聖徳太子研究の最前線

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玉虫厨子の源流を追って : 上原和『法隆寺を歩く』

2010年06月23日 | 論文・研究書紹介

 玉虫厨子について触れた以上、上原和先生の新刊、『法隆寺を歩く』(岩波新書、2009年12月)にも触れないわけにはいきません。

 85歳の誕生日を前にして、「五十余年にわたる法隆寺研究の集大成とも云うべき本書」(あとがき、213頁)を書き上げた上原先生の熱意には感嘆するばかりですが、末尾の文献一覧を見れば明らかなように、利用されている文献の多くは、70年代、80年代頃までのものが多くなっています。

 ですから、本書は、玉虫厨子に魅せられ、解体調査にも立ち会い、百済や新羅の遺跡、さらには北朝鮮の高句麗の遺跡、敦煌、ソ連、アフガニスタン、インド、パキスタンその他の諸国・諸地域をめぐってその源流を調査した情熱的な美術史家の貴重な体験譚とそれに基づく見解を知る、という点を主にして読むべきでしょう。諸国・諸地域の捨身飼虎説話やその図における虎の子の数が違う原因をつきとめた部分などは、まさに執念のたまものです。

  また、敦煌莫高窟を調査した際、晩唐の第九窟の主室龕内の背面に、『金光明経』の本生譚と『涅槃経』の雪山婆羅門の本生譚、すなわち、捨身飼虎図と施身問偈図が左右に描かれており、まさに玉虫厨子と一致することを発見した時の描写は感動的です。作成年代としては、玉虫厨子の方が古いですが、この敦煌の壁画によって、玉虫厨子の手本となった図が中国にあったことを知ることができるのです。

 最新の発見としては、2004年に発掘されて話題となった斑鳩寺(上原先生は、「鵤寺」の表記を用いてます)の火を浴びた彩色壁画片について、天寿国繍帳の「僧侶たちの下裳を連想させる衣装の縞模様」や「蓮華座をおもわせる蓮弁の先端」に似た図柄があった由(70頁)。

  一方、「おそらく、推古天皇は甥の聖徳太子を偲んでは朝な夕なこの玉虫厨子の前に跪いて合掌していたことと思われます」(78頁)とか、橘夫人厨子は「三千代が美努王と暮らしていた時分に、聖徳太子の奉為の念持仏として寄進したものと、私は推測しています」といった部分などは、ロマン的な推測であって、十分な論証がなされているとは言いにくいものがあります。ただ、そうした場合は、上記のように、「思われます」とか「推測しています」と書いておられます。また、書物についても、これこれについては何年に読んだが、これこれは読んでないとか、これこれの面は分からない、などと正直に書いているのが上原先生らしいところです。

 「法隆寺を歩く」という題名になっているのは、西洋美術研究者であった32歳の時、学生たちと法隆寺を訪れて衝撃を受けて以来、70歳の定年に至るまで、毎年、学生たちを引率して法隆寺や大和の古寺を訪れてきた体験を生かし、美術史のガイドをしてもらいながら実際に法隆寺を歩いて回っているような形で書かれているためです。個性ある本と言えるでしょう。

  なお、上原先生の聖徳太子観については、公開講演「 『憲法十七条』と現代 -聖徳太子の “甲子革政"について-」(『駒澤大学 仏教文学研究』7号、2004年3月)がネットで公開されています。