は実は『論語』の決まり文句である「子曰わく、子曰わく」を「唱」っているのだから騒がしいととがめないでほしい、という冗談めいた漢詩を詠んでいます。これに対して、中国では「蛙」はうるさい「声」で鳴く生き物と見るのが普通であるため、『東瀛詩選』は、「蛙の鳴き声が遠いため、幸いに騒がしくなくてすんでいる」という意の句にしており、状況そのものを改めてしまっているそうです。その他、漢詩中の語が日本の地名であると分からず(あるいは中国風な地名と異なるため?)、文字を改めて漢文として意味が通るようにしてしまった箇所もあるとか。

 そういえば、大学院の入試の漢文に「大自在天」の語が出てきたものの、仏教経典に見える神、マヘーシュヴァラのことだと分からず、「大いに自ら天に在り」と訓み下してしまったと笑っていた古代中国思想専門の先輩がいたっけ……。漢文自体はよく読める人でしたが、分野が違うとそうしたことが起こりがちです。

 それはともかく、三経義疏であれ、『日本書紀』であれ、漢文で書かれているものについては、平安時代あたりからの訓読の伝統を考慮しつつも、まず漢文として語法と語彙に注意しつつ読むべきですね。和習たっぷりの湯岡碑文などは、まだきちんとした校訂本文が作られておらず、明らかに誤った句読や訓が用いられているのですから、そんな状況で内容や製作年代について断定するのは危険でしょう。