聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

本日の発見:「憲法十七条」と『孝経』の関係がらみ

2010年06月05日 | 聖徳太子・法隆寺研究の関連情報

 日本道教学会の学会誌、『東方宗教』の最新号が届くのを待っております。  昨年の道教学会大会で発表した「聖徳太子伝承中のいわゆる『道教的』要素」(中心は大山誠一説批判です)が載っているため、刊行されたらここで内容を紹介し、論文のPDFファイルも公開しようと思っているのですが、なかなか来ませんね。雑誌が届いても、抜刷やPDFファイル入りのCD-ROMが送られてくるのは、さらに1週間とか10日とか後になるかもしれません。

  しかし、待ってばかりもおれないため、最新も最新、先ほど発見したばかりのことをご報告しておきます。ただ、マイナーな文献が対象なので、関連する「憲法十七条」の方を本日の題名としておきました。

  第一回目の5月24日の記事では、百済の弥勒寺跡から発見された「金製舎利奉安記」の文句が上宮王撰とされる『維摩経義疏』と一致することを紹介しました。「百済王后」の発願によるその奉安記では、舎利について説くにあたり、釈尊は「生を王宮に託し、滅を雙樹に示(託生王宮、示滅雙樹)」して舎利を残した、と述べています。「託生王宮」という言い回しは、中国仏教文献に多少見えており、その句の直後で沙羅双樹のもとでの涅槃に触れている文献も僅かながらあるのですが、「生を王宮に託し、~を~樹に示す」いう形になっている文献は大正大蔵経にはありません。ところが、本日、そうした文献を発見しました。

  敦煌出土の地論宗文献、Φ180です(大英博物館主導の「国際敦煌プロジェクト」サイトで画像を見ることができます。便利になりましたね)。この文献は、仏教教理用語辞典の類であって、教科書として広く用いられた綱要書の一つです。Φ180では、三宝について説明するにあたり、「託生王宮,現成道樹(生を王宮に託し、成[道]を道樹に現わす)」と述べています。「道樹」とは、菩提樹のことです。

  この文献は、北地の地論宗の文献なのですが、「経」という語を説明するに際して、次のように述べています。 「経者常也 。雖復先賢後聖、代謝不同、而君子風化、始終常定、故名為常。」 つまり、賢者も聖人も次々に生まれては死んで代わっていくとはいえ、君子の教化というものは常に一定していて変わらないため、だから「経」のことを「常」という意味に解釈するのだ、というわけです。5月30日の三経義疏の記事でとりあげた三経義疏の冒頭部分と似ており、特に『維摩経義疏』の、 

 「経者、訓法訓常。聖人之教、雖復時移易俗、先聖後賢不能改其是非。故称常。」 に近いですね。これが、南北朝から隋あたりの一般的な解釈です。  ここで大事なのは、 三経義疏では「時移易俗」という倭習の形で書かれた部分は、直接には中国仏教文献中の「経」の説明に基づくものの、その更に元は、『孝経』であることです。『孝経』広要道章では、「移風易俗、莫善于楽。安上治民、莫善於礼。礼者敬而已矣。(風を移し俗を易[か]へるには、楽[ガク]より善きはなし。上を安んじ民を治むるは、礼より善きはなし。礼は敬のみ)」と述べています。すなわち、風俗を変えるには音楽ほど善いものはなく、上流階級と庶民を安定して治めるには「礼」ほど善いものはない、その「礼」とは「敬」にほかならない、というのです。

  『孝経』では、さらに、父を敬えば子供たちが悦び、兄を敬えば弟たちが喜び、君を敬えば臣下すべてが喜ぶ。一人を敬えば千万人が悦ぶのだから、これこそが政治の「要道」だと説いています。「礼」とは上下の区分を定めるものであり、「楽[がく]」とは上下の対立を「和」するもの、というのが、儒教の常識です。ここまで読めば気づいたかもしれませんが、これはまさに「憲法十七条」冒頭の議論にほかなりません。「憲法十七条」はなぜ上下の「和」や「君父」に従うべきことで始まるのか、なぜ「三宝を信ぜよ」ではなく、「三宝を敬え」となっているのか。なぜ、これらの条に続いて「礼」が強調されるのか。それはもちろん、「憲法十七条」の前半部が『孝経』の図式に基づいて書かれているからです。

  このことについては、2007年に発表した論文中で指摘しておきました。この論文については、いづれ取り上げて説明しますが、聖徳太子に関する基本資料中の基本資料である「憲法十七条」ですら、典拠などの調査がまだ不十分であって、きちんと読めていないのが実状なのです。そうした状況で断定的な結論を下すのがいかに危険であるかは、言うまでもないでしょう。